空に帰る迷子
ああ、なんてくだらない世の中だろう!まったくもってくだらない!クラスにいるのは教室を合コン会場か何かと勘違いして、外見だけ取り繕って中身が伴っていない奴らばかり!外見とは内面が美しくあってこそ整ってくるものだというのに!家から近いというだけで高校を選んだ俺が馬鹿だった!いや、俺「も」馬鹿だ!うんざりする!
とりあえず、俺はこのくだらない世とおさらばしたい。次、生まれてくる世の中はもっと楽しい物であることを願おう。さようなら、くだらない俺の人生。サヨウナラ、諸君。君たちはこの辛辣な世の中を強かに、愚かしく生き抜いてくれ。「憎まれっ子世にはばかる」と言うくらいだから、きっと君たちは長生きすることだろう。せいぜい苦しめ!この馬鹿どもが!
――そんなふうに思春期の頃にはありがちな事を考えて、夏のある朝始業前に勢いよく屋上の扉を開けた彼の目に飛び込んできたのは、一人の女子生徒が今にもフェンスを乗り越えようとしている光景であった。女子生徒はフェンスにしがみついたまま、扉の開いた音に振り返って言った。
「めずらしい。お客さんだ。」
これが、彼と彼女の邂逅の瞬間であった。煩わしかった蝉の声が、ぴたりと止んだ気がした。
彼は言った。何も感じていないかのように見える表情で。
「…自殺でもするの?」
「そうだって言ったら止める?」
「命を粗末にするべきではない、とだけ言おうかな。」
「そう。じゃあさ、今からするのは命を粗末にする行為じゃないから止めないでね。」
「前言撤回。今からここで君がうっかり足を滑らせて、結果的に飛び降り自殺した事になったりしたら俺の夢見が悪くなりそうだから、とりあえずフェンスをよじ登るのはやめてくれないかな。あと、今強風が吹いて君のスカートがめくれたりするとすごく居心地が悪い。」
彼女はふむ、と頷いた。
「なるほど、それは申し訳ないね。とりあえず今はやめておくことにするよ。流石にスカートめくれるの恥ずかしいし。」
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
彼女はニコリと作り物めいたほほえみをそれは美しく浮かべて言った後で名乗った。
「私ね、落合蒼穹っていいます。蒼穹って書いてソラって読みます。最近流行りのキラキラネームっぽいでしょ。かわいいでしょ?三年生です。先程は大変ご迷惑をおかけしました。」
「ご丁寧にどうも。俺は羽生好人です。お人好しのヨシヒトです。二年生です。タメで話してすみませんでした。」
「気にしないから敬語使わなくて良いよ。多分敬意を払ってもらうほど価値のある人間でもないしね。」
「それはよかった。慣れない事はあまりしたくないんだ。」
「あはは。同感だよ、お人好しクン。で、君は何をしにここまで来たの?」
興味津々――とはとても言えないような、どうでもよさそうな声音でソラは尋ねた。まるでパソコンの中に最初から機能としてあった挨拶文を、そのまま引っ張り出して、社交辞令として相手に尋ねた。そんな口調であった。好人はそれに気づかないほど馬鹿ではなかったが、あえて気付かないふりをした。気付いてこちらが怒るのも、気付かないまま泣いて事情を話すのも、――どちらも彼が元からするはずもない行動だが――なんだかソラはそういったものは想定済みな気がして、なんとなく想定外の行動をしたくなったのだ。
「お人好しするのに疲れたから、来世まで昼寝でもしようかと思ったんだ。」
「へぇ、それは大変だったね。でも残念ながら今は昼じゃなくて朝だよ!それから、命は粗末にするべきではない、と言っておくよ。」
数分程前に言った自分の言葉をそっくりそのまま言われて好人は眉を寄せた。
「…逆に聞こうか。君はさっき何をしようとしてたの?命を粗末にする行為じゃあなかったんだろう?」
「そう!私は別に死にたいんじゃない。命を粗末にするのは本当に愚かしいことだと思うよ!私はね――」
