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/1 人は異形のパンドラの箱に狂喜す03

 マーサ・トメリック上級主任研究員は何が起きたのか分からなかった。


《警告:魔術汚染(MP)濃度23%上昇中。直ちに行使中魔術のキャンセル処理を行ってください》


 バイオ研究用魔術防護服の全面マスクのスクリーンが赤い警戒色を点灯し、警告文が大きく表示されている。内蔵用のスピーカーからは甲高い音が鳴り響き、彼は錯乱したように防護服を脱ごうと首元をひっかきまわして、パニック状態に陥った。

 いや訂正しよう。心理的なストレスによる突発的な恐慌状態をパニックというなら彼の場合は当てはまらない。なぜならそれは心理的なストレスだけではなかったからだ。

 足元からもぞもぞと無数のムカデが這うような悪寒。その足の筋繊維がすべてムカデに変質し、自分の意思とは関係なく動き始める感覚は理性をもった人間なら耐えられない。

「あああああ!」

 トメリック上級研究員は叫び声を上げて、がくがくと足を震わせる。彼の一部だった筋肉が異常な力で勝手に動き回り、それにつられて彼の足も気持ちの悪い人形のように動き回っていた。骨がバキバキと折れ、人体の動きとしてはあり得ない方向へと好き勝手に暴れ回る。

「マーサ主任・・・」

 その怖気が走るホラーな光景を目撃した研究員達が呆然と彼の名を呼んだ。

 だが、トメリック上級研究員はそれに答えるような余裕がなかった。

 骨が血管を裂き、筋繊維の束が皮膚のしたでうごめく激痛。そしてなぜか、嗚咽を上げてしまうようなむず痒さで意識がパンクする。早々に気絶してしまえば、彼にとっても幸運だったかもしれないが、魔術行使の間は決して意識を失わない。ダイレクトに激痛と快楽が脳を刺激し、脳内麻薬成分がさらに彼の意識を飛ばしていく。

 刻々と変わっていくトメリック上級研究員の体。刻々と数値が上昇していく魔術汚染(MP)濃度。

 数値が50%を越えた段階でしびれを切らしたAIが無慈悲な警告文と共に最後の手段に出た。


《権利章典修正第24条により、魔術汚染(MP)濃度50%を越えた魔術行使者の人権を剥奪。労務省魔術局魔術士契約に基づき特別処置を執行します。安全装置、起動》


 パン、と膨らませたビニールを破裂させたような音が実験室に響き、トメリック上級研究員は防護服の全面マスクの後頭部に仕込まれた爆薬によって作業台に叩きつけられた。シャーレや実験器具が置かれた作業台にのし掛かるように大柄な彼が突っ伏す。

 彼の部下達はあまりのことに言葉もなく、警戒音が鳴り響く実験室に突っ立ている。防護服に損傷は見られない。密着状態で人間の頭蓋骨を破り、脳みそをぐちゃぐちゃにかき回す爆薬でも多層構造強化セラミック製の魔術士防護服を破ることはできなかった。

 彼の遺体を見守る研究者たちの中からロイスがトメリックに近寄った。

「主任・・・嘘でしょう・・・?」

 ロイスは信じられなかった。先ほどまで研究成果に喜びの声をあげていた上司が突然MP事故を起こし、緊急措置として頭を吹き飛ばされたのだ。自分の小言にも困ったような顔を浮かべ文句もいわず、研究を一心に進めていた子供のような人がこんなにもあっけなく死ぬだなんて思いもしない。

 しかし、彼はぴくりとも動かず作業台で突っ伏している。肉体変異のあった足はできの悪い人形のように好き勝手な方向に向かってだらりと床に垂れている。

「主任・・・起きてくださいよ・・・主任」

 ロイスは彼の防護服を揺すり、寝ている上司を起こすように声を上げた。

 どうしてこうなったのか。もっと自分が注意をしていれば・・・そんな後悔がわき上がる。無理にでも休ませて防護服を整備しておけばよかったと涙をためて悔いた。


 みちり、と防護服の内側から音がした。それは手で触れたロイスだけが気づいた。固くて冷たい防護服の外装の下で何かが蠢いている。

 次の変化は研究員の誰もが耳にした。

 パキパキ、ギチギチと金属音や乾いたものが割れる異音が上がり、防護服が盛り上がる。脈打つように膨張した防護服。手足が玩具のようにバタバタと動く。それが心臓の鼓動のように何度か膨れあがると、卵の殻がひび割れるように防護服の中にあるものが外気に触れる。

