第四幕:大切なもの
説教くさいハリルとの退屈な勉強が、午前で切り上げられた理由を知ったとき、カッシーアは動揺して、勉強のほうが数十倍ましだと思った。父の懇意にしている大臣がやってきて、「王様がお呼びです」と告げたのだ。
一人きりで父に呼び出されたことなど、生まれてこの方、一度もない。一体なんの話だろうと緊張に固くなりながらも、カッシーアは孔雀の髪飾りを留めて、謁見の間へと急いだ。
「来たか」
石榴の樹を織り込んだ絨毯の前に辿り着くと、カッシーアが挨拶をするよりも早く、父が気づいて顔を上げた。隣にマクリダが座っている。カッシーアは慌てて膝をつき、父の爪先まであと五十歩はあろうかという距離から、深々と頭を下げて声を張り上げた。
「お呼びでしょうか、お父様」
「うむ、よく来た。もっとこちらへ座りなさい」
まさかマクリダも揃っているとは思わなかった。だが、父と二人きりというのも、それはそれで緊張する。マクリダがいてくれて良かったかもしれない、と感謝しつつ、カッシーアは絨毯の上を進み、父の指し示した椅子に腰かけた。
「良いドレスを着ているな」
「あ、先日仕立てていただいたもので……」
「年頃の娘らしく、お前の雰囲気にもよく似合っている。ときに、髪はどうした?」
「え?」
「ついこの間、見たときは、腰まであったような気がしていたが」
マクリダは父の言ったのを聞いて、初めて髪に目が留まったらしい。片側に孔雀の羽根を飾ったカッシーアの髪が、肩甲骨の下までしかなくなっているのに気づいて、まあと驚いた声を上げた。
「昨夜、蝋燭の火がうつってしまったんです。焦げてしまったので、宮女に頼んでこのような長さに」
「なんと。危ないところだったな」
「怪我はなかったの? 部屋は大丈夫?」
「はい、おかげさまで。すぐに火は消えましたので、問題ありません」
カッシーアは焦って裏返りそうになる声を、どうにか落ち着かせて、申し訳なさそうに言った。二人は彼女の言葉を信じ、大事に至らなくてよかったと言い合って、ほっとしたように目を見合わせた。
その様子に、カッシーアはふと、自分が呼び出された理由を感じ取った。
「お前の身に何事もなく済んで、本当によかった。大きな怪我でも負っていたら、この話はまた機会を改めなくてはならなくなっていただろう」
「お父様、私へのお話というのは?」
「見せたいものがあってな。カッシーア、これを」
父が肘掛けの間から、額縁をひとつ取り出して渡した。受け取って、中を見たカッシーアの目が、そこに描かれている青年の目と重なった。
肖像画だ。大きなものではないが、質の良い装飾がされた額縁に収まっていて、絵そのものも単純ながら出来がいい。一目見て、どこかの王族の肖像画だと分かった。じっと見ていると、父に代わって、マクリダが口を開いた。
「素敵な方でしょう? 知的で、優しそうな目をしていて、思慮深そうな印象よね」
「はい」
「アザールの王様の、弟君の次男だそうよ。王様からみたら、甥御さんということね」
アザールといったら、イスタファが国境を接する五つの国のうちのひとつで、つまり隣国だ。思いがけず国交の深い国の名前が出て、カッシーアは額縁の中の青年から、マクリダに視線を向けた。マクリダは微笑んで、話さない。促されたように、父が先を語った。
「先日、彼は交易品に関する条約の使者として、我を訪ねてきてな。その際、西の廊下を歩いていたお前を見かけて、国に帰ってからもお前の話ばかりしているという」
「それは……」
「ゆえに一度、こちらで彼の父上と共に、食事に招くことになった。お前にも同席してもらいたいと思っている。意味は分かるな?」
「会って、少しお話をしてみるだけでいいのよ」
マクリダが父の言葉を補って、ね、と首を傾げた。カッシーアの顔色が優れないことに、いち早く気づいたのだろう。