始業を知らせる鐘の音が鳴り響く。その中でもはっきりと聞き取れる声でソラは言った。
「――空を飛びたいの!」
好人は開いた口が塞がらなかった。何故なら、ここはもちろんヘリポートではないし、彼女はハングライダーもパラシュートも持っていない。飛ぶことはおろか、滞空時間をのばすことすらできないのだ。
「いや、君さ。馬鹿じゃないの?」
「うん、よく言われるよ。でもね、空を飛ぶのって人間の昔からの夢じゃない?今は飛行機とか、そういうのが発達して飛べるようになったけど、でもね、それじゃあ私は物足りないの。この身一つで空が飛べるようになりたいの!」
「…へぇ。無理じゃない?君には羽も無いのに。」
「夢が無いなぁ、お人好しクンは…夢の無いまま大人になるのって多分すごくつまらないよ?」
心底残念そうに、大げさにソラはため息をついた。
「まったく…せっかくお人好しクンは素晴らしい名字なのに。」
「名字?」
「そう、名字。だって、ハニュウって、羽が生えるって書くんでしょう?飛べそうな名字じゃない?すごくいい。すごくいいよ。こんなに人を羨ましいって思ったのは初めて!鳥が羨ましいとはいつも思ってるけど!」
「…そういう発想は無かった。」
好人は段々自分がソラのペースに巻き込まれていることに気付いた。だが、それもいいかと思った。このまま、ソラのとても自分には考えもつかない話を聞いて過ごすのは、なんだか最近飽きてきていたいつものクラスの連中と馬鹿騒ぎよりも有意義な気がした。ようするにいい暇つぶしなわけだ。
それから、羽生好人は屋上、もとい落合蒼穹の元に通うようになった。
いつの間にか、来世まで昼寝でもしていようなどという考えは遥か彼方に追い遣られていた。
「なー、ヨシヒト、おまえ最近付き合い悪くね?」
「わかるー!なんか何言ってもボケーとしてるカンジすんですけどー」
「そうか?ごめん、急いでるんだ。悪いな。」
こんな風に、ソラと出会った次の日から、好人は今まで付き合いのあった人間よりも彼女との時間を優先した。彼にとってそれは当たり前なことであった。今までの付き合いも、勉強も、スポーツも、ソラとの時間に匹敵するほどの魅力は感じなかったのだ。いまや朝からソラの自称空を飛ぶ練習という自殺未遂を未遂のままで済ませるのと、彼女の語る空への希望を聞くことは日課になろうとしていた。
そんな彼は、ある単語が耳に付くようになった。それは――
「――…落合さんってさ…――」
そう「落合さん」だ。彼がその単語が使われるのを聞くときは決まって嫌な感じがした。あからさまな敵意や嫌悪が込められているわけではなく、だが、好意が込められているようにも感じないのだ。そこには、ソラを敬遠するような響きがあったのである。彼らの気持ちは好人にもわからなくは無かった。彼とて、空を飛ぶという彼女の夢は実に滑稽で、理解しがたいものに相違ないのだ。彼女が教室においてもいわゆる「不思議ちゃん」であるならば、周囲に敬遠されるのもうなずける。いつだって異端な者はつまはじきに遭うものだ。彼女がいつも一人でいるのも、話を合わせてくれる人間がいないからなのかもしれない。
そして、好人がそんな彼女の話を聞き続けるのはあくまでも「暇つぶし」に適していると思ったからだ。少なくとも、この時彼は確かにそう思っていた。
好人はその日、クラスメイトに捕まって屋上に行くのが遅れた。そして、辿りついた屋上で目にした光景に好人は背筋が凍るのを感じた。
「ソラ!」
ソラの肩が、びくりと跳ねたのが遠目にも分かった。ソラが少し気まずそうな笑顔で振り向いた。――フェンスの向こう側で。
「やぁ、お人好しクン…今日は遅かったね。」
「…クラスメイトに捕まってたんだよ。ほら、戻って来なよ。危ないから。」
「…うん」
ソラは、そう頷いたまま俯いてフェンスを掴んだまま黙り込んだ。
「ソラ?」
「ね、お人好しクン。」
「…どうかしたの?」
