「しあわせのタネ」が入ったチーズケーキ
日曜日の朝、いつもより早く目が覚めた。
歳をとると早く目が覚めると聞いたことがある。
30歳を目前に「30歳ってもう歳なのかな?」
なんて思ってしまうが、まあ、そんなことはどうでもいい話で、今日も当たり前のようにパチンコ店に向かった。
私は高橋真一。
地元の大学を卒業後、上京し、安定した企業に就職。
仕事にやりがいもあり、可愛い彼女もいて、平凡ながらも悪くない日々だったと思う。
それが、どこでどう歯車が狂ったのか…
伸び悩む業績、人間関係に疲れ、次第に自分の
していることが全て空回りしていった。
同僚の華々しい出世。
仕事のせいにする訳ではないが、可愛い彼女とも別れて二年が過ぎた。
「彼女、今度結婚するらしいよ」親切に教えてくれるやつもいる。
いいさ、俺の人生こんなもんさ。
どれくらい打ち続けていたんだろう。外に出ると、朝の雨は上がっていた。
傘立てから自分の傘を手に取った。
私の傘はよくある透明のビニール傘だ、だが、持ち手にアンブレラマーカーが付いているので一目でわかる。
これは、別れた彼女が付けてくれたものだ。
未練があるわけではない。ただ、こんなときに便利なだけだ。
帰る途中、道路脇の細い路地が目に入った。
何度も通ったことのある道なのに、今まで全く気づかなかった。
路地を少し入った所に小さな看板が見えた。
「喫茶ケルマ」
店のドアを開けてみた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中から老婦人が静かな笑顔で迎えてくれた。
店内はボックス席が3つあり、カウンター席が5つ。ボックス席は満席でカウンター席へと案内された。
店は古いが掃除が行き届いて、趣味のいい装飾品が控えめに飾られていた。
しかし、どこを見渡してもメニューが見当たらない。
水を運んで来た老婦人に「あの、メニューは…?」と尋ねると、「先に言えばよかったですね、ここはチーズケーキだけなんですよ…」
老婦人は少しすまなそうにいった。
この老婦人が、店の名前にもなっている「ケルマ」らしい。
甘いものはあまり得意ではないが、チーズケーキとコーヒーを注文した。
そう言えば店に入ったときから、甘い香りでいっぱいだ。
店内を見ていると“しあわせのタネ“と書かれたプレートが目に入った。
私は老婦人に「そこに書いてある“しあわせのタネ“って何ですか?」
老婦人は微笑んで「何から話しましょうかね」どこか嬉そうに話し始めた。
私は運ばれたチーズケーキを食べながら、話を聞いた。
チーズケーキを食べて見ると、フワッ、としていて甘さが控えめで、中にはレーズンが入っていた。
どうやらこれが「しあわせのタネ」のようだ。
老婦人が焼くチーズケーキには必ず「しあわせのタネ」が入っていた。
以前ぶどうの花の、花言葉が「思いやり」と聞いたことがある。
「しあわせのタネ」の入った、チーズケーキの考案者は老婦人の、おばあさんだと話してくれた。その方はドイツ生れの方で、ケルマという名前の方だったらしい。
そして今、私の前にいる老婦人もケルマだと話してくれた。
「私の母が『ケルマ』という名前が気に入って、私も同じケルマにしたらしいの、とても気に入っているのよ」と老婦人は微笑んだ。
そして話は「しあわせのタネ」の話になった。
「祖母はね、『みんなの心にしあわせの花が咲きますように』って、言いながらいつも「しあわせのタネ」を入れてチーズケーキを焼いていたの。
私は祖母と祖母の作るチーズケーキが大好きで、ずっと一緒に作ってきたの。だから今もこうして焼いているのよ」
そう話す老婦人の表情は、店内いっぱいに広がるチーズケーキの香りのように柔らかだった。
