婚約破棄を承知いたしました。では、王国ごとお返しいたします。「後日談」ー彼女を捨てた者たちの末路ー
ざまぁしてそれで終わりだと物足りないですよね?
レオンハルトが目を覚ましたとき、窓の外では雨が降っていた。
薄汚れた天井。湿った寝具。壁紙の剥がれた小さな寝室。
かつて金糸の刺繍が施された天蓋付きの寝台で眠り、目覚めれば数十人の使用人が身支度を整えてくれた男の部屋とは、とても思えなかった。
「……水を持ってこい」
返事はなかった。
「おい! 誰かいないのか!」
喉を枯らして叫んでも、廊下から足音一つ聞こえてこない。
ようやくレオンハルトは思い出した。
自分には、もう命令に従う使用人などいないのだ。
「くそっ……!」
枕を床に叩きつけた。
元王太子。元王位継承者。かつては王国の次期支配者として、誰もが彼の機嫌をうかがっていた。
それが今では、王都から遠く離れた地方の屋敷に押し込められ、最低限の生活費だけを与えられる身分に落ちていた。
いや、最低限というのも正確ではない。
王族としての身分を剥奪された後、彼に残された財産は、王家への賠償金と不正流用分の返還に充てられた。屋敷も維持費を捻出できず、売却を検討されている。
彼の手元に残ったものは、古びた家具と、わずかな衣服、それに過去の栄光だけだった。
「エレノア……」
その名を口にした途端、胸の奥が焼けるように痛んだ。
あの日。
王立大広間で、彼女は自分を見つめていた。
怒りも、悲しみも、憎悪さえも見せず、ただ静かに。
あの女は、最初からすべて分かっていたのだ。
自分がどれほど愚かで、どれほど彼女に依存し、どれほど彼女の献身に支えられていたのか。
それを理解していなかったのは、自分だけだった。
「違う……」
レオンハルトは首を振った。
「私は騙されたんだ。ミリアに……あの女に騙されたんだ!」
そうだ。すべてはミリアが悪かった。
彼女が嘘をつかなければ。彼女がエレノアを陥れようとしなければ。自分に甘い言葉をささやかなければ。
自分は、あんな失敗をしなかった。
いや、そもそもエレノアが、もっと優しく接してくれていれば。
自分の努力を認め、もっと自分を立て、王太子としての誇りを傷つけないようにしてくれていれば。
あんなことにはならなかったのだ。
レオンハルトは、必死に自分を正当化した。
そうしなければ、耐えられなかった。
自分の人生を破壊したのは、他の誰でもない、自分自身だったという事実に。
そのとき、扉が叩かれた。
「……何だ」
「元殿下。お食事をお持ちしました」
入ってきたのは、年老いた女中だった。
王宮から同行してきた最後の使用人である。彼女も本来ならば王都に帰りたかったのだが、雇用契約が終わるまでのわずかな期間だけ、仕方なくこの屋敷に残っていた。
盆の上には、冷めかけたスープと黒パン、それに小さな皿に載せられた塩漬け肉があった。
「何だ、この食事は!」
レオンハルトは盆を睨みつけた。
「肉はこれだけか? ワインは? 果物はどうした!」
「申し訳ございません。今月の食費では、これ以上は……」
「食費だと? 私は王太子だったのだぞ!」
「……存じております」
女中は静かに答えた。
「ですが、今は違います」
その一言が、レオンハルトの心を抉った。
「貴様……!」
怒鳴りつけようとして、彼は言葉を止めた。
かつてなら、彼女は青ざめて頭を下げたはずだ。
しかし今の彼には、彼女を解雇する権限さえない。
女中は食事を置くと、淡々と告げた。
「明日、私は王都へ戻ります。後任の者は手配されておりませんので、身の回りのことはご自身でお願いいたします」
「待て!」
女中が振り返った。
「誰がそんなことを許した!」
「誰も許可する必要はございません。私の契約期間が終わるだけです」
「私を誰だと思っている!」
女中はしばらく彼を見つめた。
そして、ほんの少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「……かつて、王太子殿下であられたお方です」
その声には、敬意も恐怖もなかった。
ただ、過去の事実を述べるだけの響きがあった。
「失礼いたします」
扉が閉まった。
レオンハルトは、しばらく動けなかった。
自分を恐れない人間。
自分に頭を下げない人間。
自分の命令を聞かない人間。
そんな存在が、この世にいること自体が許せなかった。
だが、今ではそれが当たり前になりつつあった。
誰も彼を必要としていない。
誰も彼を尊敬していない。
そして、誰も彼のために人生を犠牲にしようとは思わない。
レオンハルトは黒パンを手に取った。
硬く、乾いていた。
かつては食卓に並んだ料理の名前すら覚えていなかった男が、今は一切れのパンの質に不満を漏らしている。
その事実が、彼の転落を何よりも雄弁に物語っていた。
それでも彼は、まだ知らなかった。
これから始まる生活が、今までの苦しみなど比べものにならないほど過酷なものになることを。
彼がかつて署名した書類の最後の一枚が、ようやく表に出てきたのだから。
※
その三日後、レオンハルトのもとに王都から使者が訪れた。
屋敷の門を開けた彼は、使者の姿を見て眉をひそめた。
「何の用だ」