「…えっと、ね。そのさ…あー…」
歯切れの悪い話し方はソラにしては珍しかった。彼女は空を飛ぶ夢を語る時、それこそ晴れ晴れとした蒼穹のような目で、口調で話すのだ。好人は狼狽した。これは何か、重大な事があったに違いないと思った。同時に、暇つぶしの対象として見ていたはずの彼女を心配する自分の心にも動揺した。
ソラは俯いたまま言った。
「えー…お人好しクン。その、…な、なんか食べるもの持ってない?」
「はぁ?」
好人は完全に拍子抜けした。フェンスのそばに寄って彼は言う。
「つまり…おなかが空いていると。」
「う、うん。なんかさ、フェンス越えた辺りはよかったんだけどさ、お腹空いちゃって、これじゃ飛べても絶対途中で燃料切れになるなー、って思ってさ。」
「…呆れた。何かあったのかと思ったのに。」
「いやいや、何かあったよ!だってお腹が空いてるんだから、重大事件じゃない!」
「はいはい。そういう事にしておくよ。でも俺は今、生憎とキャンディーしか持ってないよ。」
「十分だからそれちょうだいよ、お人好しクン。」
好人がフェンス越しにキャンディーを渡すと、ソラは安心したように笑った。
「よかった。お人好しクンが来てくれて。飢え死にしちゃうところだった。」
「大げさだな。」
コロン、と音をたててキャンディーがソラの口に放り込まれる。彼女の口元に笑みが浮かんだ。
「さて、お人好しクンがくれたアメちゃんのおかげで元気出てきたし、そっち側に戻ろうかな。」
「ぜひそうしてほしいな。」
「じゃあそうするよ。」
再びフェンスに掛けた手に力を込めて、慣れた手つきで乗り越えてくるソラを不安な心持ちで見守っていた。ソラの細い体はいとも簡単に風にさらわれてしまいそうで、本当に、どこか遠くに飛んで行ってしまいそうな気がした。すとん、と降りてきた彼女の姿に好人がどんなに安心しているのかを、きっと彼女は知らないだろう。もしかしたら、好人自身も気づいていないかもしれない。
「なあ、聞いてもいいかな。」
「何を?」
「なんで目元が赤いのか。」
「…」
ソラはフェンスに背を預けて黙り込んだ。錆びかけのそれはぎしりと鳴った。
「えっと、ね。その、お腹空いて、そしたらちょっと寂しくなっちゃって、…お人好しクンはなかなか来ないしさ。」
「そうか、悪かったよ。…本当にそれだけ?」
「それだけ、だよ。」
「…じゃあ、そういう事にしておくよ。」
「…うん、今は、今だけでいいから。そういう事にしておいてよ、お人好しクン。」
「…分かった。」
目を合わせようとしない彼女に、自分からも目をそらして好人は空を見上げた。そこには重苦しい雲がたちこめていて、好人は「明日は雨かな。」と小さく呟いた。隣のソラの顔も、曇った気がした。
翌日、案の定雨は降った。折りたたみの傘を携えて好人は屋上の扉を開いた。流石にこの天気ではソラもいないだろうと思ったが、念のため確認も兼ねて訪れたのである。もしも、雨の中に彼女がたたずんでいるような事があれば屋内に引き入れなければ、という使命感のようなものも無意識の内にあった。
「…あ、お人好しクン。」
「…流石にいないだろうと思ってたのに。」
「雨の日は、きっとどう頑張っても飛べない気がするからね、本当は来なくても構わないんだけどね。…他に、いる場所も無いんだ。」
どれだけの時間そこに立っていたのか、曇天色をした大きめの雨合羽をまとっているにも関わらず、ソラの前髪は濡れていた。折りたたみ傘を開いて好人はソラの隣へと向う。踏み出した足元で水が跳ねて、靴下を濡らす感触が不快であった。
「今はいる場所がなくても、風邪をひいて倒れたらいる場所ができるの?」
「お人好しクンは本当に痛い所を突いてくるよね。…倒れたっている場所なんかないよ。」
「…そう。」
重苦しい雰囲気がその場を漂った。
「ねぇ、お人好しクン。君はもう、ここに来ない方がいいよ。こんな変人と一緒にいる所なんて見られたらきっと変な噂をたてられるよ。それに、君も飽きたでしょ?自殺未遂の女を止めるのは。」
