第三幕:白い鳥の夢
翌日も、翌々日も、カッシーアは同じ夢を望んだ。夢売りは却って世界を創る手間が省けると言って、彼女の願いに応えた。
夢の中では一晩が一日であったり、一ヶ月であったりした。カッシーアはすっかり王女としての暮らしに慣れ、ワイアットと親しみ、時には公の場に出ることも楽しみながら、合間にミカエルとの時間を重ねていった。
長い夢から覚めると、むしろ起きたあとの世界のほうが夢なのではないかと思ってしまうことがある。夢の中で何度も歩いた柱廊や庭の風景が、ふとしたときにイスタファのそれと重なり、非現実が現実をひたひたと侵食する。
「カッシーア様?」
「……あ、ごめんなさいハリル。ぼうっとしていたわ」
今も、勉強部屋の風景がミカエルの執務室と重なって、二つの景色があやふやに溶け合っていくのを、カッシーアは楽しんでいた。ハリルの声で現実に引き戻されて、ああそうだ、〈今日〉はイスタファにいるのだった、と思い出す。
もっとも、それもあと数時間の話だ。晩餐の後には、また向こうの世界へ旅立つ。今夜はミカエルと、庭園を散策する約束をしている。
「まったく、近頃のカッシーア様は、物静かにはなられましたが上の空が多すぎます。一度、休憩を入れましょう。三時にまた戻っていらしてください」
「いいの?」
「このまま続けても、わたくしの声などお耳に入りませんでしょう」
諦めたように言うハリルを置いて、カッシーアは広げた勉強道具もそのままに立ち上がった。水を得た魚のように、途端に元気を取り戻した彼女の背中を見送って、ハリルは肩を竦める。
「元来、王族に生まれる娘ではなかったのかもしれんな。神の取り違えだ」
そして自分も、王室の家庭教師などになるような人間ではなかった。ハリルは袂から畳んだ手紙を出し、一人広げて、ため息を零した。
今教えている古典を最後に、カッシーアの教師を降りるつもりだ。せめて穏やかに挨拶を交わしたいものだが、彼女があまりに自分の教える勉強を疎ましがっているのが伝わってくるので、いつも皮肉を返してしまい、言う機会を見つけられずにいる。
一方、勉強部屋を飛び出したカッシーアは、すでに黒曜宮を出て長い廊下を渡りきり、王のいる本宮へとやってきていた。黒曜宮と違って、ここには庭や台所、屋上や礼拝堂など、様々な部屋があって面白い。外の魅力には敵わないが、一時間の散歩ならもってこいだ。王宮なんてたまに遊びに来るから楽しいんだわ、と、カッシーアは客人の気分で散策に乗り出した。
すると、廊下に向かって開け放たれたある一室の前を通りかかったとき、中から父の声が聞こえてきた。
「これと、これと……おお、これも素晴らしいと思わないか。これはお前にやろう」
「まあ、よろしいのですか」
「構わぬ、お前にはいつも世話をかけているからな。どれ、チャハルにはこのベルト留めはどうだ。持っていってくれ」
「まあ、まあ。あの子も喜びますわ――あら」
日干しした赤い絨毯の上で、父と向かい合うようにして話していた女性が顔を上げる。第一王妃だ。カッシーアは咄嗟に、ドレスを持ち上げて、その場に膝をついた。
「ご機嫌麗しゅう、マクリダ様」
「そんなに固くならないで、カッシーア。話すのは久しぶりね」
「はい。お元気そうで」
王妃マクリダは、滑らかな黒髪の下の淡い緑の目を、柔らかく細めた。稀有な人だ、とカッシーアは思う。他の王妃たちは、第十四王女であるカッシーアのことなど名前も覚えていないが、マクリダはすべての妃とその子供の名前をしっかり記憶している。晩餐の席では椅子と椅子が遠すぎるため、めったに話す機会はないが、目が合うと誰とでもすぐに名前を呼んで話を始め、臣下であっても態度を変えることはない。
父が、実質の正妃として扱っているだけのことはある。マクリダのような人を、マクリダの他には見たことがなかった。母のことは美しく賢い女性だと尊敬しているが、カッシーアは、同じ王家に生まれるならマクリダの血がほしかった、と思うことさえある。
マクリダが「いらっしゃいな」と言うので、彼女は父の顔を窺いつつ、そろそろと足を進めた。
「今ね、旅の商人が寄っていったから、王様がまた私たちに色々見繕ってくださったのよ」
「そうなんですか」
「ほら、これなんか貴女に似合いそうだわ。孔雀の羽根で作った髪留めですって」
屈んで、二人の間に広げられた金銀の宝飾品を眺めていたカッシーアの髪に、マクリダがその中のひとつを宛がう。父が満足そうに、ほう、と感嘆の声を漏らした。
「良い見立てだ、確かに似合っているな。それはお前にやるとしよう」
