ありがとう
『ありがとう』
それは感謝の言葉であり、お礼の言葉。形式上のものもあれば、本心から発せられる場合もある。
彼女がボクに言ってくれた『ありがとう』は、果たしてどんな意味が込められていたのだろうか。
初めて彼女からその言葉を聞いたのは、駅の階段で転びそうになった彼女を助けた時だった。
突然背中に衝撃が来て、振り返ると涙目の彼女がいた。どうやらボクの背中で鼻を強打したらしく、彼女の小さな鼻からは一筋の血が垂れていた。
そんな彼女にボクはハンカチを差し出した。遠慮がちに受け取る彼女の顔は真っ赤になっていて、滲む瞳がとても可愛らしかった。そんな彼女はボクの連絡先を聞くと、恥ずかしそうな顔で改札の方へ消えていった。
次の『ありがとう』の記憶は、彼女が沈む夕日を背後に、振り向いてくれた時だった。
ある日の休日、ボクと彼女は水族館に行った。
来場記念にイルカのバッジを貰った。バッジの中では、茹で上がった海老のように丸くなったイルカが笑っていた。それを彼女に言うと、彼女が笑った。小さな口を豪快に開け笑う彼女に、ボクはおどろいた。
当然、イルカのショーも見た。そこでイルカも風邪を引くことを知った。その治療薬がバファ○ンということも。素直に感心するボクの横で彼女は小さく笑っていた。
それからボクは彼女と、どのくらい『ありがとう』を言い合っただろうか。
小さな『ありがとう』から、かけがえのない『ありがとう』まで、何度『ありがとう』を言えただろう。
笑顔で言う『ありがとう』を、瞳を潤ませ言う『ありがとう』を何度聞けただろう。
最後に聞いた『ありがとう』を言った彼女は、病室の中だった。
弱々しい手つきでボクの頬をさすり、震える唇でその言葉を紡いだ。ボクは頷くしかなかった。
彼女の手から力が抜け、頬を滑るように落ちた。
あれ以来、彼女の『ありがとう』は聞けなくなってしまった。
ボクは皺くちゃの右手を見る。
「もうすぐ聞けるかな……」
ボクは窓越しに咲く桜を見て、呟いた。
あの桜が散る頃に、ボクはまだ存在しているだろうか。
「ありがとう」
彼女は昔の姿でボクの前にあらわれて言った。
小さな鼻からは血を出し、小さな口元は笑っていた。
ボクも言う。
伝えられなかった気持ちを込めて、嬉しい気持ちを込めて――――
「ありがとう」
いっぱいの感謝の気持ちを込めて。
ボクは彼女と手を繋ぐ。




