夏はどこ行く?
夏といえば何を思い浮かべるだろうか。登山、海、花火、夏祭り、フェス、ビアガーデン……。でも、引きこもり気味のあの子には、季節のイベントなんて関係ないのだろうか。あの子に、
「土日何してる?」
なんて聞いたって
「寝てる、動画、読書」
しか答えない。
「どんなのみるの?」
「いや、別に」
こんな流れ。
うーん、もしかして脈なしだから、わざとそんな返しなのかな。すごく気になる。
それにしても、どんなの読んでいるのかな。人に言えないアブノーマルなジャンルなのか。だから教えない? それとも、1人でひっそり楽しむタイプなのかな。自分の読書好き仲間はネタバレ厳禁で、自分の世界にこもって楽しむ奴だ。そういうタイプなのかな。
自分は対照的で、感動を共有したい派だけれども、色々な人がいるから人生おもろいわけで。
あの子が自分に興味を持ってくれないのも、自己開示してくれないのも、仕方ないと思うしかないだろう。しぶしぶ納得させなければ、こっちの身が持たない。
ああそうだ。
無理に話しかけることはしない。人に嫌がることはしない、これは人間関係の基本だから。理性をもって、近づきたい欲求を押さえつけないと。
そうだ! 近づかない代わりにじっと観察してみよう。我ながら良き案ではないか!
あの子はまあ、かわいいというよりキレイ系かな。切れ長な目、きりっとした眉、しゅっととした鼻筋、サラサラの黒髪。見た目だけじゃないんだよね。すれ違った時のコロンの残り香が、自分の脳天をぶち抜くのよね。
ギュッとしたい。柔らかな肌で、すべすべして気持ちよさそう。二の腕触ってみたいな。すらっとした長い脚でヒールをコツコツいわせた日にはもう魂がぬけるさ。
さっきから欲望がすさまじい。これはもしや変態か?
変態……。はっ、ずっと脚ばかり見ていたではないか。急いで目線をそらそう。
目に入ったのは、真っ暗闇だった。視界全体が真っ暗。お化け屋敷に入った時のような、ぞわぞわっとした恐ろしさ。
欲望のままに、目をぎらつかせていたのがいけなかったか。凝視するなんて、不快なことじゃないか。
理性。思い出せ、理性だ。人には理性という素晴らしいブレーキがあるではないか。
理性と欲望。フワフワと包み込まれるような温もりを感じて、暗闇がなくなり、視界がキラキラ眩しくて、よもや昇天し、ついに天界へ足を踏み入れるのか、感慨深いものだなと思った。いやいや。待って、何かがおかしい。何がおかしいと思う? というか、さっきから誰に、何のために、喋っているんだろう。あの子のことを伝えるために? えっと、あれ? そもそも、あの子って誰だっけ?