「本当ですか?」
「ああ。元々、誰にやるかは決めていなかったものだ。持っていきなさい」
カッシーアは深々と礼を述べて、さっそくそれを髪につけてみた。マクリダが手を貸してくれて、カッシーアの黒髪に、青と緑の羽根が美しく広がった。
「間の良い娘だ。お前は運があるのかも知れないな」
「え?」
「以前にも、我の前を通りかかったことがあっただろう。あのときやった髪飾りを、そういえば最近していないようだが。もう飽きてしまったか?」
カッシーアは驚いて、どきりと顔を上げた。あのガラスの髪飾りを、父が覚えているとは夢にも思っていなかった。まして、今の口ぶりでは、まるでカッシーアがずっとそれを使っていたことを見ていたかのようだ。そんなまさか、と戸惑いながら、言葉を探す。
「あれは……、とても気に入っていたのですが、落として割れてしまったのです」
「そうだったか」
「せっかくの贈り物だったのに、申し訳なくて、言い出せませんでした」
父は納得したように首肯し、マクリダは怪我がなかったようで良かったと気遣った。カッシーアはガラスの破片が胸に刺さったような痛みを覚えながら、心の中で、嘘をついたことを神に詫びた。
「それなら、新しいものを渡せてちょうど良かった」
「はい、ありがとうございます。お父様」
「あまり長居をせずに、少し休んだら帰りなさい。ハリルが気を揉む」
父はなぜ、カッシーアがここにいるのか察しているようだった。驚きと恥ずかしさでうつむいて「はい」と答えたカッシーアに、マクリダが微笑んでいた。
カッシーアには知る由もなかったが、マクリダは毎日、晩餐の席で見聞きしたことや感じたことを、王に報告する役目を務めていた。カッシーアが勉強嫌いで、母に促されて億劫そうに学んだことを繰り返す様子を、彼女は確かに見ていたのだ。
花盛りの庭園を、白い鳩が数羽、首を回しながら歩いていく。城の北塔で飼われている鳩だ。人に懐いていて、近くを通っても飛び立つ気配はない。
「不思議なものね。翼があるのに、どこへも行かないなんて」
ぽつりと呟いたカッシーアに、隣を歩いていたミカエルが視線を下げた。このところ、ワイアット王につけられた家庭教師との勉強を終えると、日課を終えた彼と待ち合わせて夕方まで過ごすのが習慣になっている。王が、まだ城にやってきて日の浅いカッシーアを支えてくれるよう、ミカエルに頼んだのだ。それは二人の逢瀬に気づいた王からの、内々の公認のようなものだった。
城の屋上に造られた空中庭園の上、惜しげもなく降り注ぐ日差しを受けた彼の髪は、日光に溶けてゆきそうな淡い煌めきを纏っている。その横髪が片方だけ、わずかに短くなっているのを見て、カッシーアは労わるように手を伸ばした。
先日の訓練で、この城の王子と手合わせをしたときに切れたものだ。次代の国王と噂される王子とミカエルの試合は見ごたえのあるもので、互いに一歩も譲らず、ミカエルが髪を一束、王子が兜の羽根を一枚散らしたところで、引き分けの判定が下った。
カッシーアの指先が、不服そうにその一束をにじったことに気づいて、ミカエルの眸に苦笑が浮かんだ。
「本当は勝てたくせに」
「手を抜いたつもりはないよ」
「でも、勝利よりパフォーマンスを取ったわ」
「公開訓練とは、そういうものだ。勝って名誉を得るために戦うのではなく、対等に剣を交える王子と私の姿を見て、親衛隊を志す者が増えてくれたらいい。それが目的なんだ」
もっともらしいことを言われて、返す言葉をなくしてしまう。確かに、イスタファでも似たような伝統があり、王宮の衛兵と民間の有志がトーナメント戦を行うというものだった。あれも、民間から有望な人材を見つけ出すことを目的とした催しだ。衛兵には勝つことよりも、素質のある民間人の能力を引き出すことが求められていた。
「一位でないとご不満か?」
「そういうわけじゃないけど……、王子が持て囃されて、貴方がその程度みたいに言われるのが嫌なの。さっきもそんな話が聞こえて、ミカエルを馬鹿にしないでって、メイドたちの休憩室を蹴破っちゃったわ」
「それは、さぞかし向こうの顔が青ざめただろうな」
「平謝りしてたけど、私が謝ってほしいのは私じゃないのよ」
「そんなに腹を立てないでやってくれ。何を言われようと、私は気にならないよ。本当のことを分かってくれる相手は、世界に一人いれば十分だ」
ミカエルの言葉に、今度はカッシーアが視線を上げた。膨れていた頬に、ほんのりと赤みが差す。暗に自分が、彼にとっての「世界でただ一人」だと言われた気分がした。