カッシーアは自分でも戸惑うほど、何と返事をしたらいいのか、頭が真っ白になってしまっていた。つまりは、縁談ということだ。王族同士の結婚など、突然に決まるものがほとんどで、食事会という名の顔合わせがされるだけ恵まれたほうかもしれない。まして、相手はカッシーアに対して、少なからず好感を持っているという。
悪くない話だ。頭ではそう自分の声が響いているのに、声の出し方を忘れた人のように、返事をすることができなかった。体の奥で蘭の匂いがこぼれて、噎せ返りそうになる。気の遠くなるような錯覚の中、無意識に口を開いて、カッシーアは答えた。
「とても、有難いお話だと。ですが私……私がそれを受けてしまったら、あの人が……」
「カッシーア?」
父の声が、蘭の錯覚を打ち消した。カッシーアは自分が何を口走ろうとしたのか気づき、蒼白になって、かぶりを振った。
「すみません、驚いてしまって。喜んで同席させていただきます」
「おお、そうか。助かるぞ」
「よい時間を持てるよう、精一杯努力いたします。よろしくお伝えくださいませ」
父の声色が明るくなり、マクリダの頬に微笑が浮かぶ。カッシーアの言いかけたことは、二人にはよく聞こえていなかったようで、胸を撫で下ろした。心臓が気味悪く、どくどくと逸っている。本当に、何を言おうとしていたのか。カッシーアは振り返って、自分に呆れた。
(恋人が悲しむから、お断りしたい、なんて。私に恋人はいないのよ。一体何を混同しているの)
あのとき、ミカエルがいることを分かっているくせに、どうして父が縁談を持ってくるのだろうと思ってしまった。ワイアットと父、ワイアットの娘であるカッシーアとイスタファのカッシーアとが、一瞬、混ざりあって分からなくなっていた。
ミカエルはここにいない。当たり前のことなのに、彼の名前を口走りそうになってしまった。彼がいるから、縁談は受けられないと。縁談の話だと予想もついていたくせに、危うく拒みそうになった。
(……しっかりしなきゃ。あと一晩の、夢なんだから)
カッシーアは二人から見えない位置で、自分の太腿を抓って、意識をどうにかすっきりさせた。そうして肖像画の青年について、名前や趣味など、食事会での会話のきっかけになりそうなことをマクリダから教えてもらった。
「やあ。来るころだと思ったよ」
灰色の空間に、浮かぶ紫の影がひとつ。目を開けると、カッシーアを見下ろして楽しげに微笑む。
「待たせたかしら?」
「いや? 今来たところ」
いつかの夜をなぞって訊ねれば、夢売りも同じ夜をなぞって返した。ふ、とカッシーアの唇の端が、小さく上がる。
「同じ夢でいいのかな?」
「ええ、お願い」
夢売りは分かりきったことを訊くように、軽い調子で問いかけた。カッシーアもすぐに目を瞑って、準備に入る。
ウードを膝に抱える音が、他には一切音のない空間に響いた。夢売りはいつもと何も変わらない。最後の夜だということも、今朝のささやかな喧嘩についても、あってないことのごとく触れる気配を見せなかった。
カッシーアも触れなかった。夢売りが何か言ったら今日までの礼を言うつもりだったが、いつも通りに終わっていくというのなら、それが一番心地いいような気もしていた。
今日が終わったら、カッシーアの心の中にある、外の世界への憧れは消えていく。自分から外への想いを取ったら、後には何が残るだろう、と思う。それを食べる夢売りに、どんな言葉をかけるのが適当なのか――ありがとう、お粗末様、さようなら――考えても丁度いいものが見つからなかったというのも正直なところだ。
(最後、か……)
天井から漠然と下りてくる寂しさに、ため息をついたカッシーアの耳に、夢売りの声が響いた。
「それじゃ今夜も、一夜の夢幻を」
この言葉で眠るのだって、これで最後だ。