私はあることに気づいてしまった。もう朝で、寝ていたということに。
「ああ、なんだぁ、夢かい……。てか、あの子って何よ」
すっかり顔も忘れてしまったし、時計を見ると正午を指していた。朝ではなかったか。
「もうお昼か……。休みってこうなりがちだわ」
何の予定もない休日はお昼まで寝ていることが多い。今日もいつもと変わらない。違うのはだいぶ変な夢を見たことぐらい。
とりあえず、エアコンをつける。28℃設定。それでも十分涼むのは、外気が30℃以上あるから。ごおーという大きな音が、いつもより響く気がしたが、気のせいと思うことにした。
スマホを手にとって横になった。メールが溜まっていて、ひとつずつチェックする。メルマガが多いが、ふと、めったに来ない人から送られているのに気づいた。
「お盆はお休みある? 帰ってきてちょうだい」
お母さんからだった。読み進めると、おばあちゃんの初盆を親戚で集まってやるということだった。
馬鹿なことを言うなと憤りを感じた。コロナ禍で田舎に帰省だなんて、何を宣っているのか。
まだ収束していないどころか、東京では緊急事態宣言後は、感染者が増えているのに。
東京から地元へ帰って、コロナをまき散らしてしまったら、どうなる? 若い人は未発症でも、知らず知らずのうちに、ウイルスを運んでいる可能性があるって、何かのニュースで見た。自分自身が、新型コロナウイルスをまき散らす、言わば殺人鬼になりたくない。
というか、陽性者の末路を知らないのか。
SNSで特定され、拡散して、家族で引っ越さなければならなくなるはずだ。
コロナにかかることが怖いんじゃない。ネットでたたかれることが怖いんだ。
本当に恐ろしいのはウイルスじゃない。人類だ。
人類は相手をいとも簡単に傷つける考えを抱きがちだ。その最たるが、自己責任だろう。
日本には自己責任論者が多いと思う。氷河期世代だって自己責任って言われて放置。今ごろは時限爆弾みたく、いつ爆発するかわからない。
私は今、大学2年生だが、就活はきっと厳しくなるだろう。3年の先輩はインターンシップにエントリーしているらしい。選考アリのところは、通る気がしないって言っていた。学生時代に頑張ったことが思い浮かばないんだってさ。なんだろう、笑えない。
まあでも、とにかく、自己責任って言葉は嫌いだ。どこかのニュースを読んだけども、コロナにかかったのは、自己責任! って、思う人が日本は他国より多い。ショックだよ。前からうすうす思っていたけれども、日本人は優しいなんて噓だよ。嘘だと思うなら調べてみなよ。
確かに、遊んだ人はアウトだと思う。でも、気を付けていてもかかるときはかかるだろうし。なんでそんなに不寛容なんだろう。
てか、さっきから、誰に向けて思考を巡らせているんだろう。
あっ、思い出した!
私の脳内が、全世界に公開されているんだったかな。みんなは、思考経路に鍵をかけているけれども、私は、暗号が解かれた。そして、アクセスされ放題。2月末から引きこもりを始めてから、いつしかそうなっていた。正確なことや、いつからそうなったかは分からない。
でも、そうなんだ。引きこもりのストレスが限界値を超えた時、私は何かにとりつかれた。そんな心持になった。なんだか悟りを開いた感じがした。このことは誰にも話していない。話せば、鍵をかけなおそうと、研究施設に入れられるから。これは、夢のお告げ。
兎にも角にも、まあ、私の思考は誰かに見られているわけだから、このまま考え続けよう。
でもその前に、のどがカラカラだったので、お水でも飲むかと、立ち上がった。
ワンルームの狭い部屋。実家の2階建てで、広い庭が懐かしい。途端に、涙があふれた。
なんだかんだ言ったって、実家に帰りたい。地元の友達と対面で遊びたい。リモートは味気ないのよ。
私は涙をティッシュで優しく拭いた。
私は冷蔵庫でキンキンに冷やしたお水が好きだ。読書好きの友達は、常温が良いらしいけどね。なんかお腹壊すんだってさ。面白いね。
