/1 人は異形のパンドラの箱に狂喜す01
「主任、もしかしてまた泊まり込みですか?」
朝の始業時間の挨拶のあと、実験の軽いブリーフィングをしたロイスはすこし心配そうな声でロッカールームで自分の上司に声をかけた。
サプリメントをミネラルウォーターで流し込んでいた人の良さそうな無精髭の中年男性が訝しげに自分を見て言う。
「ああ、そうだが・・・臭うかね?」
そう言いつつ少し嫌な顔をしながら自分の服のクンクンと臭う。大柄な上司がそういった仕草をすると、愛嬌のある大型犬のような穏やかな雰囲気がある。それを見て、周りにいた部下達もクスクスと笑い合った。
ロイスも同じように微笑みつつネクタイを指さす。
「臭いはしませんが、ネクタイ。ネクタイが三日前と同じですよ、主任」
「そうだった。身なりを気にしないのが独り身の原因かもしれないな、ロイス君。今度論文にしよう」
上司はペットボトルの蓋をきっちり閉めて、ロッカーの中に放り込んだ。
冗談を言う上司にロイスは苦笑を返す。
すでに彼の元で二年間研究を同じようにしてきているが、上司がモテない理由は仕事の虫だからだ。それに可愛いまでの奥手で、見知らぬ女性に声をかけることさえもできない。高学歴、高収入、それに背が高くて優しい。ちょっとでもそういった社交場にでればすぐさま妻のひとりやふたり見つかるだろうと彼や他の仲間たちも思っているし、それを勧めたこともある。しかしそれ以上に研究を優先してしまい上手くいきそうな話も立ち消えてしまう。いくら愛する上司のためでもロイスもすでに諦めかけていた。
結局本人にやる気がなければなにも起きないのだ。
「査読員にはたくさん心当たりがいますのでご安心を。ですが、寝不足での魔術行使は事故の元ですよ。MP事故なんて発生したらこれまでの研究成果が水の泡になります」
ロイスはチクチクと上司をいたぶるように注意をした。
彼が愛する上司は放っておくとずっと研究をして、大事な防護服の限界までデータを取ろうとする。そういった機材の報告書を任されている手前、審査に引っかかりでもしたら注意勧告だけでは済まされない。自分が所属するジャーニアス・バイオメディカル株式会社は一流企業で内部のMP事故がそのまま株価に反映される。上層部のデリケートな部分。ロイスは小言で嫌われて事故がなくなるなら、喜んで嫌われ役になるようなタイプだった。
「そうだな・・・労務省の規定通り三時間の魔術作業が終わったら今日は早退させてもらうよ」
困ったような顔で素直に呟く上司に満足したロイスは朗らかに笑う。
「ええ、そうしてください」
◆◆
眠るのが怖くなって三年が経った。
眠るという行為はその日にすることが何もなくなり、休息を求めてベッドに入ると言うことだ。ゆっくりと体を横にして、目をつむれば途端に焦ってしまう。することがない、やるべきことがない。自分が何もしなくてもいいということが、まるで四方を壁に遮られ押し潰されるような恐怖に冷や汗を掻いて飛び起きる。自分にはまだすべきことがある。それに向かって行動していることが彼の唯一心が安らげるときだ。。
だから、眠れない夜には無心に愛用の銃を分解整備することにしていた。
何度も何度も。目を閉じていても組み立てられるほど馴染んだ銃が慰みになる。もしその銃口をこめかみに当てて、引き金を引けばそれこそ安堵の声を上げるだろう。
休息は死を意味している。自分は休んではいけない。休むなら死んだ後。
そう思うようになってから、彼は疲れ果てて気を失い初めて寝ることができた。彼の仕事柄、睡眠薬や精神安定剤の類いは御法度だ。真夜中に突然仕事の依頼が舞い込むかもしれない状況で、薬に手を伸ばすことなどできない。彼だけはそう思っている。たとえ、労務省が彼の仕事の職人に対して、一件の仕事の依頼につき、二日の強制待機義務を負っていても彼だけはいつでも動けるようにと常に体を維持している。
そうして昨晩も遅くまで本を読み、寝る五分前で銃を分解整備したまま眠りに落ちて、朝の光にうす目をあけると、粗末な事務所には女性が膝を突いて自分の顔に手を伸ばそうとしていた。
「おはようございます、所長」
伸ばした手で固まったまま美女が朝の挨拶をした。歳は二十歳前後。長い髪に小柄な顔で、身長はかなり高く、均整のとれた八頭身を折りたたみ、ソファの前で膝を突いている。
「仕事か? レイノ」
レイノと呼ばれた美女の手を見ながら彼はそんな質問を口にする。レイノがなぜ手を伸ばしていたのかは問わない。そもそもそんなことは大して気にするような人間ではない。銃口を突きつけられても彼なら平然としているだろう。
「いえ、ジャックさんがお昼にするから呼んでこいと」
「昼・・・昼か。わかった。後で下りるから先に食べててくれ」
一瞬、なぜ彼女が事務所にいたことに気がつかなかったと疑問がわく。いつもなら朝の十時に彼女が事務所に出勤して、その音で起きている。
が、事務所のスケジュールを思い出すと今日は整備を終えた車両が返ってくる手筈になっていたことを彼は思い出した。久しぶりの車両点検で、ついでに電子機器を色々と追加していたのだ。電子機器はオペレーターの彼女の担当であり、そのチェックで事務所には来なかったのだと納得した。
「では、先に食べていますね」
「ああ」
手を引っ込めて立ち上がった彼女見て、彼は背筋を伸ばした。
シィグ・モーレット民間魔術警備会社。
それがシィグ・モーレットという男が立ち上げた事務所の名前だった。アルマーノ合衆国陸軍特殊魔術士部隊、通称ブラッカーのOBであり、並外れた魔術戦闘技能を有し、魔術都市と呼ばれるアウラン州のセントトルマーニ市で事務所を立ち上げていた。
セントトルマーニ市は超一流企業が最先端の魔術技術を使い、巨大な生物がぶつかり合うような熾烈な企業競争が生み出すあらゆる物資にあふれかえっている。ぶつかり合いの衝撃は黄金の輝きを煌めかせて、人類の富を築く場所でもある。
そして、魔術が行使されるということは、それだけ魔術汚染による悪魔化災害の危険性が跳ね上がり、PMSCの需要が高まる地域となっていた。
PMSCも経済という社会に組み込まれた免疫機構である以上、需要と供給、金を生み出す企業とそれを消費する下請けの関係として立ち上げる最適な場所は限られ、需要よりも供給がかなり下回っている。PMSC自体の数は20社に満たないだろう。とはいえ悪魔化災害の年間発生件数が少ないため一種の均衡が保たれている状況だ。
中でもシィグ・モーレット民間魔術警備会社の契約形態は特殊だった。専属企業契約が一般化しているPMSCが、連邦公安局と直接契約を結んでいる。一見、政府との雇用契約で安定的な収入を得られると思うが実態は異なっている。
連邦公安局は対悪魔化災害テロを捜査する部署であり、悪魔化しない小規模な魔術汚染であろうとも出動要請がかかり、悪魔化災害時には予備役としての待機を命令される。つまりどのような場所にも連れ回される役なのだ。しかも、政府なので賃金はつねに規定通りの料金。企業の専属契約の出動における半分ほどになる。
忙しい割には儲からない。
それが連邦公安局と契約を結ぶ同業者たちの素直な感想だった。
だが、シィグは常に悪魔化災害の現場に出動できるその損な役回りを引き受けていた。
ただ、約束を果たすために。それだけのために。