コージと僕と(1)
「――僕には、コージという幼馴染みがいた」
放課後の教室で、悠人は話し始める。
緊張するような、怖いような。
二人の間にある何かが壊れてしまう不安のような、あるいは期待のような。
そんな不思議な気分を抱きながら、雛乃は耳を傾ける――
◆◇◆◇◆
幼いころ、雛乃は自分の名前があまり好きではなかった。
特に問題なのは『ひな』の部分。
だって、おひなさまとか、あるいはひなどりとか、おとなしくて軟弱なイメージが強いではないか。
カッコ悪いと思う。もっと強く勇ましそうな名前にはできなかったのだろうか
思い余って、なぜ自分に男の子のような名前をつけてくれなかったのか、と母親に尋ねたことがある。
母親は困惑したように小首を傾げ、
「そりゃもちろん、あなたが女の子だからだけど」
と実にもっともな返答をよこした。
いずれにしても大昔の笑い話。
中学生となった現在は、画数が多くてテストのとき書くのが面倒という以外にさしたる不満を覚えているわけではない。
ただやっぱり、ときどき思うことがある。
――自分の性格にはまったく似つかわしくない名前だなあ、と。
「聞いていますか?」
長谷部先生の声にいらだちの色を感じ取り、雛乃は意識を現実に引き戻した。
「はい、聞いています」
「それで、さっき笠倉さんの方にもケンカの原因を尋ねたの。『お昼、一緒どうかしら? と誘ったら、冷たく断られて険悪な雰囲気になった』――ということだったのですけど」
それで合っているかしら? と彼女は眼鏡越しに雛乃を見た。
長谷部先生は、四十歳くらいの女性教師だ。
良く言えば冷静沈着、悪く言えば愛想や親しみやすさが全然ない。
「はい、その通りです」
刑事さんに取り調べを受ける犯人ってこんな気分かなあ、などと思いながら、雛乃は答えた。
確かに事実関係としては間違っていない。
「そう。転校してきたばかりでナーバスになっているかもしれませんし、笠倉さんも『自分の誘い方がしつこかったかも』と反省していました。……でもね、そのくらいのことで、クラスメイトの机を蹴り倒すというのは感心できません」
「すみません。反省してます」
言いたいことは山ほどあった。
しかし一方で、何を言っても言い訳にしか聞こえないだろうな、という気もしていた。
少なくとも、昼休みに莉子と口論になり、彼女の机をその上に乗っていた給食のトレイごと蹴り飛ばしてひっくり返したのは事実なのだから。
「人間ですから、腹立ちを抑えきれなくなる瞬間もあるでしょう。しかし、人や物に手を出すことと出さないことの間には、大きな差があります。わかるでしょう?」
「はい」
一瞬、出したのは手じゃなく足ですよー、と突っ込みたくなったが、さすがにそれは自殺行為だと思われた。
余計なことを口走らないようぐっと唇を噛み、飼い主に怒られて尻尾を垂れる犬をイメージし、ひたすら身を縮める。
「よろしい。以後、できるだけ言葉で解決するよう心がけなさい」
殊勝な態度に徹したのが功を奏したらしく、どうやら解放されそうな雲行き。
雛乃はほっと胸を撫で下ろす。
「今日は帰って構いません。続きはまた明日。先生の目の前で、笠倉さんと仲直りをしてもらいます」
「げ」
思わず声が漏れた。
その瞬間、長谷部先生の眼鏡が殺気をはらんでギラリと光る。
「そ、それでは、失礼しますっ!」
慌てて言うと、雛乃は先生が何か口にする前に逃げ出した。
廊下に出ると、窓から橙色の夕陽が差し込んでいた。
吹奏楽部の練習だろうか、柔らかい音色が遠くから聞こえてくる。
「……転校三日目にして、なんでこんな面倒くさいことになってんだろ」
雛乃は大きなため息をつくと、放課後の廊下を歩き始めた。
父親の転勤に伴い、中学二年生の秋という半端な時期に引っ越すことになった。
嬉しいとは言わないまでも、動揺はなかった。