そしてそれは、あながち思い上がりでもなかったのか、ミカエルは無意識にこぼれた本音の後に続く言葉を探すように、開きかけた口を閉じて、ふっと微笑んだ。
クルル、と鳩が後方で鳴いて、短い沈黙は終わりになった。
「先の話に、戻るようだが」
「ええ、何?」
「翼があれば、貴女はどこかへ行きたいのか?」
何の話だったか思い出すまでに数秒かかって、カッシーアはああ、と思い返す。そういえば、そんなことを呟いたかもしれない。
「そうね。ずっと、そう思っていたわ」
「そう、なのか」
「だって、閉じ込められているわけでもないのに、どうしてひとつの場所に留まっていられるかしら。翼があったら、どこまでだって行くわ。楽しいことや、綺麗なものを探して毎日飛び回って――同じ場所に戻ってくることなんて、二度とない気がする」
想像して、カッシーアは目を閉じて春の風を吸い込んだ。胸を膨らます、この風に乗って、翼を広げるだけで世界の反対側までだって自由に飛んでいけるのだ。きっと、毎日が最高の気分に違いない。
両腕を広げて、鳥を真似るようにくるりと回ってみれば、ヘッドドレスとスカートが思いのほか大きくひるがえった。本当に、一瞬空を飛んだかのようだった。楽しくなってもう一度回りかけたカッシーアの腕を、ミカエルの手が強く掴んだ。
「今も?」
「え?」
「貴女は今も、そう思っているのか? 自由になれるなら、今すぐ飛び立って、二度と戻ってはこないと……」
翡翠色の眸が、いつになく射抜くように、カッシーアを見つめている。瞳孔の奥を見透かされるような力強さと、芯に揺れている悲しげな切迫感に、カッシーアは囚われたように動けなくなった。
「私がここにいて、こんなにも貴女に、」
囚われているというのに、と聞こえたような気がした。気がした、としか言えないのは、カッシーアはそのとき、滲むほど迫ってきたミカエルの顔を見て、何も聞こえなくなっていたからだった。
蘭の香りが、二人の胸の間から立ち昇る。
彼女は咄嗟に、ミカエルの肩を突き飛ばしていた。
「カッシーア」
「あ……っ、ごめん、なさい! 今のは」
名前を呼ばれて初めて、自分が彼を拒んだことに気づいて我に返る。カッシーアは焦って、切れ切れに弁解の言葉を並べた。嫌だと思ったわけではなかったのだ。ミカエルを否定したわけではない。ただ。
「……いや、そうだな。今のは私が悪かったよ。確かな言葉を交わす前に心を確かめようとするなど、男として卑怯なやり方だった」
「ミカエル……」
「今度……、一週間後だ。城で武闘大会がある」
「武闘大会?」
「この間の公開訓練とは違う、個人が実力と名誉を賭けて競う、本当の試合だ。どうか観に来てくれ。そして、勝利を捧げた暁には、褒美に私の胸の内を貴女に聞き届けてもらいたい」
ただ、怖かったのだ。口づけをしてしまったら、何かが元に戻れなくなるような予感がした。ミカエルという人間が、カッシーアの中にその魂の一部を吹き込み、たったひとつの椅子に腰を下ろして、永久に留まってしまうような予感がしたのだ。
(それは、いけないのよ。だってこれは夢なんだから。現実の私は、口づけどころか、恋をしたこともない人間のはずなんだから)
心に誓った人など、いてはいけないのだ。返事を躊躇うカッシーアの手の甲に、ミカエルは敬愛の口づけを落として、話を終わらせた。
ウードの音色が、どこからともなく聞こえてくる。カッシーアは静かに深呼吸をして、歩き出した彼の背中に、目を閉じた。
「おかえり」
男でも、女でもない。少年のように悪戯で、姉のように気怠い声が、鼓膜を突く。
「……やりすぎよ。現実の私に、影響を残すようなことをしないで」
「何の話かな?」
開口一番、不機嫌な声で忠告したカッシーアに、夢売りは宙に浮かんだままくすくすと笑った。すべて知っているのだろうに、白を切るつもりか。無言で睨んだカッシーアの視線を受けて、ウードを片手に、肩を竦める。
「言っておくけどね、僕が創っているのは夢の舞台だけだよ」
「どういう意味?」
「脚本は書いてないんだ。夢の成り行きを操っているのは、君自身だよ」
カッシーアが目を瞠った。夢売りはゆるりと胡坐を崩して、どこから取り出したのか、真鍮を巻いた白蛇のような細長いパイプをふかした。
「ほら、もう夜が明ける」
その姿が、みるみる高く、遠ざかっていく。底なしの穴に落ちていくような、朝が来る。カッシーアは舌を噛まないように、それ以上は何も言わなかった。
わっと、勝者の決定に観戦席は熱気に包まれた。弾かれた剣が宙を舞い、乾いた音を立てて地面に落ちる。
