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「とりあえず、落ち着こう。……お茶でも飲まない?」
しばらくの沈黙の後、そう言いながら私は立ちあがった。
彼も無理に追い出そうとしないのは、私にもう少し詳しい事情を求めているのだろう。
私も私で、彼に詳しい説明を求めている。何よりも、先程の彼の問題発言の。
お茶を汲もうにも、戸棚にはお茶葉などなかった。備え付けの冷蔵庫にも殆どなにも入っていない。しょうがないので、「ペット」にあげるために買ってきた牛乳をガラスのコップに注いで持っていった。
テーブルもないので畳の上に直接グラスを置く。彼はそれに目をやって少し訝しげな顔をしたが、あえてつっこむ気にもなれないようで、視線をすぐに私に移す。
気まずい沈黙が流れる。だって、迂闊にその続きは聞けない。しばらく会っていないとはいえ、自分の兄貴が男の子をペットとして飼ってた、なんて恐ろしくて……。
でも、聞かない訳にもいかないだろう。
「……で、どういうこと?ペットって。うちの兄にはそういう趣味があったのかしら?」
決心して、私は口を開いた。なるたけ平静を装って言う。
彼はジロリと私を睨んで低い声で「そういう趣味ってどういう趣味だよ」と言った。
そんなに改めて言い返されると返答に困る。
「えーと、だから、年下の男の子を囲うような」
私の言葉を遮って、彼は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「何想像してんだか知らないけど、アイツは同性愛者じゃなかったし、俺はアイツの恋人じゃない。大体、アイツは女と高飛びしたんだろ?」
そういえばそうだった。
「じゃあ、何?ペットって」
「俺もよくわかんねーよ。ただ、アイツは俺に何の見返りも期待しないで養ってくれてたから……何でだって聞いたらお前はペットだからだ、って言われただけだ」
養った?あの、甲斐性のなさそうな兄貴が?
「ちょっと待って、そもそもあなた達は、どこで知り合ったの?」
「東京で。……同郷の人がいるって言われて、紹介してもらった」
東京。
そうじゃないかと思ってたけど、やっぱり兄は東京に行っていたのか。
「それより」
と彼は私の顔を睨むような険のある目つきで見る。
「翼は何て言ってた?」
不安で仕方がないのに、無理にポーカーフェイスをして、必死にそれを隠しているような、そんな態度だ。なるほど、なんだか兄が彼を「ペット」にした理由がなんとなく分かった。
彼がよく拾ってきた猫や犬達と彼はなんだか似ている。愛想を良くすることを知らなくて、不器用で、それ故に周囲に可愛くないと言われて最後まで箱の中で鳴けもしないで座り込んでいるような、そんな動物ばっかり、兄は拾って来たのだ。
「時間がないとか言ってたから、あまり話してくれなかったんだけど、なんでも、私にペットの餌を任せる、というのと、家賃は払ってあるからあなたはここに住んでても良いってことかな」
私の回答には、彼は不満そうだった。
「他には? 行き先とか、いつ帰ってくるか、とか」
相変わらず押し殺したような声で聞く。
「これといってないけど」
私が言うと彼は「そう」とだけ言って、ぷい、と横を向いてしまった。
だけど、一瞬、見てしまった。
彼の瞳に浮かんだ、傷ついたような色を。
また、気まずい沈黙が降りる。
「サク君、お昼は食べた?」
とは言っても、もう既に3時すぎだけど。
私の台詞に、彼は返答もしようとしない。
「私、兄貴に君の餌当番を仰せつかってるんですけど」
言っても、まるで無視。私は溜息をついて立ち上がる。
「……なんか、作るわ」
「いらない」という不機嫌そうな小さな呟きを背中に感じたが、無視して私は台所に立った。
ネコ缶とか、買って来なくて良かった。
落ち葉色づく並木道を、私は歩く。
学校帰りなので制服だが、両手にスーパーの袋、というのがなんとも似つかわしくない。
兄が『高飛び』してから、2ヶ月が経とうとしていた。
あの日から、私は律儀にも放課後に、毎日ではないけれどしばしば元兄の部屋に通っておさんどん係りを続けている。
相変わらず、サクは無愛想で、可愛くなくて、いつもムッツリと喋らないから、彼の事は殆ど知らないのだけど。
兄が私にサクの餌係を頼んだ理由はすぐに分かった。
サクは面倒くさがって、自分からは殆ど食事をしようとしないのだ。
説教しても、何を言っても馬の耳に念仏、って感じで全く無駄だ。
彼に食事をさせるには、完成した形で目の前に差し出さなければだめらしい。
アパートの前で立ち止まり、私は腕時計を見る。