遠く、訓練場から兵士たちの声が聞こえている。どうやら城の廊下に目を覚ましたようだと、カッシーアは何度か瞬きをして、辺りを見回した。思った通り、城の南側の柱廊に出たらしい。周辺には誰もおらず、一人で立っていた。
「あ……」
自分の体に視線を下ろして、カッシーアは諦めを含んだ声を漏らした。イスタファの体だ。昨夜、夢の最後に見せたのと同じ、本来のカッシーアの姿になっている。予感はしていた。一度加えたスパイスは、もう取り除けない。夢売りは、カッシーアが手を加えてしまった部分を修復してくれるつもりはないのだろう。
ふと、メイドが慌ただしく庭を駆けていくのが見えて、柱の陰に身を隠す。
(ここにいたら、誰かに見つかってしまうわね。移動しないと)
異国のドレスを身に纏った、誰も顔を知らない女など、不審な人物以外の何物でもない。捕まってしまう前に、身を隠せるところへ行ったほうがいいだろう。
カッシーアはメイドがいなくなったのを確認して、柱廊を足早に歩き始めた。突き当りの角まで行けば、ミカエルの執務室がある。途中、人の話し声や足音に何度となく立ち止まりながら、どうにか辿り着いてノックをした。
幸い、中からはすぐに返事があった。カッシーアは名乗る余裕もなく、急いで部屋に滑り込んだ。
「カッシーア。その姿は……!」
机に向かっていたミカエルが、驚いたように顔を上げた。
「見ての通りよ。私が勝手に魔法を解いたから、魔法使いを怒らせてしまったのかも。もうあの姿には戻れなくなっちゃったわ」
「そんな……、すまない、私はそんなつもりで見せてくれと言ったわけでは」
「いいの、分かってる。それに、私だって貴方に、本当の自分を見てほしかったのよ」
とんでもないことをしたと青ざめているミカエルに、カッシーアは本心からそう告げた。嬉しかったのだ。ミカエルが本当の姿を知りたいと言ってくれて、綺麗だと受け入れてくれて、本当の姿で彼の恋人になれたことがとても嬉しかった。
だからだろう。さっき廊下で、姿が元に戻っていないのを見たときも、彼女はそれほど驚かなかった。後悔がないからだ。夢の浸食は確かに恐ろしかったが、昨夜、ミカエルの頼みを断っていたら、もっと大きな後悔をしていただろうと思う。
「とはいえ、こういうわけだから」
「カッシーア?」
「もう、このお城にはいられないわ」
廊下を警戒して声をひそめ、カッシーアは申し訳なさげに言った。城内で人目を避け続けられる場所はない。とりあえず匿ってもらったが、この執務室だって、人が訪ねてくることはあるだろう。
「どこへ行くつもりなんだ」
ミカエルが、思わずといった様子でカッシーアの肩を掴む。
「心配しないで。そう遠くへ行くわけじゃない」
「しかし……」
「街へ行くわ。名前を変えて、お城のふもとでどこか、暮らせる場所を探すつもりよ。大丈夫、今の私を見て、カッシーアだと気づく人はいないもの。ここさえ出てしまえば、もう見つからない」
ただ城という壁を一枚、出るだけだ。カッシーアはミカエルを抱き寄せて、安心させるように落ち着いて語りかけた。今までに比べれば会える時間は少なくなるだろうが、捕まって牢に繋がれるよりはずっといい。
最後の夢がどれくらいの長さになるか、分からない。人目を忍んで隠れ暮らすよりは、町娘になって、彼が会いに来るのを堂々として待ちたいのだ。
「一人で行くのか?」
「ええ、そうよ。そうなんだけれど、お城を抜け出すのだけ、手伝ってもらいたくて」
「勿論だ。そんな危険なこと、貴女一人ではやらせられない」
カッシーアの態度に、もう腹が決まっているのを感じたのだろう。彼女の背中に回していた腕を緩めると、ミカエルは自分も決心をつけたように、協力する姿勢を見せた。礼を言って、カッシーアはさっそく裏口の場所や街との位置関係など、必要な情報を訊ねた。