「優勝者、ミカエル・サーチュアル親衛隊長!」
審判の声がその名を口にした瞬間、闘技場を囲む騎士や隊員たちから喝采が起こった。掴むべき人が掴んだ、予想された勝利だ。でも、与えられた勝利ではない。彼はそれを、実力と誇りをもって掴みにいった。
「やはり強いのう。今年で五年連続だ」
ワイアットが拍手を送りながら、満足げに教える。武闘大会の観戦が初めてのカッシーアを気遣って、自ら隣に座り、ルールや戦況を教えてくれた王は、ミカエルの優勝を己のことのように誇らしく思っているようだった。
「途中、一度ひやりとしましたが」
「何、相手も副隊長だ。あれくらいはやってくれんとな」
「隊長と、副隊長の一騎打ちですか。お二人とも、立場に恥じない強さを備えていらっしゃるのですね」
うむ、と王は頷く。彼はカッシーアが試合中、際どい剣戟から一切目を背けない度胸の持ち主であることに気づいて、大会の途中からはカッシーアの様子も楽しみのひとつになっていた。食い入るように闘技場を観る目線の強さは、王女というより、女王の器だと王は思った。幼少期からそのような子供だっただろうか。戦争に忙しかったせいか、思い返そうとすると、カッシーアの思い出はひどく濁っていて見通しが悪い。
親子だというのに、薄情なものだ。
内省する王の胸の内など知る由もなく、カッシーアは鳴り止まない歓声の中で、決勝戦に挑んだ二人が握手を交わすのを見ていた。一言二言、何か言い合っているのが見て取れたが、声はここまでは聞こえてこない。穏やかな表情だけが、互いの健闘を称えるものだったのだろうと伝えてくる。
結ばれていた手が離れ、月桂樹の冠を持った審判が戻ってきて、ミカエルの視線がはたとカッシーアを捉えた。
傍から見れば、王族席に向かって。けれど彼は確かに、カッシーアに向かって微笑みを浮かべ、兜を脱いで深く一礼した。
「どうした? 労ってやりなさい」
「あ……」
「最高の笑顔を見せてやるだけでいい。それが一番の喜びになるというものだ」
息を呑んだカッシーアに、王が囁く。闘技場を囲んだ人々は、誰も、何も口にはしないが、ミカエルの礼が彼女に勝利を捧げるものであったことは、近頃の二人の様子を知っていればあえて噂などせずとも確かだった。
(おめでとう、貴方を祝福するわ。そして……)
引き結んだ唇を緩めて、カッシーアはその顔に、惜しげのない笑みを咲かせる。
(約束の褒美を、今夜)
今晩、塔の鐘が九時を打つ頃、屋上の庭園で。
待ち合わせを心の内で繰り返して、重ねていた視線を外し、拍手で称えた。月色の髪が、青く瑞々しい栄冠を授かる。今日一番の喝采が、辺りを一斉に包んだ。
ドレスの上に薄いカーディガンを一枚はおって、カッシーアがやってきたとき、庭園は月の明かりに照らされてすべてのものが仄青く光を放っていた。遠く、薔薇園の奥に建っている噴水の流れる音だけが、かすかな風のようにさわさわと鳴り続いている。
鳥たちは寝静まって、息をするものの気配はカッシーアの他にひとつもなかった。彼女は空を見たり、月光の輪郭を纏った花壇の葉を触ったりして、しばしそこで待った。
「カッシーア」
細くねじれた鉄の門が忍ぶように開かれる音がし、暗闇の中に、淡く光るような待ち人の姿が浮かび上がった。眺めていた花から手を離し、彼に駆け寄る。ミカエルは月明かりで視認できる距離にカッシーアを見とめて、ほっと息をついた。
「すまない、待たせてしまって」
「何かあったの?」
「宰相殿に捕まっていたんだ。祝福の言葉をいただいたよ」
カッシーアは納得して、苦笑した。ここの宰相は、良いことも悪いことも、話がくどいのだ。
少し歩こう、と促されるままに、ミカエルについて庭園の奥へ入っていく。途中、足元が暗いからと差し伸べられた腕に、カッシーアは躊躇いながらも手をかけた。
「わ……」
植込みの影に寄り添って、庭園の一角を曲がったとき。目の前に、突然鏡が落ちているのかと思った。カッシーアを驚かせたそれは、湖だった。庭園の奥に造られた、噴水と水を共有している、人工の小さな湖だ。
水面いっぱいに、夜空の星が青白く映り込んでいる。目に見えないほどの水流に震わされてきらきらと輝くそれが、遠目には鏡のように、一面の銀色に見えるのだった。
「こんなに綺麗な湖だったなんて」
嘆息して、カッシーアが畔から月を覗き込む。ここには昼間、何度も来ているが、あまりこの湖についてどうという印象を抱いたこともなかった。真昼の明るさの下では、人工的な石の囲いが目立つ、味気ない水槽のような見栄えだったのだ。噴水の水を循環させるための、事務的な装置なのだと思っていた。