「王国監察院からの通達をお届けに参りました」
「監察院だと?」
使者は礼儀正しく一礼し、一通の封書を差し出した。
レオンハルトは封を切った。
そこには、追加の財産返還命令と、過去の不正支出に関する新たな調査結果が記されていた。
王立学院の建設費。
国境砦の修繕費。
外交使節団の経費。
それらの流用だけではなかった。
彼が王太子として承認した複数の事業について、実際には存在しない工事が記録され、架空の業者へ多額の資金が送られていたのである。
その総額は、金貨七十万枚を超えていた。
「ば、馬鹿な……」
レオンハルトは書類を握りしめた。
「私は知らん! こんなことは知らない!」
「当時の支出承認書には、殿下の署名がございます」
「署名など、いくらでも偽造できる!」
「筆跡鑑定も完了しております」
使者は一切表情を変えなかった。
「また、当時の会計担当官および関係者の証言もございます。殿下ご自身が、予算の詳細を確認せず承認を与えていたことも記録されております」
「……っ!」
レオンハルトの顔が引きつった。
確かに、書類を細かく読んだ覚えはない。
会計官が持ってくる書類に署名し、エレノアが確認を求めるものだけを適当に処理していた。
彼女がいなくなった後は、さらに雑になった。
面倒な数字を眺めるより、宴会や狩猟を楽しむ方がよほど有意義だと思っていたからだ。
その結果が、これだった。
「なお、今回の調査では、当時の監督責任についても審理が行われます」
「審理だと?」
「はい。王族としての特権はすでに失われております。一般の法手続きに基づき、責任を問われる可能性がございます」
レオンハルトは使者の胸倉をつかもうとした。
「ふざけるな! 私は王家の人間だぞ!」
しかし、使者は一歩も引かなかった。
「元王族であっても、法の適用を免れるものではございません」
使者は書類をもう一枚取り出した。
「加えて、王家に対する損害賠償の支払いが滞っているため、残存財産の差し押さえが決定しております」
「何だと……?」
「この屋敷についても、売却手続きが開始されます。期限までに退去していただきますようお願いいたします」
「ここまで奪うというのか!」
「損害額が確定した以上、当然の措置でございます」
レオンハルトは、書類を床に叩きつけた。
「私は王太子だった! この国の次の王だったのだぞ!」
使者は落ちた書類を拾い上げた。
「それは存じております」
そして、静かに告げた。
「だからこそ、殿下がなされたことの責任は重いのです」
使者は去っていった。
レオンハルトは門の前に立ち尽くした。
自分が住んでいる屋敷さえ、失う。
残された財産も、失う。
身分も、権力も、名誉も、すべて失った。
それでもまだ、彼は現実を認めようとしなかった。
「エレノア……」
唇から、再びその名がこぼれた。
「お前なら……お前なら、こんなことには……」
彼はその場に崩れ落ちた。
エレノアがいれば、きっと何とかしてくれた。
書類を読み、問題を見つけ、関係者と交渉し、損失を最小限に抑えてくれたはずだ。
自分が何も理解していなくても、彼女は必要なことをすべて整えてくれた。
そうやって、彼は何年も生きてきた。
彼女の能力を当然のものと思い、彼女の努力を軽んじ、彼女の存在を疎ましくさえ感じていた。
そして、最も彼女を必要としていた瞬間に、自分の手で追い払った。
それがどれほど愚かな行為だったのか。
今になって、ようやく理解し始めていた。
だが、理解したところで何も変わらない。
エレノアは戻ってこない。
彼女が築いた信頼も、彼女が維持していた財政も、彼女が守っていた王家の名誉も、もう彼の手には戻らない。
彼は初めて、自分の人生には取り返しのつかない失敗があるのだと知った。
ミリア・ベルが収監されていたのは、王都の地下牢ではなかった。
彼女は女性囚人を収容する地方刑務所へ移送されていた。
かつて淡い桃色のドレスをまとい、宝石を身につけ、王太子の腕に寄り添っていた女の姿は、そこにはなかった。
髪は短く切られ、粗末な囚人服を着せられ、手には重労働でできた傷が残っていた。
「水を……水をください……」
看守は返事をしなかった。
「お願い……喉が渇いたの……」
「配給の時間まで待ちなさい」
「私は病気なのよ! 王太子殿下の愛人だったのよ!」
看守が振り返った。
「その話は、もう何十回も聞いた」
「本当なの! レオンハルト様は私を愛していた! 私は王太子妃になるはずだったの!」
「なら、なぜここにいる?」
「それは……」
ミリアは言葉を詰まらせた。
「エレノアが……あの女が……!」
「また他人のせいか」
看守は冷たく言い放った。
「自分の罪を認めない者は、いつまでたっても同じ場所から動けない」
足音が遠ざかっていった。
ミリアは壁に背を預けた。
あの女さえいなければ。
エレノアさえいなければ、自分は今ごろ王宮で暮らしていた。
美しい衣装を着て、豪華な食事を楽しみ、貴族たちに頭を下げさせていたはずだった。
レオンハルトは自分に夢中だった。
自分の言葉を信じ、願いを聞き、どんなわがままでも受け入れてくれた。
彼は何度も言った。
いつか自分を王妃にすると。
エレノアなど不要だと。
だから、ミリアは信じた。
