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第一幕:黒曜宮の娘

 物心ついた頃から、カッシーアの夢はここではないどこかへ行くことだった。

 イスタファ帝国の第十四王女として生まれた彼女は、王の二百余りいる側室の一人の娘である。第一の王女や王子とは違って、父と二人で話をしたのは片手で数えるほどしかない。最後にその顔を見たのは建国記念日の式典の折だ。第一王女から順番に、一列に並んで挨拶をしに行った。

 跪いて手の甲に接吻しながら、父はきっと、この中の誰かが足りていなくても、まったく気づかないのだろうとカッシーアは思った。カッシーアにとって、父という響きはいつもどこか空虚である。それはカッシーアの紅く尊い血の半分、瑞々しい肉体の種、眸に射す聡明な光を分け与えた太陽、など、様々に言い換えることのできる存在だったが、肉体の親と思うことはできても、心の親と思うことはどうしてもできないのだった。カッシーアには父がどんな人物なのか、まるで分かっていなかったし、父もまたカッシーアのことを〈十四番目の娘〉以上には知らないだろう。

 しかし、カッシーアは蔑ろにされているわけではなかった。むしろ、彼女は父にとって、この世のどんな宝石にも勝る宝物だった。

 カッシーアは母の暮らす宮殿の隣に、小さな専用の宮殿を建てられ、乳飲み子の頃からそこで暮らしていた。黒曜宮といい、彼女の黒髪と、黒く大きな眸に肖って名づけられたものだ。

 他の兄弟たちと同じように、彼女はそこで、王女に相応しい教育を受けて育てられている。ゆくゆくは、このタハル大陸にあるどこかの国へ、イスタファからの王女として嫁いでいくために。争いの時代を経て、大小強弱様々だったこの大陸は均され、今はひとつの大地の上に、同じくらいの力を持つ中堅国家が犇めき合っている。均衡の時代に、剣よりもものを言うのは同盟だ。カッシーアの身は同盟そのものであり、父にとって国にとって、どんな堆く積まれた金でも宝石でも買うことのできない、貴重な存在のひとつである。

 願えばどんな我が侭も叶った。カッシーアが欲しいと言えば、世界の裏側からでもたった一匙の砂糖、一粒の果物、一杯のジュースが運ばれてきた。誕生日には宴が催され、歳の数だけ好きな宝石を嵌めたネックレスが贈られる習わしがあった。絹のドレスに身を包み、髪の先から足の先まで召使に整えさせて、カッシーアは何ひとつ不自由のない生活を与えられていた。

 ただひとつ、自由を除いては。

「ねえ、ハリル」

「なんでしょう、カッシーア様」

「たまには、外に行きたいわ」

 刳り抜き窓から覗く太陽の光に、ガラスペンを揺らして、カッシーアが言う。インクの掠れた、気のない文字が連なる羊皮紙の上に、彼女のペンから零れてちらちらと遊ぶ光を眺め、教育係のハリルは短いため息をついた。

「ですから、それはわたくしに決められることではございません」

「お父様に頼んで」

「どう頼めと仰るのです」

「よい学びのためには、市井を知るのも何とやら、とか。上手に言ってよ」

 兄弟の中には、教育係の方針で時々、お忍びで出かけている者もいると聞く。自分もそろそろ十七だ。どことも知らぬ異国へ嫁ぐ話がやってくる前に、生まれた国を見て歩くことくらい、もう少ししてみたい――カッシーアは切なげにそう訴えたのだが、ハリルは眼鏡を押し上げると、途端に彼女から目を逸らした。

「カッシーア様は、わたくしの授業が嫌で、退屈を紛らわしたいだけなのでしょう」

「いけない?」

「勉学を退屈と思われているうちは、市井を見ても、楽しいことしか目に入りませぬ。王女たるもの、それではいけません」

「ハリル、だけど」

「そもそも、カッシーア様」

 反論しかけたカッシーアを、ハリルが弱ったような目で見下ろして言った。

「わたくしは一介の、教育係にございます。王様に直接お会いすることなど、滅多に叶いませぬ」

 カッシーアは見逃さなかった。その目の上に、一瞬だけ、面倒な話を終わらせたがる眉間の皺が刻まれたことを。ハリルは最初から、カッシーアの願いを聞くつもりなど毛頭ないのだ。外に連れ出して、万が一何かあったときに責任を問われるのも、与えられた役目以上の授業をするのも御免なのだろう。この男は慇懃な態度の影に、時々そういう顔が覗くから気に入らないのだ。カッシーアはふんと、鼻を鳴らした。

