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 ある日、突然海外に高飛びした馬鹿兄貴が私に残したものといえば、ウン十万もする、べらぼうに高いギターと、僅かにある使いようもなく古い、ガラクタに近い家具類、それに、めちゃくちゃ可愛げのないペットが1人。


 「もしもし?水乃ミズノ?」

 携帯電話から聞こえてきた、馬鹿のように明るい、お気楽な声に私は面食らった。

 昨日からどうも、知らない番号から着信が頻繁に入って、初めは無視していたのだけど、あまりにもそれが多いから、誰かが間違えてかけているのかな? なんて思って仕方がないから取ってみたが、まさかこの男だったとは。

 「お前なぁ~、一体俺が昨日から何回掛けてると思ってんだよ? 俺は疲れたよ」

 悪びれもせず、電話の向こうの主はまるで私が悪いとでも言うように文句を言う。

 なんというか、もっと先に言うことがあるでしょう?

 「あのさ」

 私は努めて平静を装いながら口を開く。この男相手に真面目になると疲れるのだ。なるたけ、冷静に、冷静に。

 「なんでアナタが私の携帯の番号知ってるの?」

 私の言葉に相手は一瞬、キョトンとした様な間を取って、それからけらけらと笑う。

 「えっとなぁ。俺のダチの彼女の弟の友達から仕入れたの」

 それってどこまで遠い知り合いよ。

 たかだか妹の携帯電話の番号を知るために、どれ程の人を巻き込む?

 色々な事が頭を巡るがとりあえず、まず聞く事はそれではない。

 一番重要なことは。

 「ところで、今どこに居るの?家出中のお兄ちゃん」


 そう、この馬鹿兄貴は今現在進行形で家出中だ。今年で3年目に突入している。

 ここ3年間、家のほうにも全く音沙汰がなく、もちろん携帯に電話が来たのだって今日が初めてだ。彼の友人たちからも全く消息が知れなく、本当にプッツリと居なくなってしまったものだから、両親はどんなに心配したことか。

 姿を消すのも突然なら、こうして現れるのも突然だ。現れるといっても携帯でだけど。

 「うーんと、今は成田」

 私の問いかけには、アッサリと答えが返ってきた。

 「成田? ……空港のある?」

 私が訝しげに聞くと兄は嬉しそうに「そうそう」と言う。

 「その、空港に居るんよ。俺」

 は?

 兄はいかにも楽しそうな声でうきうきと続ける。

 「いやぁ、ちょっとヤバイことになっちゃってさ。しばらく海外に高飛びするのね?で、ちょっと水乃ちゃんに頼みがあるんだけど」

 ちょっとちょっと。

 待て待て待て……。

 「な、ナニそれ? 高飛びって。兄貴、なんか犯罪犯したわけ?」

 って事は、私は犯罪者の妹っ!?

 焦った私の台詞に兄はにゃはは、と笑う。

 「ちゃうちゃう。それはない。ボクは音楽を愛する健全な青年ですから、犯罪に手を染めることはしませんよー。ただ、惚れた女が悪かったのさ」

 そこで1人で「ベンベン」などと合いの手を入れる。相変わらず阿呆な兄貴だ。

 「とにかく、水乃が電話をずっと無視してくれちゃったからもう、時間がないのよ。もうすぐ飛行機出ちゃうのね。だから、簡潔に言うからよっく聞いてね。……あ、ナンだったらメモ取って」

 そう言って兄は私の家からそう遠くない住所を口頭で述べる。

 「ちなみに、鍵は玄関脇にいかにも不自然に置いてある植木鉢の下ね」

 それはまたベタなところに。

 「……何? この住所」

 私の質問にはアッサリと答えが帰ってくる。

 「ここ最近、俺、帰ってきてずっとそこに住んでたの」

 「何それ? なんでそれで連絡もよこさないのよ?」

 私の質問に兄は「まーまー」と言って続ける。

 「それでさ、そこにペットが居るんだわ」

 「ペット?」

 元々、兄はよく捨て猫などを拾ってくるヤツだったから、それ自体はそれほど珍しいことじゃない。だが、彼は今、空港に居ると言った。ということは。

 「本当は連れて行ってやりたいんだけどさ。それも無理な相談で……で、まぁ、ここまで言えば勘の良い君の事だ、分かるとは思うけど、ソイツ、宜しく頼むよ」

 「そんな無責任な」

 私は思わず抗議の声を上げた。ペットが嫌だということではない。むしろ動物は好きな方だが、拾ったのは兄だ。自分で拾ったものは自分で育てるというケジメを付けられないようなヤツではなかったはず。

私の非難の言葉に兄は言う。

 「ホント、頼むよ。餌の世話だけでいいんだ。家賃とかは先払いしておいて、部屋はそのままにしておいてるから、勝手に生活するだろうから。ただアイツ、餌は1人で食えねえんだよ」