自分こそが選ばれた女なのだと。
しかし、彼女が手に入れたかったものは、そもそも彼女のものではなかった。
王太子妃という地位。
王宮という住まい。
貴族たちからの敬意。
何不自由ない生活。
それらはすべて、レオンハルトが王太子であり続けることを前提とした幻だった。
その幻が崩れた瞬間、彼女の人生も崩れ落ちた。
それでも、ミリアは自分の罪を認められなかった。
毒薬を購入させたのは自分だった。
侍女にエレノアの部屋へ運び込ませたのも自分だった。
階段でエレノアを突き落とそうとしたのも、彼女の地位を奪うためだった。
自分の望みを叶えるためなら、誰かが傷ついても構わないと思っていた。
それが露見しただけのことなのだ。
だが、彼女はその事実から目を背け続けた。
「……レオンハルト様」
ミリアは膝を抱えた。
「迎えに来て……」
返事はない。
彼女は、彼が自分を救いに来ると信じたかった。
王太子ではなくなっても、財産を失っても、自分への愛だけは残っているはずだと思いたかった。
しかし、彼は一度も来なかった。
彼女が収監された後、レオンハルトは一度だけ、国王にミリアの処遇を軽くするよう願い出たことがあった。
だが、国王は即座に拒否した。
ミリアの罪は明白だった。
王太子の寵愛を利用して権力を振りかざし、虚偽の告発を行い、毒殺未遂まで企てた女である。
王家の名誉を守るためにも、特別扱いはできなかった。
その後、レオンハルト自身が罪に問われることになり、彼はミリアを救うどころではなくなった。
ミリアはそれを知らなかった。
いや、知ろうともしなかった。
彼女の世界は、いつだって自分を中心に回っていたのだから。
※
収監から半年が過ぎた頃、ミリアに一通の手紙が届けられた。
差出人は、父親のベル男爵だった。
しかし、手紙には娘を慰める言葉など一つもなかった。
『ミリア。
お前のせいで、ベル家は終わった。
お前が王太子妃になれば、家は繁栄すると信じていた。お前が王宮に出入りするようになってから、私は領民への徴税を増やし、商人から金を集め、役人に賄賂を渡した。
いつか、そのすべてを王家の権力で覆い隠せると思っていた。
だが、お前は失敗した。
王太子を失脚させ、家の不正まで暴かせた。
私は爵位を剥奪され、財産を没収され、領民への賠償を命じられている。
家族は散り散りになった。
お前の母は病に倒れ、妹は縁談をすべて破棄された。誰も我々に手を差し伸べようとはしない。
お前が王太子妃になっていれば、こんなことにはならなかった。
私はお前を許さない』
手紙は、そこで終わっていた。
ミリアは何度も読み返した。
「……お父様まで」
父は自分を愛してくれていると思っていた。
自分を王太子に近づけたのも、娘の幸せを願ってのことだと思っていた。
だが、違った。
父もまた、自分を利用していたのだ。
娘が王妃になれば、ベル家は権力を得られる。
そのために娘を王宮へ送り込み、他人を踏み台にし、財産を増やしていた。
そして、計画が失敗した途端、すべての責任を娘に押しつけた。
「ひどい……」
ミリアの目から涙がこぼれた。
「どうして……どうして私ばかり……」
彼女は手紙を握りつぶした。
けれど、その問いに答える者はいなかった。
父も、母も、妹も、もう彼女を助けようとはしない。
王太子も、彼女を愛していると告げた男も、迎えには来ない。
彼女がこれまで見下していた人々は、誰一人として手を差し伸べなかった。
かつてミリアは、エレノアにこう言った。
あなたのような女は必要ない、と。
今、その言葉はそっくりそのまま自分に返ってきていた。
誰も彼女を必要としていない。
誰も彼女を特別な存在だとは思っていない。
彼女はただ、罪を犯した囚人の一人にすぎなかった。
ミリアは泣き続けた。
その涙が何を意味するのか、自分でも分からなかった。
失った地位への未練なのか。
贅沢な生活への執着なのか。
それとも、初めて自分が誰からも愛されていないと気づいた悲しみなのか。
ただ一つ確かなことがあった。
彼女がかつて欲しがったものは、もう二度と手に入らない。
そして、彼女自身が傷つけた人々の中に、彼女を救いたいと思う者は一人もいなかった。
ミリアの父、元ベル男爵は、判決を受けた後も自分の罪を認めなかった。
彼は領民から不当に徴収した税金を返還するよう命じられたが、すでに財産の大半は没収されていた。
屋敷は競売にかけられ、家具や美術品、宝飾品までもが売り払われた。
先祖代々の土地も、債務の返済と被害者への賠償のために処分された。
かつて彼の前で腰を低くしていた商人たちは、今では彼を見ても挨拶さえしなかった。
それどころか、彼らの中には裁判で証言した者もいた。
「ベル男爵は、我々に不当な金銭を要求しました」
「断れば営業許可を取り消すと脅されました」
「領内の市場で商売を続けるため、何年も金を払い続けました」
証言は次々と積み重なった。
男爵は怒鳴り、否定し、証言者を嘘つきと罵った。
だが、帳簿も、領民の記録も、金銭の受け渡しを示す書簡も残っていた。
裁判官は淡々と判決を読み上げた。
爵位剥奪。
財産没収。
不正徴収した金銭の返還。
公金詐取に対する刑罰。
そして、被害者への賠償責任。