「驚いたか?」
「ええ、とても。貴方はこの場所を知っていたのね?」
「教えたら、貴女はこっそり部屋を抜け出してきそうだからな。城内とはいえ、こんなひと気のない場所を夜に一人で出歩いて、もしものことがあったら困る。傍にいられるときに連れてこようと思っていたんだ」
「そう、だったの」
まるで自分が仕様のないお転婆のような言われ方に、カッシーアは最初、反論する気でいたが、聞いているうちにその気は削がれてしまった。むしろ、最後まで聞くころには、ミカエルの顔をまっすぐに見られなくなっていた。
彼はいつから、カッシーアをここに連れてくるつもりでいてくれたのだろう。いつから、自分が傍に立って、見守るつもりになってくれていたのだろう。そんな疑問ばかりが胸を占めて、静寂に心臓がいつもより大きく鳴った。
まるで体を抜け出して、鼓動が夜の中に浮かんでしまったかのようだ。宙に浮かんだそれを掴んだのは、取り返すべきカッシーアではなく、透き通る金のヘッドドレスを毀れ物のようにかき分けて、彼女の肩に触れたミカエルだった。
「……困ったものだな。私は貴女の前に立つと、どうにも冷静で忠実な良い臣下ではいられない」
「ミカエル?」
「もしも貴女の目に、今の私が普段通りに見えているなら、それは薄皮一枚の装いにすぎない。カッシーア、私は――」
ミカエルの肩が、強張った呼吸でかすかに上下した。その一瞬の動きで、カッシーアは彼が何を言おうとしているのか、ようやく察した。
「待って!」
手を振りきって、逃げるように一歩下がる。ミカエルが目を瞠った。踵が湖の縁に当たり、カッシーアはそれ以上下がれないことを理解して、口を開いた。
「お願い、待って。それを言う前に、私の話を打ち明けさせて」
「なぜ?」
「貴方の気が変わるかもしれないからよ。あのねミカエル、私は……」
「変わったりしない!」
叱りつけるような声に驚いて竦んだ体は、瞬きの後にはもう、彼の腕の中にあった。抱きしめる力の強さ、苦しさに気づくまで、カッシーアの意識には数秒の空白が生まれた。それくらいに、ただ驚いていて、声も出せなかった。
「本気にさせたのは貴女だ。今さら耳を塞がないでくれ。カッシーア、私は貴女を恋い、慕っているんだ」
心臓が、痛いほど震えている。それはカッシーアのではなく、彼女を抱いた胸の内にある、ミカエルの心臓だった。額の上で高鳴っている彼の命の音に、カッシーアの指先から頭の先まで、熱い血潮が駆け巡った。
それが〈想いが通じる〉という歓びなのだと、カッシーアは人生で初めて、身を持って悟った。文学の中に、歌の中に、今まで想像で感じ取っていたどんな片鱗とも比べ物にならない。呼吸の仕方さえ忘れそうなほどの、体の底から湧き上がる歓喜の熱。同時に、どうしようもない苦しさが胸を押し潰した。
「私だって、貴方と同じ気持ちだわ。本気になったのは、貴方だったからよ」
「カッシーア……」
「だからこそ。貴方の気持ちを聞く前に、秘密を打ち明けようと思ったのに。こんな気持ちを覚えてからじゃ、突き放されたら辛すぎて、気がおかしくなりそう」
やり場のない感情を刻みつけるように、カッシーアはミカエルの背中に腕を回して、衣服をずたずたに裂きそうなほど爪を立てた。彼はいっそう強く、カッシーアを抱きしめた。そうして一言ずつ、諭すようにはっきりと声に出して言った。
「先に聞こうが後に聞こうが、私の気持ちは何も変わらない。話してくれ。どんな秘密でも貴女を離さないと、誓ってもいい」
「本当に? 例えば私が、人間でないと言ったら? 子供を成せない体だとしたら? 実は男だったと言ったら?」
「その中のどれが、私の気持ちを変えると思うのか教えてほしいものだ。どの器にも、入っているのは同じ貴女なのに」
「極悪人の娘だとしたら? 本当はとてつもなく醜いとしたら?」
「同じだ。答えは変わらない」
「じゃあ、もしも、もしもよ――……本当は、この国の王女ではないと言ったら?」
はっと、ミカエルが息を呑んだのが伝わってきた。例え話の中に現れた、本当の秘密に、彼は気づいたのだろう。カッシーアは震える手を離して、そっと胸を押しのけ、ミカエルの顔を見上げた。
緑の眸が、初めて見るものを確かめるように、カッシーアを見ている。その眸には今、同じ緑の眸が映っている。創られた、仮初めの緑の眸が。
「王女なのは嘘じゃない。でも、本当は……私は、ワイアット王の娘じゃないの」
「ならば、一体どこの国の……」