ミカエルはそれにひとつひとつ答えていたが、だんだんと歯切れが悪くなり、ついにはカッシーアを見つめたまま押し黙ってしまった。
「ミカエル?」
門へ向かう道筋を紙に書き留めていたカッシーアが、彼の声が途切れたのに気づいて顔を上げる。ミカエルは数秒、じっとカッシーアを見た。そうして一人で頷くと、組んでいた腕をほどいて笑った。
「いや、やはり私も行くことにしよう」
「ついてきてくれるの?」
「どこへなりと。もっとも、私では兵士たちに顔が知られているから、城下の街に留まっているわけにはいかない。貴女一人でいるよりも、苦難を強いることになるかもしれないが……」
カッシーアは始め、彼の言っている意味がよく分からなかった。ミカエルは自分を「街まで送って」くれるのだと思っていたからだ。
まさか、と会話の食い違いに気づいて大きく見開かれた目を、ようやく分かったかというように、ミカエルが優しく見下ろした。それで確信した。彼は、カッシーアと共に城を抜け出し、二人で生きていこうと言っているのだと。
「だめよ、私のためにそこまでさせられない」
「何が貴女のためなものか。言っただろう、貴女一人ならばどこででも暮らしていけるのに、わざわざ私と逃げてくれと頼んでいるんだ。貴女が心配だからではない。私の意思だよ」
「気持ちは嬉しいけれど……! でも、そんなことをしたら、貴方は……」
その先は言葉にならなくて、カッシーアはただ、信じられない思いでかぶりを振った。自分と一緒に来るということは、親衛隊長の座を放棄して、ワイアット王を裏切るということだ。街には彼を捜索する兵士が溢れ、様々な追手と憶測が飛び交うだろう。消えた王女との駆け落ちと見做されて、罪人として探されるかもしれない。
信頼、地位、未来。彼が築いてきた輝かしいものを、すべて失うということだ。
そんなこと、させられるはずがない。頭ではそう理性が謳っているのに、カッシーアの心臓は、動揺だけで高鳴っているのではなかった。
「貴女の前では落ち度のない自分でいたくて、必死で教養のあるそぶりをしてきたが」
どうしたらいいか分からなくて、黙ってしまったカッシーアの代わりに、ミカエルが口を開く。
「私が元々、貴族でも何でもないことをお忘れではないか? 平民育ちの、ただの馬飼いの息子だ」
「あ……」
「城の外へ出ることなど、私にとっては、昔の暮らしに戻るだけ。本来の姿に、戻るだけのことだよ」
ミカエルの手が、カッシーアの黒髪を一房、掬って落とす。彼女にかかっていた魔法が解けるように、元の姿を取り戻すのは恐ろしいことではないのだと、暗に語りかけるように。
「それとも貴女は、親衛隊長でなくなった私には、もう笑いかけてはくれないのかな?」
からかうような笑みを滲ませたその顔を見ていれば、彼が本気で言っているのではないことくらい、カッシーアにも分かった。カッシーアを怒らせて、決心をつけさせようとして、わざと言っているのだ。
優しさが余計に目の奥を熱くさせて、ぎりぎりの縁で堪えていた堰を崩していく。白くなるほど噛みしめていた唇を開いたら、要石が外されたようにとうとう涙が溢れた。
「馬鹿なこと言わないで」
カッシーアは泣きながら、ミカエルの胸に拳を押しつけた。
「立場なんて、関係ないに決まっているでしょう。どこにいて何をしていても、私は、貴方だから好きになるのよ」
身分も、肩書きも関係なく。ただその人の存在にする恋など、自分の人生には起こりえないことだと思っていた。されることだって、考えたこともなかった。
押しつけたまま、叩くこともできず胸の上に置かれているカッシーアの手を、ミカエルが引き寄せる。カッシーアの涙が彼のシャツと、間に挟まった彼女の髪を濡らした。止めようとして息を詰めている、壊れそうな背中を撫でながら、ミカエルは静かな声で言った。
「今夜、日が沈んだらここを出よう」