「使えない男ね」

 ハリルは聞こえないふりをしている。やがてまた、本をつらつらと読みあげるだけの、退屈な授業が始まった。


「ああ終わった!」

 真綿で膨れたクッションの海に、両腕を広げて、カッシーアは身を投げ出す。外はもう日が落ちて暗く、空は濃紺の帳に星の煌めきが散っていた。王女にとっては、夕食さえも勉強だ。子供を産んだ側室と、その子供たちが一堂に会する食堂は、マナーと会話によって品格と知性を凌ぎ合う戦場である。

 母はカッシーアに、毎日学んだことを語らせたがった。ハリルから習ったことを、カッシーアの口で話させることで、二度目の勉強をさせようというのだ。カッシーアはその度に、却って記憶が扉を閉ざしたがるのを感じながら、適当に話を繕った。そうでもしないと、レモンの効いた冷製スープは苦水のような味がし、柔らかい羊の肉は萎びた木の皮でも噛んでいる心地がした。

 一日が終わって、召使たちも引き揚げ、一人になるこの時間が一番好きだ。カッシーアは絨毯の上にごろりと横たわると、ガラスの髪飾りを抜き去って、ベッドへ放り投げた。そのまましばし、眠るともなしに目を閉じて休んでいたが、窓の外から漏れ聞こえてくる音楽が気になって起き上がった。

 椅子を引っぱっていき、上に乗って、頭より高い位置にある窓から外を覗く。

 思った通り、近くの広場に曲芸団か何かが来ているようだった。陽気な音楽に合わせて、暗闇の中に火が踊っている。その火に浮かび上がらされたテントの屋根のようなものが、藍色の夜気に三角の先端を溶け込ませながら佇んでおり、辺りに人がちらほらと動いているのが見えた。

 カッシーアの宮殿は、王宮の敷地内でも一番端に建っている。元々、母の身分が低くて、カッシーアを身籠ったときに与えられた宮殿が敷地の片隅だった。カッシーアは王子ではなく王女だったので、それよりさらに隅に置かれたというわけだが、彼女はこの場所を気に入っている。最も、王宮の〈外〉に近い。カッシーアには、夜毎こうして、外の景色を眺めるのが一番の楽しみだった。

(あの公園の砂は、触れたらどんなに熱いのかしら。あそこに立って見上げる宮殿は、どんなにずんぐりして、大きくて、馬鹿馬鹿しいのかしら。ああ何をやっているの? 光が弾けて、歓声が上がって、魔法みたい。私にも見せてくれないかしら。きっと傍へ行ったら、あの小さな火の山は、もっとずっと迫力があって、近づいたら全身が燃え上がりそうな温度で揺れているのよ)

 窓に頬を張りつかせたまま、カッシーアは小さな劇場を食い入るように見つめた。広場の先には道があって、その先には街がある。街には立派な市場があって、朝には朝の、昼には昼の、夜には夜の賑わいが見える。辺りを囲む家々の隙間には、細い道が管のように続いていて、洗濯物が風にはためいている。街とはなんと魅惑的なのだろう。この窓を蹴って、あのテントの三角屋根に降り立って、飛び込んで、浴びて、呑みこまれて、駆けて、この体のすべてで堪能してみたい。

(でも、無理なんだわ)

 カッシーアはふっと、窓に映った自分の顔をなぞって自嘲気味に笑い、椅子を下りた。背凭れを足で押しやって片づけ、陽気な音楽に背中を向けてベッドへ潜り込む。もうすぐ召使が、カッシーアの眠ったのを確認しにやってきて、蝋燭の火を消していく。眠ることすら、ここでは自由にならない。どこかへ行くなんて、以ての外だ。