男爵は、そのすべてを受け入れるしかなかった。
彼に残されたのは、わずかな生活費と、名前だけだった。
いや、その名前さえ、もはや誇れるものではなかった。
ベル家は貴族名簿から削除され、王宮への出入りも永久に禁じられた。
親族たちは、次々と彼との関係を断った。
遠縁の貴族から届いた最後の手紙には、こう書かれていた。
『あなた方との関係を維持することは、我が家にとって重大な不利益となります。今後、私的な連絡は一切お控えください』
男爵は手紙を破り捨てた。
「恩知らずどもめ……!」
しかし、彼を支えようとする者は誰もいなかった。
かつて彼が金を払って従わせた役人も、財産を増やすために利用した商人も、誰一人として味方にならなかった。
そして、彼の妻もまた、夫を見捨てた。
夫婦は長年、娘を王太子妃にすることを家の繁栄と結びつけていた。
だが、その夢が潰えた今、二人の間に残ったものは、互いへの恨みだけだった。
「あなたがミリアを甘やかしたからよ!」
妻は男爵を責めた。
「お前こそ、娘を王宮へ送り込めと最初に言い出したではないか!」
「私は家のためを思って……!」
「私だってそうだ!」
二人は毎日のように言い争った。
けれど、どれだけ責任を押しつけ合っても、失ったものは戻らなかった。
やがて妻は、残っていたわずかな金を持って親族のもとへ去った。
妹も別の家へ引き取られ、ベル男爵は一人になった。
彼は安い宿の一室で、毎晩のように酒を飲んだ。
娘を恨んだ。
妻を恨んだ。
エレノアを恨んだ。
王家を恨んだ。
自分を罰した裁判官を恨んだ。
ただし、自分自身だけは、最後まで恨まなかった。
自分もまた、権力と金銭を得るために他人を踏みつけてきた人間だったという事実を、認めることができなかったのである。
彼は、死ぬまで自分を被害者だと思い続けた。
その生涯は、娘とよく似ていた。
自分の欲望を満たすために他人を利用し、失敗すれば他人を責め、最後には誰からも見捨てられる。
それがベル家の末路だった。
レオンハルトが屋敷を失ったのは、監察院から通達を受けて二か月後のことだった。
彼は王都へ戻ろうとした。
国王に直接会い、もう一度だけ助けを求めるつもりだった。
しかし、王宮の門は彼を迎え入れなかった。
「通してくれ! 私は国王陛下の息子だ!」
門番は無表情で答えた。
「面会許可は下りておりません」
「私は王族だぞ!」
「元王族でございます」
「貴様……!」
レオンハルトは門番を殴ろうとした。
しかし、近衛騎士たちがすぐに彼を取り押さえた。
「暴れるのはおやめください」
「離せ! 父上に会わせろ!」
彼は必死に抵抗した。
その騒ぎを聞きつけ、王宮の窓から何人もの人間が顔を出した。
かつて彼に仕えていた文官。
彼の命令に従っていた騎士。
彼に媚びていた貴族。
誰もが、門の外で暴れる男を見ていた。
そして、誰も助けようとはしなかった。
レオンハルトは、それに気づいてしまった。
彼らは自分を恐れていたのではない。
王太子という地位を恐れ、その地位に従っていただけだった。
自分自身に価値があったわけではない。
権力を失った途端、誰も彼を見ようとしなくなった。
「……嘘だ」
彼の声がかすれた。
「私を……誰も、助けないのか……?」
そのとき、門の向こうから一人の男が現れた。
国王の側近だった。
「陛下よりお言葉を預かっております」
「父上が……!」
レオンハルトは、すがるように顔を上げた。
「何とおっしゃった!」
側近は、冷静に告げた。
「今後、王宮への無断の立ち入りを禁ずる。王家への面会を希望する場合は、正式な手続きを経ること。なお、賠償金の支払い義務については、今後も継続するとのことです」
「……それだけか?」
「はい」
「父上は……私に、それだけしか……?」
「陛下は、すでにお決めになられました」
レオンハルトは、門を見上げた。
その向こうには、かつて自分が暮らしていた世界があった。
広い寝室。
豪華な食事。
何でも願いを叶えてくれる使用人。
自分の言葉に頭を下げる貴族たち。
そして、いつも少し離れた場所に立ち、必要なことを教えてくれたエレノア。
彼女は決して、自分に媚びなかった。
彼女は自分の意見を持ち、間違いを指摘し、必要なときには反対した。
だからこそ、彼は彼女を疎ましく感じた。
自分より優れた人間が隣にいることが、耐えられなかったのだ。
だが、今になって分かる。
彼女だけが、自分を王太子という肩書きではなく、一人の人間として見ていたのかもしれない。
それなのに、自分は彼女の忠告を聞かなかった。
彼女の価値を理解しなかった。
そして、彼女を犯罪者と呼び、皆の前で切り捨てた。
レオンハルトは膝をついた。
「……エレノア」
門番たちは、何も言わなかった。
ただ、彼を王宮の敷地から遠ざけるため、静かに道を空けた。
その日、レオンハルトは初めて、王宮から本当に追放されたのだった。
エレノアの結婚式が行われたのは、それから一年後だった。
隣国の王太子アレクシスとの婚姻は、両国にとって重要な政治的意味を持っていた。
交易協定はさらに拡大し、両国の商人たちは大きな利益を得た。
式典には各国の王族や大貴族が集まり、エレノアの美しさと知性を称賛した。