カッシーアは頷いて、そっと顔を上げた。重なり合った視線が、互いの目の奥にぼやけていく。中庭を通るメイドたちの声を壁の向こう側に聞きながら、見えない糸に引っ張られたように、どちらからともなく口づけをした。
髪を耳にかけられる気配で、浅い眠りの淵を漂っていた意識がふと、水面を破る。二度三度とまばたきをしたカッシーアの目に、屈めた体を支える手の甲が、薄明りに照らされて映った。
「起きたか?」
「……ミカエル?」
「そろそろ日が落ちる。先に行って、門番に用事を言いつけておくから、貴女も日が沈みきったら出て来てくれ」
謀を囁く声が、耳たぶにくすぐったい。身をよじったカッシーアの肩をぽんぽんと撫で、彼女の上にかかっていた影は、静かな軋みと共にベッドを降りた。クロークを開ける音、タイを通す音などが響いて、やがてドアを開け、足音が遠ざかっていった。
(時間だわ)
夢現にその気配を追っていたカッシーアの目が、はっきりと開く。時計を見れば、もうすぐ夕方の六時だ。黄昏がちょうど夜に変わる、人影が暗闇に輪郭をぼかされて、一秒ごとに見えなくなっていく時間帯である。
カッシーアは起き上がって、ベッドを抜け出し、身支度を整えた。長い黒髪をひとつに結んで、三角に折ったレースのハンカチを被る。イスタファ製の透けるような絹を折り重ねたドレスを脱ぎ、代わりにエプロンとワンピースを身につけた。
この城に勤める、メイドの格好だ。昼間、ミカエルが衣料庫から取ってきたものである。靴と靴下は見つけられなかったと言い、足元だけはイスタファの靴を履いていて怪しいが、遠目に見られたくらいではそれほどおかしく見えまい。カッシーアは外の様子を窺いながら、思い切ってドアを開けた。
廊下には右にも左にも、誰の姿もなかった。ちょうど、メイドの多くは食事の時間に当たるし、兵士たちは交代で忙しないときである。
頭の中に地図を思い描いて、カッシーアは駆け出した。目指すのは城の裏手にある、武器や食料などの搬入用の出入り口だ。緊張に呼吸が浅くなり、長いスカートが何度も足に絡んで縺れながら、永遠にも思える長い廊下を一思いに駆け抜けた。
(ここを出たら、私はもう、王女じゃない)
角を曲がり、ひと気のなくなった訓練場の横を通りながら、カッシーアは漠然としていた自覚が一足ごとに強くなっていくのを感じていた。今の彼女は、立場はワイアットの第四王女、姿はイスタファの第十四王女だったが、この国においてもはやそれを分かる者はない。何者でもない存在になっているのだという想いが、カッシーアの中に燃え上がった。
それは城壁のむこうへ踏み出すとき、自由という名の大きな炎になって、カッシーアのこれまでの人生を黄金のとぐろで焼き尽くすことだろう。そして傍には、更地になった人生を共に歩んでくれる人がいる。
どんな嵐がやってきても、大丈夫だと思えた。身を切るような風、心を凍らせるような雨に打たれても、二人が二人である限り、どこまでも行ける気がした。カッシーアは走りながら、いつかハリルに聞いた、大地がひとつの球体であるという仮説を思い出した。あのときは馬鹿にしてありえないと一蹴した話を、遠く、遠く、どこまでも行って、確かめてくるのも悪くない。
もう、それができる自分になるのだから。
最後の角を曲がって、カッシーアは彼方に目指していた門を見つけた。青銅の細い門は暗闇に溶けかかっていて、沈んだ太陽の残した最後の光で、かろうじて輪郭を保っている。門の外側に、背中を向けたミカエルの姿を見とめて、カッシーアはいっそう強く地を蹴った。彼は門兵の武装をして、藍色に覆われた眼下の街を静かに見下ろしている。
ミカエル、と大声で呼びたい気持ちを堪えて、ほどけたレースのハンカチを脱ぎ捨てたとき。背後から、緩やかに爪弾かれるウードの音色が迫ってきた。
(嘘っ、今なの……!?)