「…」
「無言は肯定と受け取るよ?」
好人は驚いていた。彼女がそんなふうに考えていたなどとは思ってもみなかった。
「わかってたよ。君が暇つぶしでここに来ていたこと。」
好人は黙ったままだった。ソラの声は涙が混ざった。
「わかってるんだよ。空なんか飛べないことも、羽なんか絶対に生えないことも!ここから飛び降りたらただ下に落ちて死んじゃうってことも!」
最後は半ば叫ぶようになったソラの声を聞いて好人は決心がついた。
「…わかった。ここに来るのはもうやめるよ、ソラ。今まで、俺の暇つぶしに付き合ってくれてありがとう。サヨウナラ。………君が空を飛ぶのを諦めるところなんて見たくなかった。」
最後に言った一言が、きっと一番の本心なのだろう。好人は自分の吐き出した言葉にそう思った。今の今まで気付かなかった自分を腹立たしくも思った。そんな波打つ心のまま、たった今入って来た屋上の扉を開けてその場から立ち去る。バタン、と背後で扉の音が閉まる音と共に持っていた傘を床に投げ捨てた。そして扉に背を預けて座り込む。
大きくため息を吐き出して、彼は思った。
(あくまで、暇つぶしのつもりだった。でも、俺は楽しくなってたんだ。空への希望を語るソラを見るのが。羨ましかった。空とそっくりなソラの心が。)
後ろの扉の向こうから、雨の音に混じってすすり泣きが聞こえた。好人はやるせない気分になった。
それきりしばらく、この屋上に訪れる人物はいなくなった。
その日、丁度ソラと好人が出会って一週間が経っていた。
夏休みは例年通りダラダラと汗と時間を浪費して、始業式のその日は朝からある噂で持ちきりで騒がしかった。好人は久しく訪れていなかった屋上へと走っていた。クラスメートから聞いた話が原因であった。
(夏休み中にさー、家のベランダから落ちて大怪我したヤツがいるらしいよー?三年の女子だって。)
友人の恋をからかうような口調で喋ったクラスメートを放って、ソラに違いないと確信した好人は夏休みでなまった体を無理矢理に稼働させた。しかし、もはや懐かしくなってしまった屋上の扉のノブに手をかけてふと思った。
(今、俺がこの扉を開いて、どうするんだ?何がしたいんだ?)
急速に自分の体とノブが温度を失っていくような錯覚に陥った。目の前にあるのがひどく重厚な、要塞の扉のように見えた。――それでも、彼は扉を開けた。その先にソラがいる事を信じて。
「―――…」
さわやかな秋晴れと表現するにはまだ早い日差しの強い屋上は無人で。休みに入る前よりも幾分か高くなったように感じる空は真っ青で、ソラと最後に会ったあの日とは正反対であった。
盛大な肩すかしをくらった気分で好人はため息をついて、フェンスのそばに寄った。眼下には思ったよりも小さく見える人影に身震いした。ソラはいつもこんな光景を見ていたのか、と思ってその考えを即座に自分の中で否定した。ソラはいつだって上を見上げていた。空を、見ていたのだ。そのときやっと好人は空を飛びたくなる気持ちが分かった気がした。両腕を大きく広げて、肺いっぱいに空気を吸い込む。泣きたくなるような秋の香りが一足先にやってきて、鼻をかすめた気がした。
「――お人好し、クン?」
背後から聞こえた声に、好人の呼吸が一瞬止まった。
「なに、してるの。」
戸惑ったように声は震えていた。
「飛ぶの?」
涙が混ざった。
「私は、飛べなかったよ。」
彼女は、泣いていた。
「空の、そのまた上に行くことも、できなかったよ。」
鼻をすする音が聞こえた。
「連れて行ってよ。お人好しクン。私も、空に、連れて行ってよ…ねぇ…」
消え入るように彼女は言った。
「…連れて行ってくれなくて、いいよ。でも、最後に、おはなし、しようよ。暇つぶしで、いいよ。」
好人が振り向いたとき、彼女――ソラは松葉杖にすがるように立っていた。
「ソラ…」
