「溶けるようなキスの味」
昼休憩のとき、クラスメイトの会話が私の耳に入ってきました。机に突っ伏して眠る私の朧げな頭には能天気な騒ぎ声に感じられましたが、多少の興味はあったのかもしれません。キスの話でした。それも味についての。レモンだとかチェリーだとか甘酸っぱい果物の名前を挙げては反論し合う声に、真昼間から大声でなんてハレンチなんだいと聞き耳を立てていました。私は生涯そのような経験はありませんし、当然キスには味などないと思います。ただ、甘酸っぱい出来事であり、触れた唇は柔らかな弾力と甘い風味があればいいな、なんて考えてしまいます。私も同類のハレンチになりたくはない。こんな妄想は、いつの間にか垂らしていたよだれと一緒に飲み込みました。
三年も前のこんな出来事を思い出しているのには訳があるのです。どうか忘れられない夜の話と合わせて聞いてはもらえないでしょうか。
ここは先斗町。大学生になった私は先輩に連れられて、飲み会の中にいました。私にとっては苦痛でしかなかった。京都の夏は地獄だと聞いてはいたが、ここまでだとは。七月の湿度と、安い酒の香りと、ドンチャン騒ぎの大学生でむせかえる居酒屋から、私はつい先輩に嘘をついて店を飛び出していました。申し訳のない気持ちも、引き留めはしない先輩を見て、スッと消えていきました。
外はいくらか風通しがよく、心地良いものでした。いえ、その心地の良さはきっと別のものが原因でした。鴨川の夜風に吹かれるマドンナの姿、これが原因でしょう。一目彼女を見た者はたちまち恋に落ち、その恋煩いから皆大学をやめてしまうと噂される「京産生のマドンナ」。ジーパンにTシャツのラフな姿では、麗しい髪と透き通る肌と艶めく赤い唇を隠しきれていない、そんな様子でした。彼女はふとこちらに目をやると、
「君もあの空気、嫌になっちゃったんだね。一緒だ。」
なんて言いながら微笑むのです。声とも言えないような返事しか出せない私。初対面でしたが、私も多くと同じで、虜になっていました。マドンナは続けます。
「飲み足りないからさ、ついてきてよ。」
パシっと私の手を掴んで引いていく彼女に、戸惑いを隠すことはできませんでした。彼女に連れられて小走りの私は、汗をかいているのに先斗町の湿度は気にならない。味気ない夜からの逃避行のようだ、なんて妄想を膨らませるのでした。
行き着いた先のバーにはお客さんは見当たりません。青いライトに照らされたグラスと、水槽の中の二匹の金魚が、まるで店内が深海かのような幻想的な雰囲気を醸し出していました。彼女は口早に何かカクテルの名前をバーテンダーに告げましたが、うまく聞き取れず、慣れない私は「同じものを。」としか注文できませんでした。出されたカクテルはシトラスの爽快さの中に甘ったるいバニラが香る赤い色で、深海いっぱいにそれの香りが広まっていきます。あまり酒の強くない私ですが、つい格好をつけて、大きく煽って飲みました。驚きながらもニコニコしてその様子を見ていた彼女は、
「無理しないでいいよ。夜は長いんだし。」
と、優しく声をかけてくれました。緊張して上手く話せない私に合わせて、彼女はゼミのことやバイトのことなど、たくさんのことを話してくれました。マドンナなんて高貴で接しにくい印象はなく、実際は、初対面の私に気を遣い、笑顔で会話してくれるような、優しく美しい女性でした。私はそんな彼女に一層心惹かれていったのです。
何時間経ったでしょうか。随分と緊張もほぐれ、初対面とは思えないほどの親密な空気がそこにはありました。彼女の二杯目が無くなりかけた頃、彼女は、
「キスってどんな味だと思う?」
と、突然尋ねてきました。急な質問に返事ができない私は頭の中で考えます。映画や小説の中でしか触れてこなかったものですから、現実はどんなものなのか。そんなときに三年前の出来事を思い出した訳です。ついまた格好をつけてしまう私は知ったような口で、
「レモンだとかチェリーみたいな甘酸っぱい味じゃないでしょうか。」
と記憶から引用して答えました。
「ふうん。」
とつまらなそうな表情を見せる彼女は、私がキスの味を知っているふりをしていることに気がついている様子でした。なんと恥ずかしいことか。私は話を逸らすために、彼女に同じ質問を返しました。すると彼女はまた元の笑顔に戻りました。よかった、なんとか上手く追及から逃れられた。彼女は私の目を真っ直ぐに見て答えました。
「私はね、キスってマシュマロみたいだと思うの。そこにはみんなが言う酸っぱさなんてなくて、甘さだけしか残らない。追いかけてやってくる溶けるような感覚は、マシュマロそのものじゃない?」
初めて聞く例えをした彼女の唇は、シトラスとバニラの潤いで、より艶めきを増していました。完全にその唇に視線を奪われた私は、つい、
「そのマシュマロを味わってみたいものです。」
なんてまた格好つけた、それでいてハレンチなことを口走ってしまいました。酔いが回っていたのでしょう。ああ、やってしまった。怒っているのか、彼女の表情はツンと冷たくなったように思われましたが、何も言わず、鼻息がかかるほどの距離まで近づいてきました。赤くなった顔は、酔いではなく、恥じらいのようでした。つい目を逸らすと、そこには私の結露したカクテルがありました。きっと今の私はこのカクテルよりも真っ赤な顔で、このカクテルよりも汗をタラタラと流していることでしょう。私も彼女の目を真っ直ぐ見つめ返しました。このまま私は流れに任せることにしました。深海の中、溺れているような、息のできない時間でした。
触れた唇は緩やかに温度を私の唇に伝えていました。まるで溶けるようなキスでした。彼女からはやはりカクテルの香り。キス自体には味がないということの証明です。こんな、どうでも良いことでも考えていないと、頭がおかしくなりそうだったのです。どれくらいかして、触れ合う唇からだんだんと感覚がなくなっていることに気がつきました。同時に口先から強い酸味を感じます。カクテルのシトラスではない酸味。レモンでしょうか、チェリーでしょうか。不自然な酸味に考えを巡らせていると、口先は痺れて、感覚は完全に失われていました。思考は滞り、脳は溶けているようでした。
ああそうか。これは「溶けるような」キスなどではない。「溶けて」いるのだ。私は今、この酸によって溶けているのだ。ぼやける視界の中の彼女は、目を閉じて、甘いマシュマロを堪能するような優しい顔でした。きっと彼女に恋をした皆は大学をやめたのではない。彼らも私のように溶けたのだ。きっと彼女は「『強酸性』のマドンナ」だったのだ。しかし今の私にはそんなことはどうでも良い。先ほどにも増して私の融解は進行していました。もう目の前の彼女が強酸性のマドンナかどうかの判断もつかないほどに溶けているようでした。マシュマロのようにシュワシュワと溶けているのでしょうか。それも分からない。もう酸味も感じない。眠るような感覚で、私は不思議と怖くはありませんでした。
私が目を開くとそこには何もありませんでした。不思議でした。今までお話を楽しんだ彼は、キスと同時にいなくなってしまいました。テーブルを見ると結露が滴って水溜りをつくるグラスが二つ。夢ではないようでした。いつの間にかシトラスとバニラの香りは消えて、そこに残されたのはマシュマロの香りだけ。水槽の中には金魚が一匹泳ぐだけ。深海から私は寂しくそれらを眺めていました。