やがて老婦人は1冊のアルバムを見せてくれた。
そのアルバムには、老婦人が今まで作ったケーキの写真がすべて丁寧に貼られていて、誕生日、入学、卒業、結婚、もちろんクリスマスケーキもあった。
変わったところでは、子犬の(ハナ)が家族になった日。孫が習字のコンクールで入選した記念。というのもあった。
それぞれに手書きの日付とメモが添えられていた。
驚いたことに、二つとして同じものが一つもなかった。
「食べた人の物語に添えれるように、少しずつ、少しずつ変えているのよ」
老婦人のその想いは、ケーキの写真を見れば一目瞭然だった。
私がアルバムを見ていると、ドアが開いて、小さな女の子とその母親が入ってきた。
女の子は「ケルマこんにちは」と言ってカウンターへやってきた。
老婦人も「ミミちゃん、こんにちは」と笑顔で迎えた。
この親子は常連さんで、今日は土産用のケーキを買いに来たらしい。
母親がケーキを用意してもらっている間、女の子は、不思議そうな顔をして私の傍にいた。
確かに男が1人ケーキを食べているのは、この店の雰囲気には、合わないのかも知れない。
私が「チーズケーキ好き?」と聞くと「ケルマのチーズケーキが大好き」と愛くるしい笑顔で答えてくれた。
そして「お兄ちゃんも好き?」と聞いてきた。
なんと可愛いことか、おじさんではなくて、お兄ちゃんと呼んでくれた。
私が「うん、ケルマのチーズケーキ美味しいね」そう答えると、笑顔いっぱいのハイタッチをしてきた。
「ミミ、帰るわよ」母親の呼ぶ声に、「お兄ちゃんバイバイ」と手をふって二人は帰っていった。
私はカウンターに戻ってきた老婦人に「私、高崎真一と言います。ケルマ、って素敵な名前ですね。私にもケルマと呼ばせてください」
老婦人は、この日初めて来た、私の厚かましいお願いにもかかわらず「ええ、もちろん、私もケルマと呼ばれるのが1番落ち着くのよ」とにっこりと微笑んでくれた。
「ところでケルマ、「しあわせのタネ」の入ったチーズケーキを食べて、いい事があった報告とかあるのですか?」そういって、私は直ぐに慌てて言い直した。
「あっ、ごめんなさい。失礼ですね、このアルバムを見れば分かりますよね」
焦る私を見て、「いいえ、いいんですよ。同じことを聞いてくるお客様いますよ」と、笑って話してくれた。
「ここでチーズケーキを食べて、帰りに綺麗な虹を見た!とか、連絡が取れてなかった友達とバッタリ会った!とか、さっき来ていたミミちゃんは『ケルマのチーズケーキを食べた、次の日のかけっこで1番になったの!』って、可愛い報告をしてくれたのよ」
ケルマの話を聞いて、まぁそんなもんだよな、いくら「しあわせのタネ」が入っていても、宝くじが当たった!とか昇進した!とかそんな甘い話はないよな。
そんな都合のいいことを考えながら話を聞いていると、ケルマは少し落ち着いたトーンで「でもね、何年も前の話だけど、1人で来ていた女性が、そこのボックス席でチーズケーキと紅茶を注文して、寂しそうな顔で食べてたの。
そして帰り際に『ごちそう様でした。「しあわせのタネ」って優しい味がするんですね。美味しかったです』そう言って少し微笑んで帰って行ったの。でもその微笑みは少しぎこちなくて、目には少し涙が見えた気がして…
だから気なっていたの。
そしたらね、ある日ドアが開いてその女性が笑顔で入ってきたの。私、嬉しくて、とても幸せな気持ちに…」
その話に割って入るように、ボック席の客が「ケルマ、お願いします」とレジに向かった。
客のほとんどが、老婦人を「ケルマ」と呼んでいた。
客が帰ったあとケルマは、また話始めた。「チーズケーキを食べたお客様がね、『ケルマありがとう』って、色々なことを報告してくれるの、なかには『特別なことは何もないけれど、幸せな気持ちになれたわ』っていってくれるお客様もいてね。