これまでに何度も経験していることだ。
転校に対しても、そこまで抵抗はない。
内気でも人見知りでもないつもりだし、大抵の子とは仲良くやっていく自信もあった。
ただ――何事にも例外は存在するのだ。
何をどうしたってわかり合えない、不倶戴天の敵。
雛乃にとってはあの女、笠倉莉子がそうなのだった。
ほとんどの生徒はもう部活に行ったか、あるいは下校してしまったのだろう。
ムシャクシャしながら教室に戻るまでの間、ほとんど誰ともすれ違わなかった。
(カバン取ってきて、私もさっさと帰ろう)
雛乃はいらだちを叩きつけるように、勢いよく教室の扉を開ける。
と――誰も居ないだろうと思っていたそこに、ぽつんと一人座っている男子生徒の姿があった。
「あ、沢藤、くん……まだ、残ってたんだ」
いくらか気まずさを覚えながら、雛乃は教室の中に足を進めた。
「意外に早かったな。長谷部先生、気が乗るとやたら話が長くなるんだが」
沢藤悠人は無愛想な口調で言った。
思慮深そうな目に、黒縁の眼鏡。少し癖のある髪。
背は中くらいだけど、背筋がぴんと伸びていて姿勢がいい。
成績優秀で、確かこのクラスの委員長を務めていたはずだ。
「か、帰らないの?」
少し緊張しながら、言葉を続ける。
雛乃がこの学校に転入してきてから、彼と会話を交わすのはこれが初めてだった。
「帰るさ。やるべきことが全部終わったら」
悠人はパタンと学級日誌を閉じた。
そういえば、彼が今日の日直だったか。
「怒られたか?」
「怒られたってほどじゃないけど……まあ、多少は」
悠人の少し斜め後ろ、自分の席に向かい、帰り支度。
鞄に教科書を詰め込んでいく。
「悪者の立場にされただろう? かなり一方的に」
「…………」
雛乃はぴたりと手を止めた。
「どうしてわかったの?」
「笠倉の奴は立ち回りがうまく、教師受けもいい。問題を起こしたとしても、ダメージ回避する方法をよく知っている」
「……ああ、やっぱりそういうタイプの子かあ」
げんなりした気分で、雛乃は机に突っ伏した。
実は転校初日に、幾人かの親切な女子から忠告を受けていたのだ。
笠倉莉子は人気者。
美人で話し上手で行動力があり、常に友人たちに囲まれている。
でも気をつけて。その外面に反して、ものすごく意地が悪い女王様だから。
もちろん雛乃は、そんな噂話だけで他人に評価をくだすつもりはなかった。
実際に話してみれば案外良い奴たったりすることは、決して珍しくない。
相性の良し悪しは、結局、実際に付き合ってみないとわからないもの。
それが雛乃の持論である。
そして――今日の昼。
莉子がにこやかな表情で声を掛けてきた。
「よかったら、お昼一緒に食べない? 転校生さん」
給食の時間、席は席を自由に移動してもいいことになっているそうだ。
周囲を見ると、仲良し同士で机をくっつけて一緒に食べる子が多いようだった。
まあ断る理由もないかなと思った雛乃だったが――次の一言を聞いて眉をひそめることになる。
「そういうことだから、あなた抜けて。別のところで食べてね」
莉子は当然のように机を移動させようとしていたグループの一員に、そう言い放ったのだ。
「え?」
言われた方は目を瞬かせ、『理解できない』と『理解したくない』を二で割ったような顔になった。
「え? で、でも莉子、いつも、私たち、お昼は一緒に……」
「私ね、机は四つがちょうどいいと思うの。この子が入ると一人余っちゃうでしょ? 五つだとぴょこんと一つだけ飛び出てて、不格好だしね」
明るい口調だったが、それは女王様による追放宣言にほかならなかった。
「それにあなた、この間移動教室に一人で先に行っちゃったでしょ? ああいうのって、自分勝手だと思わない? そういうの、どうかと思うのよね」
「そ、それは、たまたま、先生に先に来て資料用意するよう言われてたから――」
