彼女が降ってきた
とある日、夜の錦糸町で、若い女性のストリートミュージシャンが歌っていた。
「~♪」
うまい素人という感じの歌声だった。それでも感じ入るものがあった。
僕は拍手した。
「途中からだったけどとてもよかったです」
「ありがとうございます」
「よければ曲名を教えてください」
「彼女が降ってきた、です」
答える彼女はとても澄んだ瞳をしていた。
目があった。
僕は恥ずかしくなっていそいそと帰ってしまった。
あの胸の高鳴りはなんだったのだろうか。
まだ学生だった僕はそれをよく理解できなかった。
その日は残業が長引き、帰りが終電ギリギリになってしまった。
しかも今日は金曜日。朝とはいえ、電車は朝の通勤ラッシュ並みに混むだろう。
やむなく僕はタクシーを選び、電話で呼び寄せた。
タクシーが僕のもとに。
乗り込むと、
「どちらまで」
問い掛けてきたのは、壮年の男性運転手だ。
家の付近の住所を言う。
すると、突然僕が乗り込んだ方と反対のタクシーのドアが叩かれる。なんとも迷惑な。
「すいません、私も乗せてください!」
と赤ら顔の女性。やたら陽気な声だ。
「あれ、お連れ様ですか?」
タクシーの運転手が戸惑いながら聞いてきた。とりあえず僕は扉を開けて、女性に声を潜めて話し掛けた。
「僕の家、墨田区錦糸町なんですけど」
「私、御徒町」
元気よく答えてくれた。夜なのに声が大きい。
僕は声を抑えてと伝えてから、苦笑しながら言った。
「目的地、違うじゃないですか」
「先、錦糸町向かってそっから御徒町行けばいいじゃん。タクシー探すの手間だしさ。人助けだと思って、おねがい」
言い終わる前に乗り込んできた。この女性、押しが強いな。酔っているせいか。
そんなことを思っていたら、「お金は出すから」と耳打ちされる。近付かれると、とてもお酒臭い。
「仕方ないですね……」
ボソッと言い、僕はため息を吐いた。
タクシーの運転手をこれ以上待たせるわけにもいかない。
「出発してください」
「はいよ」
僕はひっそり、若いカップルとでも思われてしまっただろうな。と思い、苦笑した。
彼女は酔っているにもかかわらず、よく回る呂律で饒舌に喋り、タクシー内の会話を盛り上げていた。
やがて僕の住む錦糸町へ着く。
僕がごそごそと財布を取りだそうとすると、
「あっ、奢るよ、迷惑料ってね」
彼女がそんなことを言う。
「そんな悪いですよ」
正直、それほど迷惑とは思っていない。女性との相乗りがタダで出来たのだから、むしろ得したといえる。
「じゃあとりあえず今は私が払う。連絡先交換するから、難癖つけるのは後々」
「はあ」
濁流に揉まれる流木にでもなった気分だ。つまるところ、彼女の言っている話の流れがよくわからない。
「ほらスマホ出して」
ぐいぐい来るなあ。
「ぼさっとしてないで。運転手待たせてるよ」
「あっ、はい」
カツアゲされている気分になりつつも、僕はスマホを出した。
「電話番号」
「えっ、LINEですよね」
「温故知新、古きを温めて、新しきを知るって言うじゃん」
「言いますけど」
「昔の人はすごいんだよ」
「だからって今時、電話番号ですか。僕、暗記してないんで出すのが面倒なんですけど」
「情緒よ。メールよりも手紙の方が嬉しいでしょ。ファンからのメッセージはメールよりも手紙の方が温かみを感じたんだよね」
「はあ」
視線を感じてチラリと見ると、タクシーの運転手が満面の笑みを浮かべていて、こりゃまずいなと思った。
そんなこんなで押しきられてしまい、交換した。
「登録名はツクヨでよろしく」
本名であるかどうかはわからない。けどとりあえず、ツクヨってことにしておく。
「僕は適当でいいです」
「ミスターAね」
「じゃあそれで」
というわけで、お別れのようだ。
「それじゃあね」
言うが早いか、そっと僕の肩を押す。僕が出ていく
と、ぱたんとタクシーのドアを閉めたツクヨは、ガラス越しに手を振った。
無邪気な顔でぶんぶん振っている。僕にも振れと合図してきているような気もしたので、振り返してあげた。
すぐに発進。ツクヨの満足そうな笑みを見た。
僕の頬も緩んでいるだろう。だから頬を張る。気を付けよう、誰かに見られたら不審者だ。
「さあ、帰るか」
呟いた僕の家はすぐそこだ。
翌日、昼前に起きたら、一人暮らしのはずなのに他の人の気配。
