302号室の神南君
消したくても、消せない記憶がある。
その記憶は徐々に私を蝕んで大きな傷となる。
その醜い傷は、私が前向きに生きることを認めてはくれない。
私は幸せにはなれないと、大きな傷を作った幼い日に私の運命は決まった。
「見て、法学部の神南君。」
友達に言われて、彼女の視線を追いかけてそちらを見ると、男女仲良く入り混じった集団の中心に神南准一、私のマンションのお隣さんがいるのが目に入る。
彼は男女混ざり合った集団の中心にいて、その集団は楽しそうに声をあげている。
騒がしいと言えば騒がしい集団であるが、周囲に嫌な視線を向けられるような騒がしさではない。
抽象的な表現をすると、周りから許される騒ぎ方をしていた。
彼の周りには、人が集まる。
噂では彼は、男女共に友人が多く特に女性からは恋愛感情を向けられることも少なくはないらしい。
彼がどこそこで告白されたという噂をよく聞くが、彼に彼女ができたとは聞かないから、彼女はいないはず。だから、私は彼との今の距離が保てるのだが。
時間にしてみれば、数秒私は彼に視線を向けていたが、自分のランチに視線を戻した。
視線を戻す時に、彼の視線が私をとらえたような気がしたが、大した問題ではない。
スプーンを使いながら起用にパスタをフォークに巻いていると、周りが少しだけざわめいたのが肌で分かった。
「…ラッキー」
目の前の友達は、ちょっとうきうきしたように前髪をさっと直している。
そんな友達をちらっと見ると友達の視線は私の後方に向いていることから、この後起こることが何となく想像できた。
「早坂、今日の日替わりパスタはどう?」
想像通りの声が後方からかけられる。
「うん、結構おすすめ。」
私は適当に答えながらも、食事の手を止めない。
「何その答え。」
そう言って彼は小さく笑う。
私は食事の手を止めて、後ろを振り向き彼を見る。
相変わらず優しい目ができる人だなとか思っていると、彼が質問した。
「今日、バイトだったっけ?」
「いや、違う。」
「了解。」
彼はそう言うと、さらに話をしようとしてくる。
私はそれを遮るように言った。
「お友達、待ってるよ?早く行きなよ。」
彼は集団のほうを一度見て、私に「そうだな。じゃあ。」と言ってから集団に向かって歩き出す。
私はそれを見送って、一度置いたフォークを再度握ると、彼に名前を呼ばれる。
「ランチがパスタだから、夜は白米がいい。」
それだけ言うと彼は私に背を向けて歩き出した。
「ほんと、素敵。」
甘い吐息を吐くように友達が言う。
同じような吐息が周辺に万エイしているのは、先ほど現れた彼、神南君が原因だろう。
「涼乃のおかげでたまに彼を拝めることは、ちゃんと感謝してるわよ。」
「はいはい。もう、何回も聞いたよ。そのセリフ。」
こうやって返答するのも、もう何度めだろう。
彼、神南准一と関わりを持つようになったのは大学での一年目が終了する間近の事だったと記憶している。
マンションのお隣さんではあるものの、約一年間なんの関わりも持たなかった。
一限目から授業があるとき、たまにエレベーターで会ったりしたけど、軽く挨拶を交わすだけだった。
だけど、彼は入学当初から騒がれていたので、彼の存在は私も知っていた。
そんな彼が隣の住人だと知った私は何とも思わなかった。ただ、隣の人は同じ大学なんだな、くらいにしか考えていなかった。
そんな時に、彼の落とし物を拾ったのだ。
その場所は法学部がよく使う教室で、私がその教室を利用したのは、たまたまその教室が空いていて友達を待つために時間をつぶすためだった。
そこで彼の学生手帳を見つけた。
学生課に届けようと思ったが、その日の帰りは待っていた友達の都合でばたばたと学校を後にしてしまい、学生課に届けることができなかった。
だから少し気は進まなかったが学校に行く前に、彼の部屋のインターフォンを押した。
それが縁で、私は彼と交流を持つようになった。
そして彼は学校で私を見つけるたびに声をかけてくる。
気さくな人だから、彼の周りに人が集まる気持ちもわかる。
彼は、誰からも好かれるような人だ。
だから私も彼とは普通に友達として付き合っていけているのだと思う。