コップに並々注いで、一気に飲み干した。スティックパンをもぐもぐ食べながらまた考える。
別の子だけど、緊急事態宣言中にもかかわらず、遊んでいた子がいるのよね。距離を置いた方が良いのかしら。冷たい日本人なのかな、この考え方は。誰か教えてほしいね。
世界に情報発信されているのに、誰も私に構わない。宅配のお兄さんが来るけれども、何もない。でも、自分からは言えない。だって人見知りだから。
クールジャパンって言っていたけれど、あれは冷たい日本人って意味なのよ、きっと。つじつまが合うわ。
とにかく、変なのよ。変、変、変。
変な夢に、変な連絡。そしてさっきから、エアコンの音までもがおかしい。
「勘弁してよ、もう」
あっ、今、「それな」っていう賛同の声が聞こえた。ほらね。誰かが不定期にアクセスしてくれているのよ。ありがとう。うん、何? 「顔でも洗えば?」って、了解しましたって感じ。
食べ終えると、私は顔を洗った。化粧水と乳液で保湿した。引きこもっているから、わざわざ化粧はしない。顎や頬の当たりは、ぽつぽつができている。外出時にマスクを付けてむれて荒れてしまう。髪の毛に整髪剤をシュッシュする。理想の香りとは言えないかな。髪の毛は痛んでいる。紫外線にやられてしまったのと、カラーの影響だろうな。「ださいね」ってバカにされた。まあ、その通りなのよね。うん。市販のシャンプーよりサロンのシャンプーの方が良いんだろうな。でも、お高い。無理だわ。お金ないのよ。
お金の問題があるの。バイト先が飲食店だったんだけど、たたんじゃったの。お父さんが10万円振り込んでくれたけど、しんどい。お父さんとお母さんは幸い、給料に響いてないから、こうして東京にいられるんだよね。
給付金は世帯主振込だったでしょう。世帯主のお父さんはちゃんと送金してくれたけど、金銭的DVを受けている人は、貰えないで困るってニュース読んだ。
やっぱり、日本人は冷たいんだわ。最初から個人に振り込めば、こうはならなかったのに。だいたいの世帯主が男性だから、女性に冷たいんだ。ひどいね。
肌荒れも、心の荒れ具合も、部屋の荒れ具合も、ひどいの。
掃除しなきゃ、と毎日思っているの。でももう、ふた月はやってない。誰もあげないから、いいやって投げやりになるの。わかる?
うーん、賛同なしか。
ずぼらは認められないんだ。
やっぱり、清く正しく美しくって人が良いんだろうね。夢に出てきた人は誰かわからないけれど、多分理想なんだろうな。別に女性が恋愛対象って思ったことはないけど、どうなんだろう。夢は潜在的な欲求を見せてくれるのか。人は知らない自分を持っているんだろうね。
自分を知ることか。就活は自己分析しないといけないんでしょう。そんなん、わかるかいって突っ込みたくなるけど。
就活、婚活、部活、オタ活。なんとか活ってつくものを挙げてみる。婚活と就活は知らないけれど、奥深いし、長期的なもの。一筋縄ではいかないだろうね。
大学では部活はやってない。しまったなあ。所属していたら、学生時代に力を入れたこと、いわゆるガクチカとやらに書けるのかな。だめだ、就活はもう来年考えよう。
オタ活ができないのがしんどい。ライブに春休み行く予定だったのに。払い戻しの虚無感は酷かった。なんて言ったって、アリーナ最前席だったのに! 運を使ったのに! もう来ないよ、きっと……。
フェス好きの子は、すごく嘆き悲しんでいたよ。「セトリが神なのに」って。茨城県に行きたいよね。色々なアーティストが集まるんでしょ。私は行ったことないけど、すごく行ってみたい。
お仕事はしたくないけど、推し事はやりたい。将来なにしよう? って、考え始めたら、働きたくないでござるって結論に至る。
夢がある人がうらやましいでござる。拙者は特にないでござる。