(私が、私である限り)

 眠りに落ちる瞬間、そう思ったカッシーアの耳元で、誰かが囁いた。


「なら、君でなくなればいいじゃないか」


 鼓膜に吐息が吹き込まれたような生々しい感触に、カッシーアはばっと身を起こした。跳ね除けたつもりの布団は体にかかっておらず、そこはすでに彼女の部屋とはまったく別の空間になっていた。

 灰色の、薄いカーテンで幾重にも囲まれたような空間だ。奥には星が瞬いているのがぼんやりと見える。足元はガラス張りになっていて、灰色と青と桃色を混ぜたような、不思議な光を放つ川が下を流れていた。

「夢……?」

「ご名答。初めてでその反応とは、案外落ち着いてるね」

 呟きに、返事があったことに驚く。声のしたほうを見上げて、カッシーアはまたしても、驚きに目を見開いた。

「はじめまして、幽閉の第十四王女。黒曜の姫。またの名をカッシーア」

 銀細工の珠で一括りにした、尾のように長い葡萄色の髪を宙に遊ばせて、人がひとり、カッシーアの頭上に浮かんでいた。胡坐をかいた片膝にのせた腕で、一本のウードを抱えている。

 夢の中の相手とはいえ、顔を見せた覚えのない人物に名前を言い当てられて、カッシーアは反射的に警戒を抱いた。伸ばしていた足をすぐにでも立てるように起こし、その人物を鋭い眼差しで見据えた。

「そういう貴方は、何者なのかしら?」

「僕は、夢売り」

「夢、売り?」

「そう。お告げにやってくる天使とも、夜這いに入ってくる夢魔も違う。呼んだだろう、君。この髪飾りを使ってね」

 眼前に下りてきた夢売りが、服の隙間からガラスの髪飾りを出して見せる。それは眠る前、カッシーアがベッドに放り投げた髪飾りだった。そういえば抽斗に片づけるのを忘れていた、と思い出して、あっと手を伸ばす。

 夢売りは素早く、それを躱した。

「返してもいいけど、これって大事なものなのかな?」

 カッシーアは少し、答えに戸惑った。それは特別に好みの形をしているわけではなかったが、誕生日のネックレス以外で、唯一父から面と向かって渡された贈り物だった。

 でも、それがなんだろう。カッシーアのために作らせたわけではなく、たまたま、商人から品物を色々と買い取ったときに、カッシーアが傍を通りかかったから気まぐれでくれただけだ。きっともう、父は覚えていない。

「いえ、別に……代わりはいくらでもあるわ」

「それなら、取り返すよりもずっと良いものと交換しないかい。金銀を王宮より高く積んでも手に入らない、君が最も望んでいるものを見せてあげる」

 囁きに、カッシーアの伸ばしたままだった手が下りた。夢売りは彼女の頬に髪飾りの花を食い込ませて、蜂蜜色の眸に深い微笑みを浮かべた。

「自由な誰かになりたいんだろう?」

「どうして、それを?」

「この髪飾りから、そう聞こえてくるからね。長いあいだ身につけていたものには、想いが宿りやすい。その想いに呼ばれて、僕らは現れるってわけさ。君の場合は、この髪飾りが媒介になったってこと」

 夢売りはにこりと笑って、カッシーアの正面に腰を落ち着けた。そうはいっても紫煙のような、光沢のある淡い紫の絹のズボンに包まれたその足は、床からは常に少し浮いているようである。

 彼、なのか彼女、なのか。女の踊り子のような恰好をしているが、それにしては手の甲や足の甲が筋張っていて、体の凹凸が薄く、声が低い。しかし男というには華奢で、鎖骨など折れそうに細く、半透明のショールから覗く褐色の腕にはしなやかな柔さがあった。