彼女は救いを求めるように視線を動かす。
しかし莉子の友人二人は彼女に同情するような、しかし自分じゃなくてよかったとほっとするような複雑な表情を浮かべつつ、沈黙を守るだけだった。
凍り付く相手にはもう目もくれず、莉子は雛乃に微笑みかけた。
「あなたはこっち。机を動かしてきてね」
「……私は机が五つでも気にならないけど。ってか、賑やかな方が好きなんだよね。みんなで食べない?」
雛乃がそう口にすると同時に、教室がしんと静まりかえる。
女王に対する反逆だった。
十秒ほどの沈黙を挟み、莉子は笑顔のままゆっくりと口を開いた。
「私、この四人が良いって言ったんだけどなあ」
自分の権威を理解しない愚かな新入りに対し、発言を撤回する機会を与えることにしたようである。
女王は寛大なのだ。
もちろん雛乃は、自分に期待される振る舞いがどんなものであるかということを、完璧に理解していた。
そして同時に、そんな要求に応えてやる必要などまったくないということも。
「じゃあ、私が抜ける。悪いけど、こういうのあんまり好きじゃないんだ」
きっぱり言うと、莉子の顔から笑みが消えた。
友だちに順位付けする子は、これまでにも何人か見たことがある。
単純にわがままなのか、そうすることによって自分の力や地位を確認しているのか――いずれにしても、雛乃にはよくわからない価値観だ。
いつもなら口出ししようとまでは思わないのだが、今回は自分のせいで一人犠牲者が出そうになっている。
趣味に合わないトモダチゲームに巻き込まれるのは心の底からごめんだった。
「せっかく誘ってあげたのに、そういう態度を取るの? ちょっと思いやりがなさすぎないかな?」
刺々しくなった莉子の言葉もはらはらしている周囲の視線も無視し、雛乃は仲良しグループから弾かれてしまった気の毒な子に声を掛けた。
「入りなよ。私はいいから」
「う、うん……ありがと」
しかしそのとき、莉子から絶対零度の声が飛んだ。
「誰が戻っていいって言ったの?」
「え……」
「あなたはもう友だちじゃないから、こっちこないでよ」
言われた方は、行き場をなくして棒立ちになった。
言葉も出せず、泣きそうになっている。
「…………」
それを認識した瞬間、雛乃は踵を返し莉子に向かって足を進めていた。
莉子は怪訝そうな顔になった。
「? なあに? 今さら謝っても――ちょっと!?」
無言のまま、思い切り彼女の机を蹴り飛ばす。
あ、やってしまった、と思ったときにはもう手遅れだった。
机は吹っ飛び、大きな音を立てて横倒しになり、その上に乗っていたパンやクリームシチューや野菜サラダが派手に飛び散って、床を華やかに彩った。
莉子は金切り声を上げ、クラスメイトたちは彫像のように固まり、遅れて教室に入ってきた長谷部先生が飛んできて、放課後職員室に来るよう二人に申し渡した。
――それが事件の一部始終である。
「君の行動が短絡的だったのは間違いないな。笠倉に何か不満や怒りを感じたのだとしても、あのやり方はとても利口とはいえないものだ」
「……今さら性格は変えられませーん」
悠人の言葉はおおむね正しい、と思う。
ただ、学者みたいな口調で評論されるのは少ししゃくにさわった。
雛乃は五人兄弟の上から二番目。
雛乃以外は全員男で、弱肉強食上等、力こそパワーという過酷な家庭環境で育った。
すぐに手足が出る習性は、数多く積み重ねてきた兄弟ゲンカの経験によって培われものだ。
「いや……うん、でも、開き直るのはよくないね。確かに反省すべき点があるのは、自分でもわかってるの。もっと穏やかな手段を取ることだってできたはずだし」
雛乃としても、決してケンカがしたかったわけではない。
「だだ、さ――ねえ、笠倉さんって、いつも友だちをあんな風に扱ってるの?」
3/27に残り二話を投稿します。