夢があれば計画的に動けるし、モチベーションも維持できる。でもまあ、大抵の人は夢なんざ、持ち合わせてないっしょ。「だから自己分析するんでしょ」ああ、なるほど。
好きなことを仕事にって、聞くけど、あれって本当? 誰も答えてくれない。自分で見つけろ、宿題だってことかな。好きなことを仕事にしたくないって思うんだけど。まず、好きなアーティストいるんだけど、業界の裏側とか見たくないわってなる。
読書好きな子はおおむね同じ意見で、出版社は嫌だって言っていた。いち消費者として楽しみたいだけで、売上とか気にしたくないんだって。わかる。
私はファッションが好きなんだけど、アパレルも嫌かなって思う。環境破壊とかの負の側面とか、ノルマとか気にしたくない。いち消費者として楽しむのと、働くのでは、全然違うんだろうなって、想像する。
就活って自分の軸とやらが大切なのでしょ。
自分の軸とやらは見当たらない。よし、自分探しにインドでも行くかってならない。そもそも、今はコロナでいけないんだけどね。
過去の自分から自分探しか。将来像も思いつかない。今までは受験や部活の大会とか、わりと目の前の目標にひた走っていた印象があるけれども、今度は自分で見つけろと。わりと親や先生たちが敷いてくれたレールに乗っていたほうが楽だったわ。頑張っているだけで褒められるし。
さっきから私は鏡にうつる自分の顔を見ていた。
そういえば、顔面採用って本当なのかな。怖いな、整形するか。韓国ではリクルートのために整形するって聞いたんだけど、日本ではどうなの。もういいや。別のこと考えよう。
私はとぼとぼ歩いてベッドに転がった。
スマホを持って改めてお母さんからのメールを読む。
家族のことは大好きだ。亡くなったおばあちゃんは優しくて、裁縫好きでよく服や小物を作ってくれた。そんなおばあちゃんの影響を受けて、私は裁縫好きになった。祖父母と2世帯住宅だった。両親は共働きだったから、祖父母にはいっぱいかわいがられた。おばあちゃんが亡くなったときは、しくしく泣いたものだった。とても大好きな人。だからおばあちゃんの初盆には行きたい。ご先祖のお墓参りにも行きたい。行きたいのは当然じゃないか。でもコロナが怖い。
「どうしよう」
帰りたい欲が止まらない。行きたい、行きたいって心が叫んでいやがる。
世の中的にはどうなんだろう。お盆は帰省するの? 第2波が起きないって思わないの? ウィズコロナだよ、まだ。アフターコロナじゃないのよ。
いつ収束するの? オリンピックは本当にできるの? 無観客なの? 考え出すときりがない。答えは誰もわからない。占い師でコロナ予測できている人いるなら、教えろよ! いたら今ごろ世界中で取り上げられるよ! 「いないって」笑い声がした。そりゃそうだろうな。
友達に帰省するか聞いてみるか。読書好きな子にしよ。彼女も地方からの上京組だ。
「お盆は帰省する?」
すぐに既読が付いた。
「帰らないよ」
「なんで?」
「感染者がでてない地域だからね。持ち込んだら怖い」
「なるほどね。参考になる」
そっか、感染者がいない地域か。東京もんが持ち込みやがった、なんて言われて、村八分にあうんだろうな。怖い。
「帰るの?」
「親から、初盆あるし帰ってきたらっていわれて」
「うん」
「迷い中」
「悩むよね」
「めっちゃ悩む」
「地元、福岡だっけ?」
「そう」
「結構出てるじゃん。よくない?」
「わりと田舎だから少ないのよ」
「そっか、福岡って広いよね」
「うん」
「隣組とかしっかりしてるの?」
「そうなのよ」
「あー、帰らない方が良いよ。すぐ噂伝わるよ」
「そうだよね。わかった」
「うん」
「ありがとー」
泣いているかわいい豚のスタンプが送られた。泣きたいよ、うん。
日本史でしか、見たことない人もいるかもしれないが、地元では令和の時代でも、隣組やら町内会やら残っている。組長はいるし、毎年、組費が徴収される。清掃活動とか、老人会とかの集まりもあるわけで。人間関係が希薄な都会の人には、驚きかもしれないけど。