「寂しいんだよ。お人好しクン…」
泣き顔のソラはそれでも綺麗だった。好人はソラに近づいて、その手を取った。
「ごめん、ソラ。最初こそ確かに暇つぶしに来てた。でも段々君が空を飛ぶ夢を語るのを聞くのが楽しくてここに来るようになってたんだよ、俺。なんで君がここで毎日空を飛ぼうとするのか、なんで君の同級生が君を敬遠するのか、なんであの日君が泣いていたのか、なんで君がいきなり俺を突き離したのか、――聞きたい事が、たくさんあった。それでも、そんなこともどうでもよくなってくるくらい、君と話す方が楽しかった。」
ソラは瞳を大きく開けて驚いていた。
「よかったら、訳を聞かせてくれないかな。」
ごめん、という言葉に続けてソラは言った。
「私の勝手な被害妄想で、迷惑かけちゃったね。」
彼女の声はまだ少し震えていた。
「いつもそうなの。ちょっとこっちを見てコソコソ言ってる人たちを見るとすぐに自分の悪口を言ってるって思っちゃう。何の関係も無いはずなのに笑い声が聞こえると自分が笑われてるんだって思っちゃう。それで、教室にいるのは怖くなったの。嘘みたいでしょ?この屋上では君とこんなに話せてるのに、教室にいると人見知りして、途端に緊張して何も話せなくなっちゃうの。だからクラスの人も取っ付きにくく感じたんだろうね。だんだん話しかけてもらえなくなった。そうなった理由はちゃんと自分で分かってて、でも、だから余計に人の目が、話し声が、怖くなった。悪循環だよねぇ…」
ソラの話に好人は正直なところ驚いていた。彼女が敬遠されていたのは「不思議ちゃん」であるからだと思っていたのだ。彼女が人見知りするところなど想像がつかなかった。
しかし実際のところ、彼女は発言や行動が原因で敬遠されたのではなく、何も言えずにいたために周囲から遠ざけられてしまったのである。
「で、そういうのが積み重なって、学校には行きたくなくなった。親も対応に困って、何を言っても訳を話そうとしない私に疲れてその内さじを投げた。だから家に居づらくなって外に出た。それでもやっぱり行く所なんて無くて、結局ここに逃げてきた…。」
「それから、屋上登校?」
「そう。学校としても都合がいいみたいだよ?厄介だから、もうさっさと退学でも卒業でもしていなくなってほしい生徒が、手のかからない状態にあるから。特別丁寧に面倒を見なきゃいけないわけでもないから…。」
好人の眉間に無意識にしわが寄った。それに気付かないソラはそのまま続けた。
「で、そんな感じでどこからも厄介払いされたけど、死ぬ気にもなれない私はこの屋上で空を飛びたい、なんて馬鹿なことを考えついたの。この話は前にもしたと思うけど…今また話したくなったから話す。私の名前、ソラでしょ?この頭の上に広がってる空間と同じ名前なんだよ。高く、高く飛んで、溶けて一緒になれてもいいと思うの。一緒になりたいから、飛びたいの。飛び降りたいんじゃないの。私を縛り付ける地面なんかに用はないもの。空に、墜ちていきたいの。」
彼女の言う「いきたい」は「生きたい」でもましてや「逝きたい」でもなかった。ただ、「行きたい」のだと。以前聞いたときには思いもしなかった事を好人は思った。
「そんなことばっかり考えて過ごしてたら、君が来て、私の話を聞いてくれた。嬉しかったの。でもね、」
いつの間にか落ち着きつつあった声はまた頼りなさげに震え始めた。
「いつか、君も私の話なんかには飽きて、ここには来なくなるんだと思ったら急に悲しくなった。だったら、こっちから突き離したいと思ったの。そうすれば、心の準備ができてないまま君がいなくなる事はないから。でも、それでも、やっぱり寂しかった。」
そうして、ソラは自嘲的な笑みを浮かべて俯いた。
好人はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。今の自分が彼女にしてやれることはそばにいる事だけだった。それでも、彼にはどうしても言いたい一言があった。それがどういう結果を招くことになるかは考えもつかない上にどうでもよかった。