 じっと見たものの思考に決着がつけられず、カッシーアはその者を、本人の名乗る通り〈夢売り〉と呼ぶことにした。彼女は平静を装って、自ら夢売りに問いかけた。

「では、貴方は私に呼ばれてここにやってきたというわけね」

「その通り」

「それで私を相手に、一体どんな商売をしようというの?」

 これは、夢だ。すでに夢の中にいるという認識が、カッシーアを強気にさせていた。夢売りは彼女が興味を持ち始めたことを察して、眸の奥の光を深くした。

「商売というより、取引だよ。黒曜の姫」

「どちらでもいいわ。勿体ぶらずに話して」

「僕はこの髪飾りに宿っているような、人の想いを食事にしていてね。単刀直入に言うと、君の想いが食べたいんだ」

「私の……」

「でも、僕だけ味わうのは不公平だろう? だから君に、夢の中で、想いを叶えさせてあげる。この髪飾りに宿った想いなら、十二日分くらいか。つまり十二夜、君を夢の中でまったく別の存在に変えて、外の世界を自由に飛び回らせてあげるよ」

 カッシーアはごくりと喉を上下させた。誰にも話したことのない心の内を、この夢売りは本当に見透かしているようだ。どうだろう、と提案する夢売りの手が、甘露の杯に見えるくらいには、それはカッシーアが長年に渡って望み続けていた体験だった。

「ああ、そうだ」

 ふと、思い出したように夢売りが口を開く。

「何?」

「ひとつだけ、言っておいたほうがいいかと思ってね。もし君が取引に乗ったなら、夢の十二夜が終わった暁には、君は今のような、外の世界への強い憧れは失う」

「そうなの?」

「だって、その想いを僕が食べてしまうからね」

 言われてみればそうか、とカッシーアは納得した。同時に少し、怖ろしいような気持ちにもなった。

 外の世界への憧れを失くした自分とは、どんなものだろう。想像がつかない。いつも胸を占めていた、外への想いを失くすなんて、ネックレスの中心から宝石をひとつ外すようなものではないだろうか。

(だけど、いっそそのほうが楽になるんじゃないの?)

 カッシーアは自分に向かって問い直した。王女である立場は、捨てようと思って捨てられるものではない。ならば、無謀な外への憧れなど失くしてしまったほうが、王女として生き易くなるのではないか。勉強も今より、好きになるかもしれない。ハリルに迷惑をかけることもない。母も喜ぶだろう。

 何より、自分が苦しまずに済む。

 カッシーアは顔を上げ、夢売りの目を見つめて、静かに頷いた。

「取引に応じるわ」

「光栄だよ、黒曜の姫。必ずや、君の想いに恥じない夢を。さっそく今夜から行くかい?」

「ええ、お願い」

 迷いは吹っ切れていた。いつでも始めてもらって構わない。決心の固まったカッシーアの表情を面白げに眺めると、夢売りはウードに手を添え、膝の上に抱き起した。

「それじゃ、目を瞑って。ゆっくり、三秒数えたら開けてごらん」

 言われた通りに目を閉じる。カッシーアは大きく息を吸いこみ、無言でカウントを始めた。

 三。

(本当に、私以外の誰かになるなんて可能なのかしら)

 二。

(それにしても、変な感じね。夢の中で夢を見るなんて)

 一。

(……ウードの音よね。ずいぶん響くわ、まるで私の頭の中で鳴っているみたい……)

 ゼロ。

「それじゃ……、一夜の夢幻を」

 夢売りの声が耳元で囁いた気がした。顔を上げると、そこはもう、先ほどまでの空間とはまったく異なる景色が広がっていた。ざあざあと鼓膜を打ち叩く、雨音のような激しいざわめきが、すべて人の声だと気づいたとき、カッシーアはこぼれんばかりに目を瞠った。

 彼女は、市場の往来に立ち尽くしていた。

「どけどけ、立ち止まってんじゃねえよ!」

「きゃっ」

 どん、と肩に何かがぶつかってよろける。それは後ろからやってきた男の担いでいる、大きな麻袋だった。何が入っているのか、どっしりと重くて転びそうになった。唖然とするカッシーアに、男は呆れたような目を向けて、謝る素振りもなく大股に立ち去っていく。

 辺りを見回せば、店と店の間を誰もが目的ありげに進んでいて、足を止めているカッシーアのほうが珍しい存在なのは一目瞭然だった。ここはそういうところなのだ。彼女はすぐに理解して、さながら買い物にやってきた常連客のように、人波に沿って通路を歩き始めた。