流石にお葬式は葬儀場でやるけど、隣組だからって理由で参列しなきゃいけない。今はコロナの影響で自粛ムードだし、家族葬が主流で行かなくても大丈夫かな。
とにかく、田舎ではそういう昔ながらの風習が、根強く残っているわけよ。
友達が心配するように、隣組の噂の伝達力は、SNS並と言っても差し支えない。
感染経路不明の時でも、デマで袋叩きにあうかも。田舎特有の、相互監視で閉鎖的な部分が、コロナ禍で全国に伝わるでしょう。ははは。
田舎は怖い。
セカンドライフは田舎に住もうとか、軽々しく思わないでほしい。車必須な時点でアウト。田舎のおじいちゃんには、免許を返納させたいぐらいなのに。
高齢者の暴走運転の映像をテレビで見るたび、返させようって思う。
なんで返さないのって、コンビニに行くのに私が歩いて20分かかるのよ。近くて便利なのは街だけ。病院に買い物に、カラオケに、グランドゴルフにと、車がないとどこにも行けないの。バスは1時間に1つあればましなほう。山間部だから坂道は険しいし。若い人でも疲れるんだから、高齢者は言わずもがな。
お父さんかお母さんが送り迎えすれば良いんだろうけど、平日は家を空けているから物理的に不可能。
電動自転車という選択肢もあるけど、ふらふらバランスを崩したらすごく危ない。だから、やっぱり無理だ。
でも、なんだか言い訳みたいだな。建前では、返納すべきって言うけど、本音では、返すのは無理だって思ってしまう。
うーん、また田舎の嫌なところばかり考えてしまうな。
気分転換に歯でも磨くか。
私は歯磨きが好きだ。歯磨き粉の味とすっきり感が好きだ。芸能人みたいな白い歯になるには、ホワイトニングが必要だろうな。そんなこと考えながらシャカシャカ小刻みに手を動かす。
ぐちゅぐちゅする。吐き出す。ぐちゅぐちゅする。吐き出す。
何かがスッキリするような感覚になった。
部屋に戻ってスマホをとりベッドに腰掛けた。お母さんからのメールに返信しないといけない。
「ごめんなさい。コロナ怖いので」
そう打ち込んで手を止めた。角が立たないように返信しないと。電話の方が気持ち伝わるかな。文章を消した。
電話をかける。30秒はコールしたが出なかった。
「そのうちかかってくるかな」
お父さんは土曜日に、働いていることが多いからやめよう。
かかってくるまで、大学の課題をしようと思った。何かに集中していると、他人は私に話しかけてこない。
テーブルの上のパソコンを立ち上げる。レポートが多くて大変だ。ネットで拾った情報を集めてまとめる。参考文献を載せる。こんなので単位がもらえるんだから、大学って思っていたのと違う。本をたくさん読んでいるのかと思っていた。私の通っているところのレベルが低いのかもしれないが。
黙々と1時間ぐらいやっていると、電話がかかってきた。お母さんからだった。
「もしもし」
お母さんの明るい声が聞こえる。
「もしもし、お母さん、元気?」
私も明るく話す。
「まあ、ぼちぼちねえ」
「そうだよね」
「メールのことなんやけど」
私は本題を切り出した。
「帰ってくるね⁉」
「ううん、本当に、ごめんけど……帰らん」
「ええっ」
驚いた声を上げた。
「まだ、コロナ収束しとらんし、おじいちゃんに万が一、うつしたら怖いよ」
お年寄りの死亡率は高いって聞くし。それに持病持ちだし。
「あんた元気なんでしょ」
「熱も何もないけど」
「だったら」
だったら、って何なのよ。私は髪をぐしゃぐしゃにする。
「若い人は未発症の人が多いんだよ。かかっとるかどうかなんて、わからんし」
「そうやけど、あんた遊ばんで引きこもっとるんでしょ。やったら大丈夫よ」
どうしてこうも能天気なんだろう。怒鳴りたい気持ちをグッとこらえる。
「あのね、自分たちは大丈夫、って気持ちが一番いかんとよ。近所での買い物、美容室、宅配便。ちょっとしたことでも、うつるかもしれんのに、絶対なんて言えんやろ」