「そうね、どう言ったらいいのか。とても、とても遠い国なのよ。まだこの世界の、どの国の地図にも描かれたことのない国」
その国こそが名を〈現実〉といい、今あるものはすべてが〈夢〉――この国も王も空も庭も、ミカエルさえもが自分の見ている夢なのだとは、彼を前にして、さすがに言うことができなかった。悲しげに眉を下げて、ただ「遠い国」とだけ繰り返したカッシーアに、ミカエルは在り処を訊ねることはせず、別の問いかけを返した。
「ワイアット王は、なぜ貴女を実子だということにしている?」
「しているんじゃなくて、誰もが本当に、そう思い込んでいるの」
「どうして……」
「とても大きな魔法に、かけられているからよ」
とてつもなく大きな、彼には想像のつくはずのない魔法だ。脳裏に夢売りの顔を思い浮かべて、カッシーアはすべての行いを「魔法」と称するのが限界だった。ミカエルは彼女が、魔法使いと手を組んで人々を騙しているのかと訊ね、カッシーアはそうだと答えた。
嫌われる覚悟なら、彼を待つ間に、とっくに決まっていた。
「外の世界へ、出てみたかったの」
愕然とした表情のミカエルに両腕を掴まれたまま、カッシーアはぽつりと、口を開いた。外、とミカエルが鸚鵡のように繰り返す。湖に映った夜空の星が跳ね返って、彼の目の中に輝いているのを、他人事のように嗚呼なんて綺麗なのだろうと思った。
「王宮の外の広い世界に、憧れていたの。窓から見える街の景色や、遠くに霞んだ海や砂漠を見て、いつも思ってた。見たいものを見に、聞きたい音を聞きに、歩きたい場所を歩きに、この窓から飛び立てたらどんなに楽しいかしらって」
「カッシーア……」
「一生に一度の魔法でかまわない。身分も名前も、何もかも忘れて、広い世界で自由に生きてみたかったの。魔法使いはそんな私の願いを、すべて叶えてくれたわ。たくさんの世界を見せてくれた。ここに来たのも、そのうちのひとつだったの」
打ち明けながら、カッシーアは自分が、どうしてこんな話をせずにいられなかったのかと考えた。夢を楽しみたいならば、難しいことは考えず、真実なんて隠したままでいたほうが、よほど楽しく笑っていられるのに。
でも、それでは虚しいと思ってしまったのだ。ミカエルと出会って、彼と接するうちに、〈この世界のカッシーア〉という創り物を愛されることへの虚しさを知ってしまった。本当の自分を知ってほしいと、願わずにいられなくなってしまったのだ。例えそれが、一度は与えられた愛を、二度と戻らないほどに冷ますとしても。
(光輝くものを手に入れるほど、その隣に空いた穴は暗く、深く見える。手に入らないものほど、欲しくなるんだわ)
自分の欲望の、底の深さを垣間見た気がして、カッシーアは風もないのに身震いした。窮屈な毎日を抜け出して、ただ少し楽しめればいいと思っていたのに、いつのまにかそれだけでは足りなくなっている。
自分がこれ以上何を求めているのか、彼女自身にも分からなかった。何を得れば満足するのか、それさえも分からなくなっているのに、大口を開けた心の穴が、この闇を満たせと常に叫んでいるのだ。欲望の声に苛まれて、気が狂いそうになる。
ミカエルはじっと、カッシーアを見つめた。揺らぎのない目で、カッシーアという存在を確かめるように眺めて、静かに口を開いた。
「貴女の本当の国は、何というところなんだ?」
「イスタファ、というわ」
「そこでの名前は?」
「名前は……、カッシーア。魔法使いに会ってから、ずっと別の名前を使っていたけれど、ここに来て本当の名前に戻したの」
「どうして」
「貴方がいたからよ。貴方に呼んでもらうのは、本当の名前がよかったの」
ミカエルが驚いた表情を浮かべた。カッシーアは自分の中で、今のは本当のことだ、と確信した。
最初から、一時の夢だとしても、彼には〈ヒルダ〉ではなく〈カッシーア〉と呼んでほしかったのだ。心のどこかで、一部でいいから、彼とは本当の自分で繋がりたいと望んでいた。一が叶えば十が欲しくなり、百が欲しくなるものだとは、あのときはまだ想像もしていなかったから。
「姿は?」
ミカエルが訊ねる。カッシーアは首を振った。
「全然違うわ」
「もし……、見せてほしいと言ったら?」
腕を掴んでいたミカエルの手が、そっと離されて下りてくる。そのまま懇願するように、カッシーアの両手に触れ、掬い上げた細い指を躊躇いがちになぞった。
カッシーアは迷わなかった。できるかどうかは分からなかったが、目を瞑って、想像してみた。今の姿が糸を解くようにほどけていき、本当の自分に戻るイメージを、強く思い浮かべた。