彼女は純白のドレスをまとい、アレクシスの隣に立っていた。
その姿は、かつてレオンハルトが想像していた王太子妃の姿そのものだった。
いや、それ以上だった。
彼女は誰かに従属するためにそこにいるのではない。
自分の意思で、対等な相手と未来を選んだのだ。
その知らせは、レオンハルトの住む町にも届いた。
彼は酒場の隅で、新聞を握りしめていた。
記事には、結婚式の様子が詳しく記されていた。
エレノアが隣国の王太子と並び、両国の未来を祝福されていること。
彼女が新たな王妃として迎えられること。
彼女の能力を高く評価する各国の使節が、祝辞を述べたこと。
そして、結婚式の後に発表された共同声明には、エレノアが長年取り組んできた経済政策が、両国の協力によってさらに発展する見通しであると記されていた。
「……嘘だ」
レオンハルトは、記事を読み返した。
「どうして……」
どうして、彼女は幸せになっているのだ。
自分は、これほど苦しんでいるのに。
彼女は自分を恨んでいるはずだ。
自分の失敗を笑い、転落を喜んでいるはずだ。
そうでなければ、納得できなかった。
自分が失ったものを、彼女が何事もなかったかのように手に入れている。
その事実が、何よりも耐えがたかった。
レオンハルトは、その夜、手紙を書いた。
『エレノアへ。
君の結婚を知った。
まずは、おめでとうと言うべきなのだろう。
私は、君に謝りたい。
あの日、君を信じなかったこと。君を侮辱したこと。君がどれほど私を支えてくれていたのか、理解しようともしなかったこと。
今になって、ようやく分かった。
私は、君がいたから王太子でいられた。
君がいなければ、何もできなかった。
それなのに私は、君を必要ないと切り捨てた。
どうか、もう一度だけ会ってほしい。
君に謝罪する機会を与えてほしい。
私は変わった。もう以前の私ではない。
君が許してくれるなら、私は――』
そこで、筆が止まった。
レオンハルトは、最後の一文を書けなかった。
君が許してくれるなら、私は何をするというのだろう。
もう一度、君の力を借りるのか。
君に助けてもらい、君に生活を支えてもらい、君の能力にすがって生きるのか。
彼は手紙を見つめた。
そして、最後に一文を書き足した。
『私は、君がいなければ何もできない人間だった』
封をして、王都へ送った。
数週間後、手紙は戻ってきた。
封は開かれていなかった。
表には、簡潔な文言が記されていた。
『受取人の意向により、受領を拒否いたします』
レオンハルトは、その紙を見つめた。
何度も何度も、見つめた。
そして、笑った。
「……そうか」
乾いた笑いだった。
「そうだな……当然だ……」
彼女はもう、自分を必要としていない。
いや、最初から必要としていなかったのかもしれない。
自分が彼女を必要としていただけだった。
そのことに気づくまで、あまりにも長い時間がかかった。
レオンハルトは手紙を握りしめた。
彼女の人生は、自分がいなくても続いていく。
彼女は自分のいない世界で、幸福を手に入れた。
それどころか、自分がいなくなったことで、彼女はようやく自由になれたのだ。
その事実は、どんな罰よりも重かった。
なぜなら、彼女が幸福になるために、自分の存在は必要なかったからだ。
その翌年、ミリアは刑期の一部を終えた後も、王都へ戻ることを許されなかった。
彼女は毒殺未遂と証拠捏造、脅迫などの罪により、長期の拘禁刑を受けていた。
さらに、被害者への賠償金も課されていた。
彼女の父親はすでに財産を失い、彼女のために金を支払うことはできなかった。
ミリア自身も、刑務所内の労働で得たわずかな報酬の大半を、賠償金の返済に回されていた。
彼女には、未来が見えなかった。
そんなある日、彼女は刑務所の礼拝室へ連れていかれた。
そこには、年配の司祭がいた。
「ミリアさん。あなたは、自分が犯した罪について考えたことがありますか」
「……あります」
「では、何を思いましたか」
ミリアは目を伏せた。
「私は……運が悪かったのです」
司祭は、何も言わずに彼女を見つめた。
「エレノア様が、あんなに強い人だとは思わなかった。レオンハルト様が、あんなに簡単に失脚するとも思わなかった。父が私を見捨てるとも思わなかった」
「それが、あなたの考えなのですね」
「……はい」
「では、あなたは自分が何をしたのか、まだ理解していないのでしょう」
ミリアは顔を上げた。
「私は、何もしていないとは言っていません!」
「いいえ。あなたは、自分がしたことを、運が悪かったという言葉で片づけているのです」
司祭は静かに続けた。
「あなたが毒薬を用意したのは、誰の命令ですか」
「……私です」
「あなたがエレノア様を陥れようとしたのは、誰のためですか」
「……自分のためです」
「あなたが他人を脅し、金品を要求したのは、なぜですか」
「……欲しかったからです」
「では、なぜ今も他人のせいにするのですか」
ミリアは、答えられなかった。
彼女はこれまで、自分の欲望を正しいものだと信じてきた。
美しい自分は、特別扱いされて当然。
愛される自分は、望みを叶えられて当然。
王太子に選ばれた自分は、他の女より上の存在で当然。