6時20分。
うん、この時間ならまだいる。
サクはどうも、年をごまかして深夜バイトをしているらしく7時頃になるといなくなってしまう。
かといって、昼間も結構外出しているようだから、留守が多い。留守の間は植木鉢の下を漁って勝手にドアを開けて部屋に入り、料理だけ置いて帰るのだが、次の日になっても置きっ放しになっていることが多く、腹が立つ事が多々ある。
一応、私が側にいて見張っているとちゃんと平らげるのだ。
ドアを開けると、こちらに背を向けてサクがギターを弾いていた。ヘッドフォンを付けているので音はこちらには聞こえない。これは、いつものこと。
この部屋にはギターが2本あって、いわゆるアコースティックギターというやつと、エレキギターというやつなんだけど、サクが弾いているのはいつもエレキギターだ。
いつだったか何でアコースティックギターを弾かないのか、と聞いたら、それは翼のだから、と言われた。どうやら兄の忘れ物らしい。
ちょっと意外に思った。兄は自分が家出する時、殆どの物を手放してもギターだけは持っていった。なのに、今回の高飛びに関しては、これもサクから無理矢理聞き出したのだが、サクのいない間に荷造りをして、自分に必要な物はちゃんと持って行ったらしいのにこのギターは忘れていった。
まぁ、ギターはもう1本、エレキギターを持っていったらしいので、2本もいらないと判断したのかもしれないけれど。
私はスーパーの袋から、中身を取り出す。と言っても、私も料理が得意ではないし、美味しそうに食べもしないヤツに食べさせるために頑張って練習しようとも思わないので、お惣菜コーナーの出来合いの惣菜や、家での食事の残り物をこっそりとタッパーに詰めて持って帰ってくるのだが。……これでは本当に内緒で捨て猫を飼っている子供みたいだ。
ふと見ると、テーブルの上に封筒が乗っている。
私は苦笑した。
サクは変なところで律議だ。もっとも、私にあまり借りを作りたくないだけかもしれないが。
封筒の表に殴り書いたような字で『食費』と書いてある。こうしてバイトの給料日にはちゃんと私に食費を払うのだ。有難くそれを鞄に閉まって、食事をテーブルに並べて用意をしてから、私は背後からサクに近づく。
「ゴハンだよ」と言いながらいきなりヘッドフォンを取り上げると、不機嫌そうな顔のサクが振り返った。
「……なんだ、来てたんだ」
それだけ言って億劫そうに立ち上がり、ギターを壁に立てかける。
そうしてしぶしぶと言った感じでテーブルに着いた。
私はそれを見届けてから、部屋の窓を開ける。開けた瞬間、甘ったるい匂いが部屋の中に充満した。この窓の向こうに、金木犀が植わっていて、今が 丁度、咲く時期なのだ。
「寒い」
サクの不機嫌そうな声が台所からする。
「ちょっと換気しないと、この部屋、空気澱んでるわよ」
それに、と私は続ける。
「サクは細すぎるから寒いのよ」
サクはすごく不満そうな顔をしたが、黙って食事を続けた。
「ねえ、サク」
私は畳に座り、部屋の隅に雑然と積み上げられたコインランドリー帰りそのままの洗濯物をたたみ出しながら言う。
「あなたどう見ても未青年なんだけど、学校は?」
少し慣れてきてからはずっとこうしてサクの事を探ろうとしてるんだけど、成果はいまいち芳しくない。サクはいつも面倒くさそうに、殆どの質問に無視をする。
しばらく待っても答えがないので、ため息をついて続ける。
「これもノーコメント?じゃあ、今いくつなの?」
サクはまるで聞こえないようにインスタントのお味噌汁をすする。
こちらをちらりとも見ない。可愛くない。
しばらくして、また質問する。
「バンドでもやってるの?いっつもギター弾いてるけど」
がちゃり、とサクが食器を持って立ち上がる。それを流しに置いて、そのまま洗い出す。
私は溜息をつく。
今日も、収穫ゼロ。
サクは洗い物を終えると、私に目もくれもしないで私の脇を通り過ぎ、襖の中から鞄と上着を取り出すと、上着を着込んで鞄を背負って、そのまま部 屋を出て行ってしまう。
「いってらっしゃい」という私の声にも全く無視。
がちゃん、とドアが閉まるのを見ながら、一体自分は何をしているのだろう、といつも思うのだが、それでもこうして来てしまう。なんだか、サクは放っておけないのだ。
「もしもし?水乃?」
またもや兄から電話があったのは、もうすぐ3ヶ月になろうと言う時だった。
「……相変わらず突然ね。今はどこにいるの?」
私の呆れた声に軽快な節回しで兄は言う。
「ブラジールッ」
南アメリカまで行ったのか、とは思ったが、それでもその土地柄は陽気な兄には似合うような気がした。少なくともアイルランドとか言われるよりは納得がいく。