そんなとき、私、いつも言うのよ『私はしあわせのタネをまいただけです。食べた方の優しい心が肥料になって、しあわせの花を咲かせてくれるのですよ。私の方こそ素敵な花を咲かせてくれてありがとう』ってね。
私の方がお客様にしあわせにしてもらっているのよ。だから、さっき話した女性もそうなの、それから彼女は、今も時々笑顔を見せてくれるの。彼女の笑顔も、また、私をしあわせにしてくれたの。」と、本当に幸そうに話してくれた。
私は帰り道、宝くじに当たるだの、昇進するだの考えた自分を恥じた。
その日から私は時間がある時は、いや、時間を探してでも、ケルマの店に通うようになった。
さっきも話したように、私は甘い物は得意ではない。
ましてや「しあわせのタネ」を食べて一攫千金を狙っているわけでもない。
だが、ケルマの店のように、初めて行った店で居心地が良く、時間を忘れて話し込んだのは初めてだ。
考えて見れば地元の大学を卒業し、上京して就職。職場の人以外とは、ほとんど話したことがなかった。
ケルマの店に通うようになってからは、今まで見なかった、知らなかった景色に出会えた。
私が初めてケルマの店に来たときに会った、親子とも偶然会うこともあり、ミミは私を見ると「お兄ちゃん」といって駆け寄って来てくれる。
何十年も通っているというお爺さんとも話が合い、店で会うと話をするのが楽しみになった。
この店には、老若男女を問わず色々な人が来る。
そしてみんな温かい。
いつの間にか私も「あっ、こんにちは」「お疲れ様です」と、挨拶を交わす人が増えた。
私の仕事は大して変わらないが、この店に来た頃に比べると、あの頃感じた疲弊感はなくなっていた。
会社での居心地も少し良くなった気がするが、周りからいわせれば、あの頃の私は近寄り難い負のオーラがあったといわれ、流石に笑ってしまった。
伸び悩む業績、今からでも遅くはないさ。
理不尽な人間関係、考え方なんて人それぞれ違って当然。
同僚の出世、彼はよく頑張ってた。今は素直におめでとうがいえる。
別れた彼女は縁がなかっただけ。
こう思えるのも、「しあわせのタネ」のおかげなのか?
だとするとケルマが言うように、私の心の中にも、まだしあわせの花を咲かせる肥料があったようだ。
よし、明日こそケルマの店に行くぞ。
そう決めて仕事を急いだ、最近忙しくて全然行けていなかった。
翌日、ケルマの店に向かいながら、初めてケルマの店に行った日のことを思い出していた。
あの日は、梅雨の雨の中をパチンコに行き、帰り道偶然ケルマの店に入った。
早いもので、あれから半年が過ぎようとしている。
ケルマの店の近くの街路樹も、すっかり綺麗に紅葉している。
あの日、路地のケルマの店に気付いていなかったら…
ドアを開けると、カウンターの中から「いらっしゃいませ。あら、しんちゃん元気だったの?みんな心配していたのよ」ケルマが笑顔で迎えてくれた。
私もいつの間にか、この店ではしんちゃんと呼ばれるようになり、私のことを心配してくれる人がいる。とても幸せなことだと思っている。
久しぶりにケルマのチーズケーキを食べた。
甘いものが得意でなかった私だが、ケルマのチーズケーキだけは特別だった。
ケルマと話していると、店のドアが開いてミミが母親と入って来た。
ミミは私を見ると「あ、お兄ちゃんだー!」と駆け寄って来てた。
そして私に抱きついて「私、お兄ちゃんとけっこんしてあげるね!」と、可愛いプロポーズを受けた。
私は笑ってミミを抱き上げて「ケルマ、ケルマの『しあわせのタネ』すごいよ。こんなに可愛いフィアンセができたよ」
最後までお読みいただきありがとうございました。