その考えが、どれほど多くの人間を傷つけてきたのか。
彼女は初めて、そのことを考えた。
エレノアは、自分に何もしていなかった。
ただ、婚約者として与えられた役割を果たしていただけだった。
自分が彼女を憎んだのは、彼女が優秀だったからだ。
彼女が自分よりも高い地位にいて、レオンハルトから正式な婚約者として扱われていたからだ。
だから、彼女を消そうとした。
その結果、自分が失敗した。
ただ、それだけのことだった。
「……私は」
ミリアの声が震えた。
「私は、間違っていたのでしょうか」
「それを決めるのは、あなた自身です」
司祭は答えた。
「ただし、過去を変えることはできません。罪を犯した事実も、傷つけた人々の苦しみも、なかったことにはならないのです」
ミリアは、顔を覆った。
初めて、自分のしたことを思い返した。
エレノアを階段から突き落とそうとしたとき。
彼女の部屋に毒薬を忍ばせたとき。
大広間で、彼女を犯罪者だと告発したとき。
あのとき、自分は何を考えていたのか。
ただ、勝ちたかった。
彼女よりも上に立ちたかった。
自分が選ばれる側の人間だと、証明したかった。
そのために、他人の人生を壊そうとした。
そして、自分自身の人生を壊した。
「……ごめんなさい」
ミリアは、小さくつぶやいた。
その謝罪は、エレノアに届くことはなかった。
届いたとしても、彼女が許す理由にはならなかっただろう。
それでも、ミリアは初めて、自分が犯した罪を、他人のせいにせずに見つめようとしていた。
だが、それは救いではなかった。
彼女には、これからも刑期が残っている。
賠償金も残っている。
そして、失ったものは何一つ戻らない。
後悔したからといって、過去が消えるわけではないのだ。
彼女はその事実を、これから何年もかけて思い知ることになる。
さらに十年が過ぎた。
隣国の王妃となったエレノアは、国政に深く関わり、夫アレクシスとともに国を繁栄させていた。
交易路は拡大し、周辺諸国との関係は安定し、王国の財政も着実に改善していた。
彼女の名は、優れた政治家として知られるようになった。
一方、かつて彼女を追放した王国は、長い時間をかけて立て直しを進めていた。
国王は退位し、王位は別の王子へと引き継がれていた。
レオンハルトは、王宮から遠く離れた町で、孤独な生活を送っていた。
彼の生活は、年を重ねるごとに苦しくなっていった。
賠償金の支払いは続き、健康も衰え、働くことさえ難しくなっていた。
彼を知る人々は、彼を元王太子と呼ばなくなった。
ただ、かつて王位継承者だった男。
それだけの存在になっていた。
彼は、ときおり町の図書館を訪れた。
そこには、隣国の王妃となったエレノアの功績を記した書物が並んでいた。
ある日、彼は一冊の歴史書を手に取った。
ページをめくると、若い頃のエレノアの肖像画が載っていた。
彼女は美しく、聡明な顔立ちをしていた。
そして、その隣には、彼女を見下していた自分の名が記されていた。
『レオンハルト王太子は、政治的判断を誤り、婚約者であったエレノア・フォン・ヴァレンシュタインを公然と断罪した。その後、財政不正が発覚し、王太子位と王位継承権を剥奪された』
それだけだった。
彼がどれほど贅沢をしたのか。
どれほど彼女に支えられていたのか。
どれほど彼女を傷つけたのか。
歴史書は、必要以上に語ろうとはしなかった。
彼は、歴史の中の失敗例として記録されているにすぎなかった。
「……私の人生は、こんなものだったのか」
レオンハルトは、かすれた声でつぶやいた。
かつては、歴史に名を残す偉大な王になるつもりだった。
自分の名を冠した建物を造り、軍を率い、国を豊かにし、後世の人々から称賛されるはずだった。
だが、彼が歴史に残したものは、愚かな判断と取り返しのつかない失敗だった。
それも、自分の能力不足だけが原因ではない。
自分には、優れた人間がいた。
自分を支え、欠点を補い、王国の未来を守ろうとしてくれた人間がいた。
彼女の助言を受け入れていれば。
彼女を信じていれば。
彼女を対等な人間として尊重していれば。
少なくとも、あのような結末にはならなかったかもしれない。
しかし、彼はそれを選ばなかった。
だから、今がある。
レオンハルトは本を閉じた。
涙は出なかった。
何年も後悔し続けた結果、泣くことさえできなくなっていた。
彼は図書館を出た。
夕暮れの街には、人々の笑い声が響いていた。
商人が店を閉め、子供たちが家へ帰り、老夫婦が手をつないで歩いていた。
誰も彼に気づかない。
誰も彼を見ていない。
彼がかつて王太子だったことなど、誰も知らない。
そして、知ったところで、誰も興味を持たないだろう。
レオンハルトは、ゆっくりと歩き始めた。
彼には、帰る場所があった。
小さな部屋。
粗末な食事。
誰も待っていない夜。
それが、彼に残された人生だった。
※
ミリアもまた、長い年月を刑務所で過ごしていた。
彼女は刑期を終えた後、王都から遠い地方の町へ移された。
だが、そこに彼女を迎える家族はいなかった。
父親はすでに亡くなり、母親も病で世を去っていた。
妹は別の家に嫁ぎ、ベル家との関係を完全に断っていた。
ミリアには、帰る場所がなかった。