 全方位、どこを見渡しても広がる景色は露店と人ばかりだ。食べ物、服飾品、本、雑貨。値打ちのありげな品物から、何に使うのか分からないものまで、所狭しと並んでいる。そのすべてに売り手と買い手があって、彼らの話し声が、雨垂れのように絶え間なく響いている。

(すごいわ、なんて鮮やかなのかしら! これが街、これが市場、これが外の世界なのね! あれは何? 赤くてきらきらして、まさか石榴ってあんな球形をしているの? あれは……鳥だわ。飼うのかしら、食べるのかしら。どっちだろう)

 いくらか慣れてきて、踊るような足取りで散策し始めたカッシーアを、一人の商人が呼び止めた。

「そこのお嬢さん。おひとついかがかね?」

「何、これ?」

「あんた、ロクムを知らんのかい? まさか、そんなことはないだろう」

「ロクム?」

「ほれ、ほれ。ひとつ味見してみたらいい。うちのは格別、舌の根が溶けるように甘いよ」

「あっ、でも私、お金なんて持って……」

 差し出されるがままに受け取ってしまってから、カッシーアは自分が財布を持っていないことに気づいて焦った。価値のある宝石や調度品ならいくらでも部屋に転がっているが、自由に外へ行けない身であったカッシーアは、お金は一銭も持っていなかった。

 どうしよう、と戸惑っていると、腰の辺りを誰かに軽く叩かれたような感触があった。すぐに振り返ったが、誰もいない。思わず触れた指の下で、チャリンと音がする。カッシーアはとっさに、ポケットへ手を突っ込んでから、自分の恰好をばっと見下ろした。

「これ……!」

「どうしたね」

 商人が問うのも聞こえず、スカートと巻きついたエプロン、襟の詰まったシャツに髪を覆っているスカーフを次々と触って確かめる。顔を上げると、隣の露店に置いてある鏡の中には、カッシーアの知らない娘が立っていた。うねった黒髪を細く編んで両側に垂らした、青い眸の、闊達そうな町娘が。脳裏に、夢売りの声がよみがえった。

 なら、君でなくなればいいじゃないか、と。

(そうか……今の私は、王女でも、カッシーアでもないんだわ。どこにでもいる一人の娘。市場へ買い物にやってきた、ただの町娘なんだわ!)

 夢売りの言葉が本当だったと理解した瞬間、カッシーアは手に持った砂糖菓子を、迷わず口に放り込んでいた。甘い。頭の芯に染み入るような甘さだ。それでいて練り込まれた果物の香りが、爽やかな尾を引きながら喉を滑り落ちていく。

 王宮では味わったことのない、強烈な甘さに頭をくらくらさせながら、カッシーアはもうひとつ食べたいと思っている自分に気づいた。指先ほどの四角い砂糖菓子は、まさしく外の世界の色鮮やかさを詰め込んだような、鮮烈な、癖になる味わいがした。

「ちょうだい。買っていくわ」

「気に入ったかい。いくつにするんだね?」

 商人が満足そうに笑みを浮かべる。カッシーアはポケットに手を入れて、一握り、コインを掴んだ。

「これで買える分だけ。足りるかしら?」

 チャリン、とコインが一枚こぼれた。カッシーアは構わず、握りこぶしを突き出して、商人の手にコインを持たせた。商人の顔から笑みが消え、代わりに細い目が黒々と見開かれる。隣の家具屋までもが、値段を交渉していた客と一緒に、あんぐりと口を開けてカッシーアを見た。

「……ええ、ええ。もちろんだとも。いや、人は見かけによらないってね」

「どうかしたの?」

「ちょっと待っとくれよ。うちにある袋で、一番大きいのを探さなけりゃ」

 ロクムを売っていた商人は、太った腰を持ち上げて、おっかなびっくりカッシーアを振り返りながら、品物の奥から袋を引っ張り出してきた。そうして丸皿に積み上げてあった砂糖菓子の塔を、恭しい手つきで崩して、ひとかけ残らず袋に収めてよこした。