三秒で、世界が姿を変える。無慈悲なカウントダウンはカッシーアが一秒を数えはじめるよりも早く、彼女の意識を溶かし始め、視界が抽象画のように滲んだ。嘘だ、とかぶりを振って、カッシーアは尚も走り続けた。門は確実に近くなっていて、けれど駆け慣れない足には、あまりに遠い。
(待って! お願い、待ってよ!)
呼吸が乱れ、空気が足りなくなって、体の奥がきりきりと悲鳴を上げた。その痛みさえ、ウードの音が水滴を落として、ぼやかしていく。感覚という感覚が、うやむやになっていく。世界がひどくゆっくりと流れていく気がして、カッシーアは無意識に、滲んだ視界の中心へ手を伸ばした。
(私は、あの人と――――)
決めたのだ。
約束したのだ。
どこまでも二人で、共に行こうと。
唇が何かを叫んで動く。最後の瞬間、カッシーアにはもう叫んだ自分の声さえ届かなかったが、突き出した手の先で、月色の影が振り返った気がした。
ばっと、跳ね起きた勢いで、カッシーアは目を覚ました。灰色のカーテンに、手が伸びている。
たった今まで全力疾走をしていたかのように、荒い息切れをしていて体中が痛い。胸が破れそうな鼓動を走らせていた。ドレスに飾りつけられた石に手を当てて、カッシーアは大きく目を見開いたまま、息の仕方を取り戻すように深い呼吸を繰り返した。
「おかえり」
弾かれたように顔を上げると、灰色の天井近くに、夢売りの姿がある。宙に浮かんだまま胡坐を組んで、ふうと紫煙を吐き出し、夢売りはパイプを帯に差してにこりと笑った。
「最後の夜は楽しかったかな、黒曜の姫」
「あ……」
「ずいぶん濃い隈ができているけど。もしかして、あまりいい終わりじゃなかったとか?」
どこからどこまで知っているのか、夢売りは何も見ていないようにも、すべて見ているようにもみえる。夢売りはまだ呆然自失の中にいるカッシーアの前に降りてくると、彼女の顔を覗き込んで、うん、と頷いた。
「でも、仕方ないね。最後は最後だ」
褐色の肌に纏った、紫色の薄い布地の隙間に手を突っ込んで、透き通ったものを取り出す。それはカッシーアが最初に渡した、ガラスの髪飾りだった。
目にした瞬間、彼女の虚ろだった瞳孔に、はっきりと意識が宿った。
「待って!」
「おっと」
ひったくるように、カッシーアの手が髪飾りへ向かう。夢売りはわずかに驚いた表情を浮かべたものの、身を躱して、一段高い場所から怪訝そうに彼女を見下ろした。
宙を掻いたカッシーアの手は、ガラスの川面に叩きつけられて、巣から落ちた雛のように震えていた。その震えが次第に、肩までのぼってくる。
「お願い、お願い……、待って。食べないで」
「ん?」
「その髪飾りを返して。私の〈想い〉を、奪わないで……!」
涙声の叫びに、夢売りは今度こそ、蜂蜜色の双眸を瞠った。
十二夜が明けようとしている今、夢売りはカッシーアの髪留めに宿った、彼女の〈外の世界への想い〉を喰らおうとしている。そういう契約だったのだから、当然の行為だ。
でも、カッシーアは今、それが何よりも恐ろしいことだと気づいていた。外の世界への憧れを失くすということは、すなわちミカエルのいた世界への憧れも失うということだ。あの世界に行きたいという気持ちを失くしてしまう。そうしたら二度と、彼に会うこともなくなってしまう。
「お願い、夢売り。私の想いを壊さないで。どうかもう一度、いえ、もっとずっと、私をあの世界に行かせて」
「行って、どうするの?」
「あの人と旅をするのよ。どこまでも、どこまでも一緒に行くって約束したの」
カッシーアの脳裏には、最後に見たミカエルの後ろ姿が、刻印のように焼きついていた。暗くなっていく空の下、青銅の門に背中を預けて、カッシーアを待っている姿が。