 まぁ、一応責任は感じているようだ。

 「……まぁ、餌をあげに行くだけくらいなら」

 私が渋々言うと、兄は現金な程にパッと声を明るくする。

 「サンキュ! 水乃! お土産は期待してろよ!」

 高飛びとか言っている人がお土産って。

 「それよりお父さんとお母さんにも連絡を……」

 私が言いかけると「それは駄目」と強く言われた。

 「絶対にまだ俺の事は2人に教えちゃ駄目」

 なんという親不孝な息子だ。

 私が呆れている間に、兄貴は「あ!飛行機がやばい!」などと言って早口に続ける。

 「じゃ、そういうことで、頼んだよ。名前はサクだ」

 言うが早いか、ぶち、という音が聞こえて、携帯電話は掛かってきた時と同じくらい突然に切れたのだった。


 兄が家出をしたのは兄が高2、私が中3の時だった。

 あの日のことは、よく覚えている。

 本当に普通の日だった。朝、普通に一緒に朝食を取って、普通に口げんかをして、玄関のところで普通に別れた。なのに、兄は帰ってこなかった。

 ギターを背負って、鞄を抱えて、学校に「行ってきます」と笑って言って出て行ったきり帰ってこなかった。

 両親も私も、大変混乱した。初めは友人達の所にでも泊まっているのかと思ったが、何日経っても帰ってこなかったし、連絡もなかった。誰も、兄の消息を知らなかったのだ。

 もっとも、もしかしたら兄の友人の何人かは、知っていてしらばっくれたのかも知れないけれど。兄は友人には恵まれていたから。

 一時は何か、事件に巻き込まれたのではないか、と考えたが、兄の部屋を空けてみたらそうではないことはすぐに分かった。

 普段足の踏み場もないくらい汚かった筈の兄の部屋は、恐ろしく綺麗に片付けられていたのだから。今も、その部屋はそのままにしてあり、時々、母親が掃除をしているのを知っている。兄の部屋にはほとんどの物は置き去りにしてあって、兄が持って行ったのはギターと財布と、最近ずっとバイトでこつこつと貯めていたお金が入った貯金通帳と僅かな着替えだけだった。

とにかく、そんな風にして、突然兄は消えた。置き書きなど、兄の家出の理由を示すものは何もなかった。ただ、生活必需品の他で、兄が唯一持って行ったギターの存在だけが、兄の家出の原因を私たちに推測させた。

 兄は、昔一度だけ、大学には行かないでバンドで食べて行きたい、と言って両親と大喧嘩をしたことがあった。

 その時は結局兄が押し切られたと思っていたが、兄は諦めたように見せかけて、影でずっと、この家出の計画をしていたのだろう。

 誰にも知られることなく、悟られることなく。


 「えぇと、ペットって……犬かしら? 猫かしら?」

 私はすぐ側のスーパーに行ってペットフードのコーナーの前に立ち止まってから、その事に思い当たった。

 本当に、もう少し詳しい説明をしてくれても良いものだと思う。

 とりあえず、犬か猫か分からない以上、ペットフードは避けなければならないだろう。だとしたら、魚とか、ハムとか、うどんとか、そういった物を買っていった方が良い。

 こういうものを適当に煮込んで出したものでも、結構食べるのだ。でも、もし、小さかったらミルクだな。

 そんなことを考えながらお買い物をしていたら、結構出費がかさんだ。これは、兄に後々請求するために領収書を貰っておく必要がありそうだ。

 買い物が終わると、住所のメモを手に兄貴に言われた場所へ急ぐ。

 家からそう遠くはないが、普段はあまり足を踏み入れない場所だ。治安が悪いわけではないのだが、そこは1人暮らしの人に好まれる住宅地で、私には特に用もない場所だったから。

 兄のメモに記された住所は『ボロアパート』と表現しても何の問題もなさそうな場所だった。いまどき、こんなところも珍しい。錆びた階段の脇に錆の色が浮かんで、黄ばんでしまっているプレートで『萌黄荘』と書かれていた。

 カンカン、と音を立てながら、階段を上がる。兄の部屋は2階の一番奥の部屋。

 律儀に『高岡翼』と汚い字で標識が書いてある。

 鍵は、開いているのかな?

 ノブを回してみると閉まっている。仕方がないので本当に不自然にポツンと置いてある植木鉢をどけてみる。

 言われたとおり、くすんだ銀色の鍵がそこに置いてあった。キーホルダーの1つも付けていない。

 私はそれを鍵穴に差し込む。がちゃり、と音がして鍵が開いた。

 ドアの建付けは悪かった。少し乱暴にがちゃがちゃとやって、やっと開く。

 そして、私は恐る恐る部屋に入った。

 部屋は南向きの、4畳半の部屋と台所しかなくて、すっかり傷んだ畳張りの部屋の中には安っぽいパイプのベッドとギター2本、それに古い形のTVしか目に付く物がない。

 まぁ、押入れがあるからその中に衣類当は入れているのだろうが。台所も備え付けの棚に食器や鍋などがいくつか入っている他は目立った物は見当たらない。

 台所を横切って部屋に向かう。部屋にはカーテンが引いてあって薄暗いのだが、それでも明るい陽光がカーテンの隙間から漏れていて、少し眩しい。

 ペットはどこに居るのだろう?