途端、それは真実になった。ミカエルの手のひらにあった指先から、糸がほどけ始め、カッシーアの体は輝きながら、繭をとくように本来の形を取り戻したのだ。
眩しさにうつむいた視界を、さらりと黒髪が流れる。着ていたドレスも、肌のわずかな色合いも、何もかもがすっかりイスタファのカッシーアに戻っていた。
「……ミカエル」
声も、まったく違う。呆然としている彼に自分であることを告げようとして呼びかけたのだが、逆効果だったかもしれないとカッシーアは思った。信じてくれというほうが、どうかしている。先ほどまでのカッシーアと今のカッシーアを同一人物だというのは、砂漠を見せて海だというのと同じくらいの違いがあった。
愛した相手がいきなり見知らぬ姿になって、困惑しない人はいないだろう。諦めて、そろりと抜け出そうとしたカッシーアの手を、ミカエルが我に返ったように掴んだ。
「ひとつ、教えてほしい」
「何?」
「貴女のいう魔法は、私にもかけられているのだろうか? 私が貴女を好きになったのは、魔法使いの仕業か?」
カッシーアは少し考えて、首を振った。
「いいえ。それは、違うわ」
出会ったのは、偶然ではない。種も仕掛けも仕掛け人も、明確すぎる魔法だ。でも、夢売りの言葉を信じるならば、この夢にそこから先の脚本はない。ミカエル個人の感情に、夢売りの干渉はされていない。
そうか、と噛みしめるようにミカエルは言った。
「それだけ確かなら十分だ」
「え?」
「話してもらえて、光栄に思うよ。貴女の秘密は二人で守ろう。だからどうか、これからは、私の前では本当の貴女でいてほしい」
彼が何を言っているのか、カッシーアはすぐには分からなかった。理解して、驚きにこぼれそうなほど目を瞠った。すっかり黒曜石の色になったその目を、ミカエルは改めて、自身の目に焼きつけるように覗き込む。頬に指を滑らされて、うつむくこともできず、カッシーアはたどたどしく反論した。
「私、貴方を騙していたのよ」
「二度までもな」
「二度?」
「最初に会ったときは、靴屋の孫だった」
「あ……」
「何度、私を驚かせれば気が済む? この上まだ嘘が残っているとしたら、もう、私への気持ちくらいしか――」
「それは、嘘じゃないわ!」
遮るように叫んで、カッシーアははっとして口を噤んだ。ミカエルの顔に、笑みが滲んでいたからだ。無表情を作った表層の下から、堪えきれずに出てきたといった様子のそれは、彼がカッシーアをからかったことを意味していた。
騙された、と愕然としてから気づく。自分たちは今ので、対等になったのだと。
「そんな顔で睨んでも、跪いて赦しを請うつもりはありませんよ、姫。貴女の嘘に比べれば、可愛いものだろう?」
「仰るとおりね、赦しを請うべきなのは私だもの」
「それはやめていただきたいな。貴女を跪かせてしまったら、いくらなんでも洒落にならない」
「……私を赦すつもりなの?」
「言ったはずだよ。最初から、どんな話でも気持ちは変わらないと。どこの何者であっても、いくつの姿があっても、私にとって貴女は一人の〈カッシーア〉だ」
罪悪感に固まっていた胸が、音もなくほどけていく。誰かに許されたいと思ったことなど、カッシーアは初めてだった。多くの人は、彼女が我儘を言っても王女というだけで許すのが当然であったし、カッシーアも許されるのが当然だと思っていた。許さない相手のことは、カッシーアが嫌えば、どこかへいなくなった。自分が非を認めてまで、傍にいるのを許されたいと思う相手ができることなど、想像もしたことがなかった。
「驚いて、黙り込んだくせに」
自分の中の変化に戸惑って、素直に謝れず、当てつけのような言葉を口にしてしまう。ミカエルは一瞬、何の話だと言いたげな顔をしたが、すぐにそれがカッシーアの本当の姿を見たときのことだと分かって、苦笑を浮かべた。
「困った人だ。自分はいくつも秘密を隠し持っていたくせに、私には一切許さず、正直になることばかり求める」
「そういうわけじゃ……」
「思いもよらないほど美しかったから、何も言えなかったんだ。見惚れていたんだよ」
え、と言いかけたカッシーアの唇を、ミカエルの唇が塞いだ。耳をくすぐる指先に、もう黙りなさいと言われている気がして、大人しく目を閉じる。
キスの直前、彼がわずかな隙を残したことを、カッシーアも分かっていた。それが選択のために与えられた意図的な隙だと、気づいたものの、彼女は止めなかった。
濃くなる蘭の香りに交じって、どこからかウードの音色が近づいてくる。時間だ。カッシーアは静かに、ミカエルの胸に手を当てて、瞼を開けた。