「すごいわ、こんなに? ありがとう」

 上機嫌に礼を言って、カッシーアは一抱えもあるロクムを腕に抱くと、商人に見送られながらその場を後にした。袋を広げ、甘い砂糖菓子を次から次へと頬張りながら歩くカッシーアを、道行く人々がぎょっとした眼差しで振り返って見たが、当の彼女はまた市場の風景に目を奪われていたので、そんなことは気にもならなかった。

「お嬢さん、ずいぶん羽振りがいいみたいだねえ。どうだい。うちにもいいネックレスがあるよ」

「いらないわ。そういうのはたくさんあるから」

 手招く宝石屋の声を跳ね除けて、店から店へ、迷路のような市場を歩く。誘われるままに羊肉の燻製を食べ、がらくたのような音を鳴らす銅のボールを買い、名前も知らない国の木で作ったブローチをスカーフに留めた。ポケットのコインは尽きることを知らず、それどころか、カッシーアが買い物をするたびに増えていくような気さえもした。

「お嬢さん、お嬢さん」

 どこかの店で商人が呼んでいる。ふと、その声に聞き覚えがあるような気がしたものの、カッシーアは誘われるように露店のあいだを曲がった。ひどく細い道だった。奥へ進むたびに左右の品物は堆く、道幅は狭くなっていき、体を斜めにしながら歩いた。

 ふいに、突き当りの景色が白くぼやける。どこからかウードの音色が響き、三秒を数えるあいだに抗いがたい眠気に襲われた。

 カッシーアはそのまま、歩きながらゆっくりと目を閉じた。


「おかえり。黒曜の姫」

 蜂蜜色の眸が、にこりと細められる。数秒、その目を見つめたまま瞬きをして、カッシーアは我に返って身を起こした。

「ここ……」

「最初の夢の中だよ。まだ少し、心が市場から帰ってきてないかな?」

 手をついた床はガラス張りで、下を青や桃色の光が浮かんだ灰色の川が流れている。薄いカーテンの奥に星の点在しているのが見えた。ああ、帰ってきたのだ、とカッシーアは首を振った。

「いいえ、大丈夫よ。もう目が覚めたわ」

「それは良かった」

「とっても楽しかった……、けちね、最後に私を呼んだの、貴方でしょう? もっと長くいさせてくれればよかったのに」

 冗談半分、本気を半分で言うと、夢売りは呆れたように肩を竦める。

「夢の中の時間が、現実の世界と同じはずがないじゃないか」

「え?」

「外はもうすぐ朝だよ。召使が君を起こしに、さっき、北の宮女部屋を出た」

「うそっ」

 思わず、カッシーアは髪に手をやって寝癖を整えた。それから今もまだ夢の中であることを思い出して、ああとかぶりを振った。

「やたらに長い夢を見たり、ほんの短い夢だったのに気づいたら朝が来ていたりしたことはないかい?」

「あるわ」

「夢の時間は、必ずしも現実と同じに流れるとは限らない。むしろ、そうはならないことのほうが多いんだ」

 ウードを抱えて宙に脚を投げ出し、夢売りは詩でも語るように淡々と言った。片手で掲げた髪飾りを眺め、うっとりと目を凝らす。カッシーアには夢売りが、細工や形に惚れ込んでいるのではなく、その目には髪飾りに宿っているという自分の想いが見えているのだと分かって、無性に居心地が悪くなった。夢売りはそんな彼女に気づいて、少年のように笑った。

「まあ、こんな感じでね。あと十一夜だよ」

「ええ」

「夜が更けたらまた会おう。太陽の出ている時間なんて、あっというまだ」

 夢売りの体が、ふわりと高く浮かんだ。そのままカーテンの頭が集合する、三角錐になった天井の暗がりへ、呼び止める間もなく吸い込まれていく。実際、遠ざかっているのは夢売りではなくて、カッシーアだった。床が抜けて、夥しい光の中を落ちて、真っ逆さまに落ちて、

「おはようございます、カッシーア様。朝のお支度を手伝わせていただいてもよろしいですか?」

 召使の声で、彼女は黒曜の眸を開いた。窓の外はもう、明るい日が昇っていた。


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