彼女は町の洗濯場で働き始めた。
朝から晩まで衣服を洗い、重い水桶を運び、わずかな賃金を得た。
かつて彼女が身につけていた宝石は、もうない。
美しいドレスもない。
王太子の愛人という肩書きもない。
彼女を特別扱いする人間もいない。
ある日、洗濯場で働く若い娘が、彼女に尋ねた。
「ミリアさんは、昔、貴族だったんですか?」
ミリアは手を止めた。
「……ええ」
「すごいですね。どうして今は、ここで働いているんですか?」
彼女は、すぐには答えられなかった。
かつての自分なら、喜んで過去を語っただろう。
王太子に愛されていたこと。
王宮へ出入りしていたこと。
自分がどれほど特別な存在だったか。
だが、今では、その話をすること自体が苦痛だった。
「……私が、愚かだったからよ」
ミリアは、ようやく答えた。
娘は不思議そうな顔をした。
「愚か?」
「ええ。自分が何でも手に入れられると思っていたの」
ミリアは濡れた布を絞った。
「自分の望みを叶えるためなら、誰かを傷つけてもいいと思っていた。自分が特別だから、何をしても許されると思っていた」
「……」
「でも、違ったのよ」
彼女は、手のひらを見つめた。
そこには、長年の労働でできた傷があった。
「自分が特別だと思っていたのは、自分だけだったの」
娘は、何も言わなかった。
ミリアは再び洗濯を始めた。
その顔に、かつての華やかな笑みはなかった。
ただ、長い年月をかけて、自分の罪と向き合おうとする女の顔があった。
彼女がどれほど後悔しても、エレノアの人生は戻らない。
彼女がどれほど反省しても、被害者たちが受けた苦しみは消えない。
ミリアは、それを理解するまでに、あまりにも長い時間を費やした。
そして、理解したときには、もう何も取り戻せなかった。
レオンハルトが病に倒れたのは、さらに数年後のことだった。
彼には、治療費を十分に支払う余裕がなかった。
町の医師が診察したが、回復の見込みは薄いと告げられた。
彼は小さな寝台に横たわり、天井を見つめていた。
窓の外には、冬の空が広がっていた。
彼は、もう誰かを呼びつけることもできなかった。
ただ、時折、昔の夢を見た。
王宮の広間。
輝くシャンデリア。
自分の隣に立つミリア。
そして、静かにこちらを見つめるエレノア。
夢の中で、彼女はいつも同じことを尋ねた。
『今のお言葉に、間違いはございませんか?』
そのたびに、彼は答えようとする。
違う、と。
あれは間違いだった、と。
自分は愚かだった、と。
だが、声が出ない。
彼女は微笑み、静かに頭を下げる。
『承知いたしました』
そして、去っていく。
彼は何度も手を伸ばした。
しかし、彼女に届くことはなかった。
「……エレノア」
病床で、彼はその名を呼んだ。
誰も返事をしなかった。
彼は、最後に一通の手紙を書こうとした。
だが、指に力が入らず、文字をまともに書くこともできなかった。
結局、彼は白紙の便箋を見つめるだけだった。
何を伝えればよかったのだろう。
謝罪か。
後悔か。
それとも、最後まで彼女に助けを求める言葉だったのか。
彼には分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼女に会いたかった。
もう一度だけ、彼女の顔を見たかった。
彼女の声を聞きたかった。
そして、できることなら、あの日の自分をやり直したかった。
だが、人生にやり直しはない。
彼はそれを、死の間際になってようやく理解した。
数日後、レオンハルトは息を引き取った。
葬儀は小規模なものだった。
参列者は、町の医師と、彼の世話をしていた隣人、それに役所の担当者だけだった。
王宮から弔問の使者は来なかった。
かつての臣下も、貴族たちも、誰一人として姿を見せなかった。
彼の墓には、簡素な石碑が置かれた。
そこには名前と生没年、そしてかつて王族であったことを示す最低限の記録だけが刻まれた。
王国の歴史書には、彼の死について数行が追加された。
それだけだった。
彼は王になることを夢見た。
だが、王になるどころか、王族としての人生さえ全うできなかった。
そして、最後まで、自分が失ったものの本当の価値を理解しきれなかった。
彼が失ったのは、王位だけではない。
自分を支えてくれる人間を、自らの手で追い払ったという事実。
その事実こそが、彼の人生を最後まで蝕み続けたのである。
※
ミリアがレオンハルトの死を知ったのは、その数か月後だった。
町の新聞に、小さな記事が載っていた。
かつての王位継承者が、地方の町で病没したという短い報せだった。
ミリアは、記事を読み終えると、しばらく動けなかった。
「……レオンハルト様」
彼女の胸に浮かんだのは、悲しみだった。
少なくとも、最初はそう思った。
だが、涙が流れた後、彼女は自分の気持ちに気づいた。
彼女が悲しかったのは、彼が死んだからだけではない。
もう、自分が王太子妃になれる可能性が完全に消えたからだった。
かつては、彼が生きている限り、何かが変わるかもしれないと思っていた。
いつか彼が自分を迎えに来るかもしれない。
いつか自分の罪が許され、もう一度だけ華やかな世界へ戻れるかもしれない。
そんな希望を、心のどこかに残していた。