恐々として見にいけば、なんてことはない。
僕の家に弟が来ていたのだ。
「なんでいるんだ」
という僕の問い掛けはスルーされる。
何故か弟は僕の顔をじっと見ていた。
「やめてくれよ、気持ち悪い。タダでさえお前、ホモ疑惑あるのに」
「ねーよ、そんな疑惑。冗談でもやめろよな、笑えねーよ」
「ごめんて」
「まったく……。というか、なんかいいことでもあったのか? 仕事明けの休日で疲れているはずなのに表情が明るい」
弟が、早速そんなことを訊いてきた目敏いな。
「まあ、たまには残業もいいものだなって」
「社畜かよ」
弟は呆れたようにそう言うが、本心なんだよな。
その時、スマホが鳴った。
ツクヨから電話だ。
「デニーズに行こう」
僕が出ると、第一声がそれだ。
戸惑いながらも僕は尋ねた。
「どこのですか?」
「錦糸町駅近くの。もう待ってる」
「えっ」
ぷつっと電話が切れた。
これより初デートの始まりか、なんだこのロケットスタート、慌ただしい。
拒否権はなさそうなのですぐに向かうことにする。
「僕出掛けてくるから」
急いで着替えながら弟に告げる。
「なんだよ、折角、遊びに来たのに連れないなー」
聞き流す。そして玄関に向かいながら、
「お昼はハウスのでも食べててくれ」
とだけ言っておく。
「了解」
僕は家を出て、デニーズへと向かった。弟は勝手に映画でも見るだろう。
デニーズに着くと、ツクヨはハンバーグを食べていた。
「参ったねー。朝食べてないからお腹減っちゃって」
「待たせて悪いなあ。と殊勝にも思った僕の気持ちを返してください」
「じゃあ奢るね」
「ちょっ、いいですって、割り勘しましょう」
「ほー、男の子のプライドというやつかな。ここはたててあげよう」
なんか言ってるが、とりあえず僕も注文をし、昼食をとる。
食べ終わると、ふと思い出した。
「あっ、タクシー代」
「それはもういいって、律儀だねー」
「そうですか……じゃあありがたく」
「ところで私、いい声してるでしょ」
「僕、そういうのよくわからないです」
「まあ、そうだよね」
彼女は水を飲んだ。
「私実は、元ロックバンドのヴォーカルなんだあ、YOZORAの294ね」
「ほお、すごいですね」
「ありがと、けどね、YouTubeにMVとかアップされてはいるけれど、無名よ」
「無名ですか、それでも音楽やったっていう過去があるのはすごいですよ、僕はないですしね」
「ははっ、気に入った」
まさかのお眼鏡にかなったらしい。
というわけで、僕らは付き合うことになりました。
急展開すぎるが、こうやってツクヨに振り回されるのも悪くないと思った。
二人で僕の家に行くと、存在忘れてた弟がいた。
「え、彼女居たのかよ!」
「さっきできた」
「はあ!?」
「どうもー、ツクヨです。弟クンかな、顔少し似てるし」
「ど、どうもー。そいつの弟っす」
なんかでへでへしていたので、
「これ回収日に持っていけなかったやつ、コンビニにでも捨てといてくれ」
むかついたから弟はごみと一緒に帰らせた。
ある日、僕の家でツクヨと、夜にテレビを見ていた。ツクヨがつけた音楽番組だ。
僕には音楽番組を見る習慣はなかったので新鮮だった。必然的に、最近の流行りのアーティストをよく知らなくて、いちいちツクヨに呆れられた。
「続きましては最近話題のシンガーソングライター、セイカさん」
司会が言って、女性が舞台に立っているところが写る。彼女は肩からギターを掛けていた。
僕は妙な既視感を覚えた。
「あれ、彼女。どこかで見たような気がします」
「え、何? 昔の彼女とか?」
ツクヨも本気で訊いてきたわけじゃないだろう。僕のことを信じているから。
だからはっきり否定する。
「そんなんじゃないですよ」
その時、テレビに写った彼女が言った。
「聴いてください。彼女が降ってきた」
どこかで聞いたようなタイトルだ。そして、彼女が歌い始めた。
「~♪」
「うまい素人って感じの歌声だけど、悪くないね」
ツクヨがそう呟いたのを、僕は呆然と耳に入れる。
彼女が歌い終わると、僕はそれまでしなかった拍手をしていた。
僕は彼女の歌を聴くのは初めてのはずだ。
そのはずなのに、まるで記憶の深奥を刺激されているような気がして、涙が溢れた。
「あれ……」
僕は誤魔化すように手で拭い、物思う。
なんだろうこの胸を焦がすような恋しさは。