夢売りの前に帰るのが、これほど気まずい朝は初めてだ。居心地の悪さを振り切るように身じろぎをして目を開ければ、すぐ上に葡萄色の髪が漂っているのが見え、聞き慣れた声が覚醒を促した。
「おかえり、黒曜の姫」
「……ええ」
「なかなか戻ってこないから、心配したよ。よほど楽しいことでもあったのかな」
問いかけの形を取ってはいるが、何が起こったのかくらい、把握しているだろう。別に、と素っ気なく返事をして起き上がったカッシーアは、胸元に垂れた髪の先を見て、ぎょっと青ざめた。
「な……っ!」
毛先がくるくるとうねって、赤くなっている。まるで夢の中での姿が、乗り移ってしまったように。
カッシーアは真っ青になって、自分の手足や服装を見下ろした。顔を触って、映せるところを探してぼやけた川の上を這いまわっていると、目の前に手鏡が差し出された。
「どうぞ? わざわざ見るほど、変わってはいないと思うけどね」
言葉を返す余裕もなく、奪い取って鏡面を覗き込む。見つめ返すのは狼狽しきった顔に、漆黒の双眸を嵌めたカッシーアで、雀斑はなく目鼻立ちは涼しげで、首元の襟はイスタファのドレスを纏っていた。
(私のまま……)
昂っていた心臓が、どっと息をつく。変わったところは髪だけで、それも腰から背中にかけての毛先だけが赤く染まっているのだった。カッシーアはほっとしたが、同時にひどく恐ろしくなって、夢売りを睨みつけた。
夢売りは宙に浮かんだまま、面倒くさそうに脚を崩して、唇に笑みを浮かべた。
「夢に侵食されたね。むこうで、自分の姿をいじっただろう。あと少し遅かったら、根元まで赤毛になっていたんじゃないかい」
「侵食って……、そんなの聞いてないわ! そんな危険があるなんて、私、一言もっ」
「言っておくけど」
甘く、しなだれかかるような気怠い声音が、鞭のしなりを帯びる。びくりとして身を竦ませたカッシーアの前に、夢売りはゆっくりと降りてきて、彼女の顎をパイプで上向かせた。
「僕はちゃんと、危険のない舞台を用意したはずだよ。王女になる君の傍には、おかしな奴も置かなかったし、面倒を見てくれる奴、守ってくれる奴だっていただろう?」
「それは……」
「不足のない舞台で〈それ以上〉を求めるかどうかは、君次第だよ。でも、出された料理にスパイスを加えたら、味が変わるのは当然だと思わないかな。僕の創った夢に手を加えて、勝手に領域を侵したのは君だ」
スパイスをかけたら不味くなったと言われて、謝る料理人がどこにいる。蜂蜜色の眸をゆるりと細めて囁かれ、カッシーアは初めて、夢売りに対して恐怖を抱いた。一人の人間が、姿を変えてしまうかもしれない危機だったのだ。夢売りはそれを、さも当然の話のように料理に喩える。
「だから、忠告の義務はなかったっていうの?」
「そうだよ」
「勝手な行動はしないようにって、一言くらい言っておいてくれたっていいじゃない」
カッシーアは震える手で、パイプを跳ね除けた。弾かれて遠くに落ちたそれを、夢売りはおやと眺めて、黙って目を眇める。カッシーアは怯えながら、怒りにも震えていた。
信じていたのだ。この夢売りが、何だかんだと言いつつも自分に優しくしてくれるだろうと、カッシーアは疑いもせず信じていた。臣下や召使、ハリルがそうであるように。
王女という肩書きが通用しない相手であることを、失念していた。眠る自分の髪が赤く染まっていく様を、どんな顔で眺めていたのかと考えると、噴き上がるような怒りが込みあげてくる。面白がっていたのかもしれないし、見てもいなかったかもしれない。
確かなことは、夢売りにとってカッシーアは、助けに入るまでもない存在。取引さえ果たせれば、どうなったって構わない存在だったのだ。
そんな当たり前のことにも思い至らず、王女という立場に胡坐をかいていた自分の愚かな高慢さに、腹が立って仕方ない。
「起きるわ。貴方とも今夜が最後ね」
「寂しい?」
「何を言っているの?」
貴方は、楽しみでしょうに。カッシーアはその言葉を、ぐっと呑みこんだ。今夜が最後ということは、夢売りにとっては、待ちかねた晩餐が目の前に迫ってきているということだ。ご馳走を前に、カッシーアとの別れが寂しいはずがない。
髪が赤くならなかったら、それさえ気づかなかったかもしれないが。
彼女は目を覚ましてすぐ、起こしに来た宮女の悲鳴を黙らせて、赤くなった毛先を鋏で切らせた。そして髪を使わなくなったスカーフに包み、宮女に預けると、誰にも言わずに燃やすよう言いつけて、口止めに一粒の真珠を握らせておいた。