しかし、彼が死んだ。
その瞬間、最後の幻想も消えた。
「……そうよね」
ミリアは、新聞をたたんだ。
「もう、終わったのよ」
彼女は再び仕事に戻った。
水を運び、布を洗い、賃金を受け取る。
それが彼女の人生だった。
彼女はもう、特別な女ではない。
王太子に愛された女でもない。
貴族社会で名を知られた女でもない。
ただ、罪を犯し、長い刑罰を受け、その後の人生を細々と生きていく一人の女だった。
それでも、彼女は生き続けなければならなかった。
自分が犯した罪の重さを、忘れずに。
誰かの人生を壊そうとした自分が、今後どのように生きるべきなのかを、考え続けながら。
それが、彼女に残された唯一の道だった。
終章 彼女は振り返らない
その頃、隣国では、エレノアとアレクシスの間に子供が生まれていた。
王宮は祝福に包まれ、国民たちは新たな王子の誕生を喜んだ。
エレノアは、母となっても政務を続けた。
彼女は国の未来を考え、民の暮らしを守り、夫と協力しながら新しい制度を整えていった。
ある日、アレクシスが彼女に尋ねた。
「エレノア。君は、かつての王国のことを考えることがあるか?」
彼女は書類から顔を上げた。
「かつての王国、ですか?」
「君が婚約を破棄された国だ。レオンハルトのことも、ミリアのことも」
エレノアは少し考えた。
「……いいえ。ほとんどありません」
「そうか」
「彼らが今どうしているのか、私には分かりませんし、知る必要もございませんもの」
アレクシスは、彼女の手を取った。
「君は、彼らを許したのか?」
エレノアは静かに首を振った。
「許すも何も、もう私の人生に関係のない方々ですわ」
それは、冷酷な言葉ではなかった。
彼女は、彼らを憎み続ける必要もなかった。
彼らの不幸を確認し、喜び、嘲笑する必要もなかった。
彼らがどれほど破滅したとしても、彼女の人生がより豊かになるわけではない。
彼女は、もう自分の人生を歩いていた。
過去に縛られる必要はなかった。
「私は、あの日に学びました」
エレノアは窓の外を眺めた。
「どれほど努力しても、その価値を理解しようとしない人間はおります。どれほど尽くしても、感謝するどころか、それを当然だと思う人間もおります」
「……」
「だからこそ、自分の価値を理解しない人間に、人生を捧げてはいけないのです」
アレクシスは、彼女の手を握り返した。
「私は、君の価値を理解し続けたい」
「ありがとうございます。私も、あなたと共に歩んでいきたいと思っております」
二人は微笑み合った。
その表情には、過去の苦しみも、後悔も、憎悪もなかった。
ただ、これからの人生を共に歩む者同士の、穏やかな信頼があった。
エレノアは、かつての王国を思い出すことなく、窓の外へ視線を向けた。
そこには、豊かな街並みが広がっていた。
人々が働き、子供たちが遊び、商人たちが活気よく商品を売り買いしている。
自分の努力が、誰かの生活を支えている。
自分の知識が、国の未来を守っている。
そして、自分の隣には、自分を尊重してくれる人間がいる。
それで十分だった。
彼女は、もう何も証明する必要がなかった。
自分が優れていることも。
自分が正しかったことも。
自分を見捨てた者たちが間違っていたことも。
すべては、もう過去のことだった。
彼女はただ、前を向いて生きていく。
それこそが、彼女にとって最も大きな勝利だった。
そして、彼女を捨てた者たちは、最後までその意味を理解できなかった。
レオンハルトは、王位も、名誉も、財産も、そして人生の最後にすがろうとした希望さえ失った。
ミリアは、地位も、家族も、贅沢な暮らしも、誰かに特別扱いされる夢も失った。
ベル家は、爵位も、土地も、財産も、名誉も失った。
彼らはそれぞれ、自分の欲望を満たすために選択した。
そして、その選択の結果を、生涯にわたって背負うことになった。
誰かが彼らを罠にはめたわけではない。
彼らが自分自身の判断で、他人を傷つけ、自分の未来を壊したのだ。
最後に残ったのは、取り返しのつかない後悔と、二度と戻らない過去だけだった。
エレノアは、彼らの破滅を見届ける必要さえなかった。
彼女が幸福に生きている。
それだけで、彼らが彼女を捨てたことの愚かさは、何よりも明らかだったのだから。
婚約を破棄したのは、レオンハルトだった。
彼女を陥れようとしたのは、ミリアだった。
家の繁栄のために不正を重ねたのは、ベル男爵だった。
彼らは自分の手で、未来への道を閉ざした。
そして、エレノアは、自分の手で新しい未来を築いた。
彼女を捨てた者たちは、すべてを失った。
彼女を信じ、尊重した者たちは、彼女と共に未来を手に入れた。
その差は、才能でも、身分でも、運でもなかった。
ただ、自分の選択に責任を持ったかどうか。
他人を尊重することができたかどうか。
そして、何よりも。
目の前にある大切なものの価値を、理解できたかどうか。
それだけの違いだった。
彼らが失ったものは、あまりにも大きかった。
だが、本当に恐ろしいのは、失ったことそのものではない。
彼らが最後の最後まで、自分たちが何を失ったのかを完全には理解できなかったことだった。
その愚かさこそが、彼らに与えられた、最も重い罰だったのである。