「ソラ…俺がさ、今度は一緒に飛ぶよ。」
その言葉は案外すんなりと口から滑り出た。ソラは勢いよく顔を上げた。
「俺は、羽生だよ。きっと飛べる。」
飛べるはずがない事は分かっていた。ソラも首を横に振った。
「駄目だよ。飛べない。」
分かっていても、否定されても、ソラを連れて、どうにかして空を飛びたかった。好人はつないだソラの手を強く握った。
――そしてその時、視界はくらんで世界は反転した。
床と天井がさかさまになった時、彼らは空へと墜ちていた。
「――…は?」
なんとも間抜けな声が出た。それを意識することも忘れるくらいに非現実的な事が起きていて。彼らの疑問はそっちのけで体はゆっくりと眼下に広がる空へと降下していく。そこはあまりに居心地が良すぎて戸惑ってしまうような空間であった。
「え、どういうこと…?」
ソラの戸惑った声が聞こえる。今は頭上にあるという表現が適している屋上の床はみるみる遠ざかって行った。
「ソラ、俺たち、飛んでるんだよ!」
こんな馬鹿な事があるだろうか。あるわけがない。そう自分の冷静な部分は言っていた。だが、好人は今この瞬間ソラと自分は空を飛んでいるのだと、深い空の青の中に墜ちていっているのだと信じて疑わなかった。疑いたくなかった。ソラは呆然と床と好人を見比べてうわごとのように呟いた。
「私たち、飛んでるの?」
好人はこの状況に対する疑問に蓋をして、興奮した口調でうなずいた。
「そうだよ!」
「そっか、私たち、飛べたんだね…」
涙を流さずに泣き笑いに似た表情を浮かべてソラは太陽の眩しさに目を細める。好人は繋がれたままの手のことを思い出して、いつの間にか緩んでいた力を再びこめて真剣な面持ちでソラに言う。
「ほらね、一緒に飛べた。俺たちに羽は生えなかったみたいだけど。」
彼らを包みこむ大空は肯定も否定もしなかった。二人は今、是も非も無い場所にいた。
(そっか、俺たちは、帰って来たんだ。)
好人は漠然とそう感じていた。
何の疑問もいらなかった、幼い頃。きっと自分たちはいつだってここに飛び立つことができていた。いつの間にか、自分の体を縛り付けて放さない装飾品はどんどん増えていて、それが重くてどんなに助走をつけても、どんなに高く飛び跳ねても、ここに戻ってくることを難しくさせていた。慣れ親しんだ場所へと帰ってくる術を失った自分たちは、迷子になっていたのだ。迎えも来ない、送り届けてくれる人もいない場所で途方に暮れていたのだ。そうして重ねた迷子の時間は、帰ることを諦めさせた。
――しかし、やっと今彼らはこの懐かしい永遠の場所に帰って来た。
ソラの顔は、本物の泣き笑いになっていた。彼女が求めていた場所は確かに空にあったのである。
好人が目を覚ました時そこはいつもの学校の屋上だった。
(―――夢…、か…?)
隣には固く手をつないだままのソラが寝ていた。どうやら、二人してこの決して優しくない日差しの中で倒れていたらしい。
(いや、夢を見ていたのだとしたら同じものを見ていたとは限らないか…。今のは、俺の願望だったのかもしれない。ただの夢じゃなくて白昼夢ってわけか。)
今でもやけにしっかりと体は浮遊感を覚えていた。しかし、夢とはそんなものであった気がする。――とはいえ、いつもは目覚めたときに夢の内容の大半を忘れてしまう彼にはよく分からなかったのだが。
好人の思考は隣のソラが呻いたことで途切れた。彼はそこで初めて自分たちの熱中症の可能性を疑った。愚鈍な自分を呪いながらソラの名を呼んだ。
「ソラ、起きてくれ。」
うっすらと目を開けてソラは微笑みを浮かべた。それはよく晴れた蒼穹によく似ていた。そう、彼らが出逢った頃に彼女がいつも浮かべていた笑みだ。好人は息を呑んだ。
「大成功だよ、好人クン。」
始業式の開式を知らせる鐘が遠くで、響いていた。