彼女は、こんなところにいてはいけないのだ。一刻も早く、門番が彼に言いつけられた用事のおかしなことに気づいて帰ってくる前に、門を越えて彼の元へ行かなくてはならない。
いてもたってもいられない様子のカッシーアを見下ろして、夢売りは手のひらで、ガラスの髪飾りを跳ねさせた。
「つまり取引を反故にして、その上、まだ夢を見たいって?」
「都合のいい話よね」
「並の神経じゃ言えないくらいにはね」
「分かってる。謝って済むはずのない我儘を言っているのよ。でも、教えて」
「何だい?」
「貴方にはそれが、可能でしょう?」
黒く、濁っているのにまっすぐな目で射抜かれて、夢売りの唇が三日月を描いた。できる、と答えているのと同じ表情だった。
カッシーアは一度立ち上がって、夢売りの目線に近づき、その場に跪いて頭を垂れた。ドレスの袖が床に広がり、川面の青や桃色を幻のように透かして光った。
「できないことはないよ」
「じゃあ……!」
「ただし。君の一番大切なものを、代わりにもらうことになる」
顔を上げたカッシーアの喉に、ガラスの花が押しつけられる。薄い皮膚が押し込まれて、彼女は思わず息を呑んだ。
やがてその肩が、小さく震えはじめる。口角を上げ、眦を細め――カッシーアは笑っていた。
「貴方って、結構面白いことを言うのね」
「黒曜の姫?」
「一番大切なものって何かしら。命、愛? 財産? 純潔、信仰? それとも何?」
覗き込む夢売りの眸の中、カッシーアの笑みはいっそう深くなっていく。
「どれもこれも、私にはあってないようなものだわ。自由がなければ、すべては無意味よ。持っていたって、この世界では好きに使えないものばかり」
自らのすべては、父とイスタファのものだ。カッシーアは喉に食い込む髪飾りを気にも留めず、身を乗り出して、夢売りに囁いた。何不自由なく満たされて生きてきた。どんな宝石も、望めば手に入った。でも、いつも心の奥に満たされない穴がある。
光り輝くものたちに囲まれた、自由の台座は、永遠に空のままだ。
どんなに探したところで、この世界では手に入らないそれを、ミカエルと見つけに行くのだ。どこまでも遠く、どこまでも長く。
「何だってあげるわ。あの世界に行けるなら」
「……へえ。本気?」
「本気よ。だって、約束したの」
閉ざされた門を飛び出して、どこまでも、行くのだ。
「――あの人が待ってる。お願い、早く私を行かせて」
姿や立場や名前をいくつ失ったとしても、二人でいれば、何も恐れることはない。
笑顔で言ったカッシーアの目から、大きく平たい涙がいくつも零れ落ちた。なぜ泣いているのか自分でも分からなかったが、カッシーアの胸は、そんなことよりもミカエルの後ろ姿でいっぱいだった。彼が待っている。今このときも、カッシーアの来るのを、空から消えていく一筋の橙色を見つめながら、今か今かと待っていることだろう。
カッシーアは行かなければならなかった。何を置いても、今すぐにそこへ行かなければならなかった。
夢売りの目に、深い光が灯る。
「分かったよ。そうまで言うなら、君の望みに応えよう」
「夢売り……」
「黒曜の姫、またの名をカッシーア。君は少し、ザフィに似ている」
え、と聞き返そうとしたカッシーアの視界を、夢売りの手のひらが覆った。途端、瞼が磁石のように重く引き合わされ、急速な眠気に襲われていく。
「強くて美しくて真っ白い、大きな翼。王宮の檻が小さすぎて、雁字搦めで息もできない。生まれたときから思っていたよ」
ウードの弦にかかる指を、久しぶりに見た。
「おやすみ。千夜より深い夢を」
カッシーアは最後に夢売りの顔ももう一度見ようとしたが、それは叶わなかった。代わりに見たのは、風に舞い上がる、赤くてうねった自分の髪。
やがてそれは藍色の夜風に代わって、どこからともなく蘭の香りが混じる。追いかけようと腕をもがいて、カッシーアの意識は夜に呑まれた。