「そういうもんかね」
「そうだよ」
声を荒げた。
「ご近所さんとコロナのこと話すけど、誰もかかっとらんよ」
ああ、ああ、どうしてこうもムカッとくるのか。落ち着け私。理性を使え。理性を。
「あのね、お母さん」
優しく呼びかける。
「あんた、もしかしてあれねー。交通費気にしとるんねー」
はあ⁉ なんそれ、見当違いも甚だしい。
「お母さんもお父さんもちゃんと、働かせてもらいよるけん、お金は気にせんでよかよー」
「そうじゃないよ」
私は心底あきれる。お金が問題じゃないのに。
「あっ、そうだ、おじいちゃんに代わるね」
えっ、まだ話の途中なのに。
「もしもし」
低いしゃがれた声。おじいちゃんだ。
「もしもし、おじいちゃん。久しぶり」
「久しぶり」
「あのね、本当に残念なんやけど、お盆は帰らんことにした」
「そうか、まあ話は聞いとったが」
なんだか悲しそうな声だった。
「うん、ごめんなさい」
「俺のこと心配しとるんか」
「もちろん」
「俺はもう年で、世の中のことはようわからん。やけん、若いもんの意見ば聞いたほうがよかろう、そう思いよる」
「うん」
「やけん、華。華が決めたことなら認めるばい」
「おじいちゃん……」
「お母さんには俺から言っておくけん」
「ありがとう、本当に」
「わかっとるよ、本当は帰りたいんやろ。おばあちゃん大好きやったもんな」
「うん、本当は気持ち揺らいでた」
そう、今でも本心では帰りたい。
「うん。おばあちゃんはな、お盆なったら毎年帰ってくるんやけん、華がもう大丈夫って思った時に、安心して帰ったらよか」
「うん」
「お母さんも言わんけど、華のこと心配しとるんよ。東京はたくさんでよるけん、さっさと戻らせればよかったって」
「うん」
そうか、やっぱり心配かけていたのか。コロナ疎開がトレンドにあがるぐらいだったころ、「帰らんね?」と聞かれた。私は断った。広めるかもと思ったからだ。あの時もかなり我慢したものだった。過度なストレスと寂しさで、押しつぶされそうだった。
「華は真面目なところが長所や。でもな、無理しすぎて心が疲れてしまわんか心配しとる。なんかあったら今はカウンなんとかがあるけん、使いなさい」
「カウンセラーね、大丈夫よ」
「そうか? 短所は人の言うこと聞かん頑固さばい」
「えっ? そんなことなくない?」
「お母さんみたいになったらいかんと。わかるね」
うーん、お母さんの話の通じなさ、決めつけは私にはないと思っていたのに。そんなことなくない?
「今、そんなことなかって思いよらんね」
ぎくり。なんでもお見通しか。
「うん、まあちょっとは」
「柔軟性を持たないかん。年寄りはガチガチに凝り固まって、やおいかん。老害とやらにならんよう、気を付けないかん。若いうちから頑固もんはいかん」
「うん」
確かに、老害にはなりたくないし、というか、おじいちゃんが、その言葉知っていることが驚きだった。
「就活せないかんのやろ」
「来年でいいよ」
「そうか? 3年生からってテレビで言いよったぞ」
「やけん、来年やん」
「なん言いようとね? 今3年や」
えっと、どういうこと?
「じゃあ、華。生年月日を言ってみい」
「平成11年4月29日だけど」
「今何歳や?」
「はたちかな」
「違うやろ、21やろ」
「えっ」
「成人式で帰省したやろ」
成人式、成人式……。そうだった、中学の仲良しグループで遊んだんだった。なんで忘れていたんだろう。つまり私は21歳。どうして勘違いしていたんだろう。
「思い出したよ。わたし21だ」
「そうやろ」
「うん」
「やっぱり心配や。年も分からんって、病院に行きなさい」
「考えとくわ」
頭おかしいのかな、急に不安になってきた。
「もう話は終わりかな?」
私は尋ねた。
「そうやな」
「うん、じゃあ、元気で」
「じゃあね。元気で」
電話が切れた。
私はおじいちゃんとの会話を反芻する。私、頭おかしいの? まじで?