「でな、ホントは3ヶ月もしたら帰れるだろうと思って、家賃は3か月分しか振り込んでなかったんだけどね、俺様の偉大なる才能のせいでさ、こっちで仕事入っちゃって、しばらく帰れそうにないわけよ」
「はい?」
「だからさ、俺の部屋にギターあったっしょ?それ、売って金作って家賃に割り当ててくれないかな?どうせサク、まだ家に帰る気ないって言ってるだろ?」
家に帰る気、ということはやっぱりサクは家出少年なのか。
「家に帰るとか、そんな話したことないわよ。サク、何も話してくれないし、無視するし、すごく可愛くないんだけど」
私が不満を口にすると、携帯の向こう側で兄貴が溜息をついた。そして、 少し落ち込んだような口調で言う。
「……サク、怒ってた?」
兄は兄なりに責任を感じているようだ。
「怒ってたわよ。でも、それ以上に……」
そこで、私は言葉を止めた。あの時のあのサクの傷ついたような瞳を思い出したのだ。
あれはきっと、サクの心の中で一番柔らかい部分。決して人に触れられたくない部分だ。
あの子は、人に弱みを見られるのを何よりも嫌っている感じがする。自分が傷ついたことを私に知られたと知ったら、サクはさらに傷つくんじゃないだろうか。いつも必死に、虚勢を張って生きているような気がする彼は。
「それ以上に?」
兄の言葉で思考が戻される。
「ううん。なんでもない。……でも、かなりキレてたわ。また、何も言わないでいなくなったんでしょ?」
あの、家出の時みたいに。
「言ったら引き止められるか連れてけって言われるだろ。そういうのを振り切って行く自信、ないんだよ。俺」
情けない口調で言う兄に私は苦笑する。
馬鹿だけど、この兄は優しい。自分の方に差し出された手を目の前で振り払うことができないのだ。……単に、臆病なだけかもしれないけれど。
「それはともかく、サクの事情少しは教えて欲しいんだけど」
兄はそこで、うーん、と唸る。
「本人の了承なしにあまり人の事情は話せないだろ?」
「そんなこと言ったって、ダイジョブなの?あの子、未成年でしょう?学校も行ってないようだし、深夜のバイトしてるし……」
「アイツやっぱり学校、行ってないか?」
兄の声は不安そうだ。
「学校はダチ作るためにも行けって言ってたんだけどな。……行ってないか、そうか」
「学校って、あの近くなの?」
一人考え込みそうになった兄に私は質問する。
「近くもなにも俺たちの母校だよ。茜中学」
やっぱり、中学生だったのね。
大人っぽく見えもするから、もしかしたら高校生かも、ってちょっと思ったこともあったんだけど。
「……今、いくつなの?」
「15。中三だよ」
私よりも、3つ下。
「どういう経緯で知り合ったのよ」
その質問に、兄は苦笑するように言う。
「東京でな、この町から出てきたってヤツがいるから会ってみないかって知り合いに言われて。ホントに興味本位で会ってみたんだ。そしたらアイツ、すっげぇ可愛くなくてさ。無愛想で、しかも俺のこと睨みつけてて。もう、ソレ見た瞬間、俺は平八郎のことを思い出したね」
平八郎、というのは過去うちで飼っていた中でも1位2位を争うくらい憎たらしい猫だ。いつも、孤高を気取ってツンとしている。勿論兄が拾ってきた。今もご存命中で、だいぶ丸くなったためか、えらそうな顔で私のベッドの上を寝床と決めているが、拾ってこられた当初は誰かが側によるだけでも体中の毛を逆立てて威嚇してきた。
「それで、家出少年だろうな、と思ってそう聞いたらやっぱりそうで、家がないなら一緒に住むかって聞いたらついて来た」
兄も兄だがサクもサクだ。知らない人に付いて行っちゃいけません、とか思わないのかしら。
「でも、それって東京の話でしょう?なんであそこのアパートに?」
私の質問に兄は苦笑する。
「しばらくしてから、ちょっとバンドでトラブルがあって、解散して、俺、職にあぶれちゃった時に、帰ってきたんだよ。そのまま東京にいても良かったんだけど、こっちに戻ってきたらサクは学校行けるだろ?それに、音楽作るならこっちでも出来るし、ここからやり直せば良いと思ったんだ」
真面目な声で言う兄は立派だとはおもうけど、そういう心情でいた兄が、何故今はメキシコに居るのかと言う話だ。
兄の声の後ろで女の人の声がした。兄が慌てたように「おお」と答える。
「スマン、水乃。国際電話って結構高いんだわ。もう切るな」
「えぇと、ギターを売って家賃作ればいいんだっけ?」
私の確認に、兄は「そうそう」とせっかちに同意すると、じゃあ、と早口に言って電話を切った。