 ピンク色、というにはもっと生々しい色だ。

 てろてろと濡れて妙に艶がある。

 ちょうど綺麗に血を洗浄した手術中の内臓みたいな色だった。


《悪魔化災害発生。避難勧告:全職員はただちに地下三階の魔術実験エリアから待避してください。当該エリアは三分後に隔離されます》


 一際大音量でアナウンスが全フロアに通達される。

 その意味をトメリックの周りにいた研究員達は誰もが知っており、何度も避難訓練を行ってきた。

 しかし、いくら訓練をしても実際に目撃した人々はあまりの事態に金縛りのように動けなかった。

 アナウンスと真っ赤な警戒灯が明滅する中でミシリミシリと防護服の背中に当たる部分が割れ、サナギから羽化する蝶のように閉じ込められていたもの(・・)が露わになった。

 その光景は一言でいうなら、内臓でできた巨大な毛虫だ。

 いったいどのようになったか、それもこんな短時間で人間の肉体がここまで変わることなど現実的ではない。人間という存在が完璧に汚染された別種の生き物の誕生の瞬間。防護服は抜け殻。

 それを間近でみていたロイスは、トメリックと目があった。

 毛虫の口に当たる部分に生前のトメリックの顔があったからだ。にっこりと穏やかな微笑をたたえている。

「主任――」

 微笑まれて無意識に呼ぶが、ロイスにはもはや後悔やトメリックを悼む気持ちは吹き飛んでいる。ただ、恐怖に顔を歪め、べたりと床に尻餅をつく。

 トメリックだった異形のそれはじっとロイスの顔を眺めながら、体表に揺れる無数の突起物をわさわさと動かしていた。ブルブルと震える突起物はもっと観察しようとするトメリックの意識に反応して、ぷつりと真ん中が割れて小さな目玉が枝豆のように出てくる。

 無数の目。それが実験室で恐怖に硬直している元部下達をなめ回すように観察した。

(ちょうちょになるにはどの子がいいだろう?)

 汚染されて、人間を止めた意識の中で彼は考える。

 トメリックは子供の頃から虫が好きだった。サナギから羽化する蝶に感動したこともある。醜い毛虫から美しい蝶になるあの虫たちがもっと自分たちを幸せにしてくれる。自分はそれを手伝うんだと、意味不明な考えで部下達を値踏みする。

(でもどうやったらちょうちょになるんだろう?)

 困った顔を浮かべてトメリックは毛虫の口から生やしていた首を傾げる。

 汚染された意識、それでも彼はもちまえの無邪気な子供のように物思いにふけっていた。

 吐きそうなほど人間の形を無茶苦茶にしたトメリックが動かないのを見て、ロイスはゆっくりと、彼の注意を引かないようにゆっくりと尻を引きずって後退していく。

 他の研究員たちもロイスと同じように実験室の出口に向かって動いていた。物音を立て悪魔を刺激すれば殺される。悪魔化災害時のマニュアルをたたき込まれた彼らはしっかりとその内容に従って動く。

 だが、そんな動きもすべてトメリックには筒抜けだ。無数に生えた目玉で見ていた。

「ちょうちょ、逃げないでよぉ」

 子供のような口調を大人の低い声が真似る。

 しゅばっと、目玉の生えた突起物が伸びて、ロイスの腕を断ち切った。

 あまりにも滑らかな動きと驚異的な切断性。ロイスは腕を切られたことにも気がつかずに、ただ体を支えていた一部がなくなり床に崩れ落ちた。

「ぎゃあああああああ!」

 遅れくる激痛で彼は自分の腕がなくなったことに気がついた。血をぴゅうぴゅうと細い筋で迸りさせて床に転げ回り、血をベタベタとこすりつける。

「腕がっ! 腕がっ!」

 目を血走りさせて、ロイスがもがいていた。恐怖もその驚愕によって塗りつぶされて、冷静な状態ではない。腕を切断されて冷静なものなどいない。

「きゃあああああ!」「逃げろ!」「早く開けてよ!」

 張り詰められていた緊張が、ロイスの腕と共に切れた。はじかれたように研究員たちは我先にと出口へ殺到する。

「だめだよぉ」「だめだよぉ」「だめだよぉ」「だめだよぉ」

 呼び止めるトメリック。みんなを呼び止めようとトメリックは口を体中に増やして、大声を上げる。実験室にいた五人の研究員の約9倍。46個の口が彼らを呼び止める声を合唱。

 そして、目に見えない魔術を行使。

 魔力場が拡張し、部屋の酸素濃度を調整。極端に下げられた酸素濃度によって叫び声を上げながら逃げようとした研究員は血中の酸素濃度の低下でバタバタと気絶していった。 気絶して動かなくなった研究員たちを無数の目で満足そうに見ていたトメリックは微笑む。

「ちょうちょ、ちょうちょになろう」

 46個の口がちょうちょと合唱しながら楽しそうにトメリックは実験(さつりく)を始めていった。

 

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