「今年は何年?」
ネットで調べてみる。すると、2020年と表示された。1999年生まれだから、やっぱり21歳だ。そういえば、CMで東京2020って言っていたな。2020年は、オリンピックイヤー。
えっ、ちょっと待って。どうして、いつから私は3年生ではなく、2年生であると思い違いをしていたのか。
履修を組んだ時は、ちゃんと考えて登録したし。あれは3月だったか。ずいぶん部屋は綺麗だったころだ。慌てて時間割を確認する。ゼミや3年生から取れる講義を入れていた。
「やっぱ、私、3年生か」
途端にただならぬ恐怖を感じた。どうして、こんなにも、自分のことが、訳が分からなくなっていたのか。
読書好きな友達が、6月ごろからちょくちょく就活の話をし始めたのも、3年生だからか。
じゃあ先輩は4年生なわけか。就活について聞いてみるかと思い、
「就活どんな感じですか?」
こんなメッセージを書いてみる。いや、ストップ。この時期に送っていいのか本当に。聞けないわ。文章を消す。もしも、まだ内定を取れていなかったら? ものすごい地雷だ。やめておこう、と結論付ける。
先輩がインターンの話をしていたのは、去年? 時系列が分からない。頭の中がひどくぐちゃぐちゃで、はっきりしない。
もしかしたら本当に、おかしくなってしまったのかな。
先輩がどうこうよりも、きっと今は、私自身のことが最優先事項だ。言われた通りに、カウンセラーでも検索してみるか。
ネットで調べてみると、精神科系のクリニックや病院はたくさんあることが分かった。今まで気にしたことがなかったから、目に入らなかっただけかもしれない。
ただ1つ、気になったことがある。口コミを見ても、低評価や悪口がたくさん書き込まれているところが多いことだ。
やっぱ、そういうところは怖いな。未知のものは恐ろしい。
行くのをやめるかな。不要不急の外出に入るだろう。
「短所は人の言うことを聞かん頑固さ」
おじいちゃんの言葉が浮かんだ。行くべきだろうな。
あー、私はどうすれば……。
スマホをテーブルに置いて、ベッドに転がった。また涙が流れてくる。手で拭った。
元来、泣かないタイプの人間が、一日で何回も泣いている時点で、やっぱりおかしいのかもしれない。泣いたのは、おばあちゃんが息を引き取ったときぐらいしか、思い浮かばない。
「このままじゃまずいよねー」
よし、決めた。行こう。
私は近所のクリニックを見つけて、電話で予約した。かけた時、とてもドキドキした。口コミの評価は星2つだったけれども、電話に出た女性は、優しそうな感じがして少し安心した。
2週間後、私は予約していたクリニックに行った。医者は朗らかな感じがして、話しやすかった。どうやら私は、神経の過敏さ、妄想や幻聴の症状があったそうだ。薬を処方してもらった。少しはましになれば良いなって思う。
私はもしかしたら、知らず知らずのうちにストレスを溜め込むタイプなのかもしれない。それが分かっただけでも良かったって前向きにとらえよう。
それと、もう1つ発見があった。精神科の口コミは、あてにはならないらしい。どうしても、心が弱っていると妄想も混じって、他者批判に陥りがちなのかもしれない。これは、あくまでも私がそう思っただけで、実際のところは分からない。
それから私は、自己分析や業界研究を始め、インターンシップにエントリーしてみた。
正直、働くビジョンは全く分からない。だから、何かしら行動してみて、発見できることがあるかもしれない。
地元に帰れない寂しさ、初盆に行けない負い目、将来への期待と不安。色々なものを抱えて、いっぱい、いっぱいにならないように気を付けよう。
「夏はどこ行く?」
きっとこの答えは、
「どこにもいかない」
だろうし、
「休日は何してる?」
その答えも
「寝てる、動画、読書」
になると思う。
実はこれは、本音と建前で言うところの建前だ。全然勉強してないと言いつつ、本当は裏でたくさん勉強しているのと同じ。
つまり、本当は
「就活、通院」
が正解かもしれない。