 私は部屋の中に入ってもっぱら下を見ながら探していたから、始め、ソレに気がつかなかった。ベッドの下にでも潜っているのかと、ベッドの下を覗き込んで、やっぱりいないと顔を上げた瞬間、ようやく気がついたのだ。

 それは、かなり衝撃的だった。

 ベッドの上には、男の子が寝ていたのだ。

 窓から差し込む光が当たって眩しいのか、眉間に皺を寄せて、それでも、目を覚ますことなく眠っている。サラサラではあるが、目に掛かるくらいに長い、鬱陶しい黒髪、どちらかというと色白な肌。健康とはあまり言いがたいだろう。体型も、凄く細い。

なんて、冷静に分析している場合じゃない。

 私は慌てて引き返して表札を確認しに、ドアまで戻る。

 だが、確かに表札には兄の名前が書いてある。珍しい名前ではないが、でも、この汚い字は兄の字だ。

では、アレは兄の友人の1人だろうか?

 それは大いに有り得ることだ。兄の留守中家に上がりこむくらいの事をしそうな友人は兄には過去にも何人も居た。では、彼は兄が高飛びしたのを知らないのだろうか。

 私はもう一度、恐る恐る部屋に入る。とりあえず、事情を聞かないと。

 そうは言うものの、気持ちよく眠っている人を起こすのはどうだろう。ベッドを見下ろしながら、私は逡巡した。こういうのは、起きるのを待っていた方が良いのだろうか。

よく見ると、目の前の男の子はまだ幼い感じがする。私よりも年下としか思えない。

兄の友人にしては、年が離れすぎてはいないか?

 そんなことを思っていたら、男の子が「うーん」と言って身じろぎをした。どうやら、タイミング良く起きてくれるようだ。

 男の子は少し、目を開く。カーテンから差し込む光が、その時は丁度彼の目の辺りに来ていたから、眩しそうに目を眇めて、私の方を見る。そして、おそらく兄だと思ったのだろう。

寝ぼけ半分の声で「タスク? ……忘れ物か?」と言いながら、のそのそと身を起こした。

 身を起こして、改めて私の姿を認めて、一瞬、自分が何を見たのか理解できないように、ぱちくりと目を瞬かせた。あ、可愛い。

 そう思ってしまうのは相手が年下だからだろうか。

そんな事を考えている間に、目の前の男の子の顔は、見る見るうちに不機嫌な物へと変わっていく。眉間に皺が寄って、険悪な目つきで。すごい不審気な顔だ。

 「誰?アンタ」

 言った声は先程よりも、2オクターブも低い。声にも険がある。

 「それを聞きたいのはこっちの方。ここは私の兄の部屋だと思うんだけど」

 私の言葉に男の子は、ジロジロと私を見る。

 「……アンタ、翼の妹?」

 「そうよ」

 私が頷くと、面倒くさそうに、寝起きでボサボサの髪をくしゃりとかきあげる。

 「で、何しに来たの? 生憎、翼は今居ないけど」

 口調はありありと私に帰れ、と言っていた。なんだか、全身で拒絶されている感じだ。

 「知ってるわ。兄は今朝、海外に高飛びしたんですって。あたしは兄貴にペットの世話を頼まれてここに来たんだけど……」

 その、ペットというのはどこにも見当たらない。

 男の子の顔が、急に強張った。

 「……高飛び?」

 「うん。よく分からないけど、惚れた女がどうだとか」

 「……っのヤロウ!」

 男の子はいきなりそう怒鳴ってがばりと立ち上がる。

 「え……ちょっと……」

 慌てたのは私のほうだ。まだ聞きたいことがたくさんある。

 「ちょっと、待ってよ。どこ行くの?」

 今にもどこかに行ってしまいそうなその子の腕を咄嗟に掴んで引き止める。

 だが、そんな物は強い力で簡単に振り払われてしまう。

 振り払われた拍子に、壁に体を打ちつけた。ひどい、乱暴な子だ。

 部屋を出て行くと思った私の予想とは違って、彼はおもむろに襖を開けた。

 襖の中には収納ボックスがいくつかと本などが並んでいて、彼はその収納ボックスの1つ1つを乱暴に開け閉めする。私は唖然としてそれを見ているしかなかった。

 全てを確認し終わってから、彼は苛立たしげに、その場に座り込んで、握りこぶしで壁を思い切り叩いた。

 「くそっ……」

 「あの」

 私が恐る恐る口を開くと「なんだよアンタ、まだ居たのかよ」と険悪な目を向けてくる。

 「あなた、誰なの?」

 私の問いかけに、彼は素っ気無く答えた。

 「アンタの兄貴のペットだよ」

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