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/0 咎人は青い空に慟哭す


「コ、コ、コノコ、ヲ、コロ、サナイデ・・・」

 赤い唇から零れた言葉がまるで突き刺さったナイフのように、心に絶望という血を流させた。

 我が子の命を願う母親の切なる声。一体、この世界にこれほど愛と悲痛に満ちた声があるだろうか。生命が持つ原始的で崇高な願い。たとえ、それが遺伝子に組み込まれた本能の一部であったとしても、その言葉を無視して子を殺すような者はすべからく揶揄される。あるいは、すこし感情的な人々なら石を投げつけるかもしれない。

「―――エレン、どうして君が・・・」

 仮面の下で噛みしめた歯の隙間から押し出すように、男の声が外部音声器から上がる。

 人の世の常識はうつろう。それまで悪だったものが、いきなり善に変わるように、そこに生きる人々なら引き金を引かない者が批判の対象となる。その親子はすでにこの世界の生命体ではない。現実世界とは違った存在になった侵略者(エイリアン)を野放しにはできなかった。

 冷徹に、無慈悲に、躊躇なくその機関銃の引き金を引き、この世界から消す。

 それが男の仕事だった。命を刈り取る殺人者ではなく、命を守る正義の味方。

 このたった一発の銃弾が何百という人間の命を救う。そして、人間のあり方を陵辱され人間の尊厳を破壊尽くされた侵略者の魂も救う。

 誰も殺さない。自分はただ命を救うために職務を全うする正義の味方。

 男はそう信じて止まなかった。そう信じてこれたからこそ引き金は軽かった。

 この瞬間までは。

《曹長・・・もう《ノイズ》の時間が・・・》

 男が所属する小隊付のオペレーターから戸惑いの声が骨伝導式無線機から囁くように聞こえる。

 男はこれまで過ごしてきたどんな瞬間よりも、ここまで時間というものが無慈悲に過ぎていくことを呪う。残された時間は9秒を切る。視覚スクリーンに表示されたコンマ以下の時間が目まぐるしく数字を明滅させていた。

 9秒で何が語れるのか。あるいは何を聞き出せるのか。

 無慈悲な時間という短い一瞬の中で、男は永遠にも思えるほどの無力さを痛感している。

 なぜこんな姿になったのか、それを聞くだけの時間もなく、何よりもはや人としての意識を汚されたその生命に解答を期待することなどできはしない。質問に答えるような理性がもはや存在しないのだ。あるのはただ原始的な本能。自らの生存か、宿した別世界の生き物を守ろうとする擬似的な母性本能。

 男は聞き出すことを諦めた。どうしてそうなったかを聞き出しても彼女が元に戻ることは永遠にあり得ない。もうすでに彼女は変わったのだ。失われた過去が戻らないように彼女は人として死んでしまった。

 だからこそ、無力感と絶望に浸りながら男は声を上げる。正確に女の額に銃口を当て、精一杯の微笑みを仮面の下に隠しながら。

「エレン、安心してくれ。もう苦しまなくていい。俺がちゃんと君を送る。君をそんな風にした奴らも地獄にたたき落とす。これまで・・・ありがとう」

 時間表示が3秒を切った。

 《ノイズ》の魔術によってかき乱されていた事象改変領域―――通称《魔力場》の支配権が緩やかに変異次元生命体《悪魔(デーモン)》へと委譲していく。理論数値上は拮抗状態からの僅かな偏移だが、実際は時間の逆再生のごとく悪魔の肉体が復元していった。おそらく、時間切れ(タイムアウト)から数十秒も経たないうちに悪魔は傷ついていたことも忘れるだろう。

「ころささ・・・なななないで」

 傷の再生と魔力場の回復によって悪魔の声は9秒前のものよりか滑らかに言葉を発していた。

 ただその言葉の内容は壊れた再生機のように同じ内容を繰り返すだけ。理性が崩れた悪魔の戯言。無意味な音。

 しかし、本当にそうなのだろうか。

 どんな人間でも銃口を向けられて、理性的な言葉を口にすることができるだろうか。殺さないでくれ、と命乞い以外の言葉が出てくるのだろうか。

 ほんの刹那の間、男はそれが悪魔なのか、人間なのか分からなくなった。

 生命の本能に境界は存在しない。悪魔でも生きたいと願う生命のひとつ。

 しかし、そうであるならば男に迷っている暇は与えられない。

 それを見逃せば確実に自分は死に、さらに多くの人間の命が奪われるだろう。

 答え(こうどう)は簡単だった。これまでしてきたように、引き金を軽く引くだけ。

「―――」

 唸る機関銃の動作音と無数の爆発音によって男の声が掻き消える。

 六本の銃身を束ねたような機関銃は、銃身を回転させ吐き出される無数の銃弾の発射速度が速すぎて火を吹く獣にしか見えなかった。

 人間の体など吹き飛ばすような衝撃が、外部骨格の衝撃吸収機構によって反動を相殺し、服がそよ風に当たる程度の揺れしか感じさせない。人を挽肉に変えるほどの暴力。その暴力を麻痺させ、命を奪う行為さえも実感が薄くなる。

 金色の空薬莢が冗談みたいに機関銃の両側面から吹きこぼれる。ホースの水をまき散らすごとく空薬莢が地面で甲高い音をかき鳴らし、金色の水たまりを作り上げていった。

 そして、発射速度毎分2000発、ベルト給弾式の総弾数は600発。一秒間あたり30発以上吐き出される7.62mm口径の銃弾の群れが、呆気なく女の顔を血煙に変えた。

 寸前にまで男が見慣れ、美しいと思っていた端正な顔がまさしく消える。きっちり二秒ごとに下方へ銃口が下ろされたために、銃弾という消しゴムや修正液で人間を消すかのごとく肉体が掻き消えていく。形のよい乳房も、大きく膨れあがり身ごもっていた腹も、一色単に血の煙へと変えられた。

―――ブゥゥゥン。

 20秒以下で撃ち尽くされた弾丸。むなしく機関銃が奏でるモーター音が辺りに響き、激しい弾幕による硝煙の煙が銃口や給弾口から立ち上った。

 視界は真っ赤に染まっている。男が愛した女性の血が、頭を真っ白にして無我夢中で撃ち続けた彼の視界と心を赤く曇らせる。

 ガシャンと手に持っていた機関銃が銃弾の水たまりに落ちた。

「ああ・・・」

 彼は膝から崩れ落ちた。頭を両手で抱えるようにその目の前にあるものを見上げる。

 空は青かった。赤く曇った視界に痛いほどの青さが広がっていた。

 荒れ果てた住宅街。戦闘の際に住宅数棟が破壊し尽くされている。悪魔をいぶり出すため、魔術で吹き飛ばされた区画は爆心地のようにほぼ更地に近い。

 周りには男の三人の部下が沈黙のまま、膝を突く男を遠回しに呆然とみていた。声などかけられない。彼らは自らの隊長が立ち上がるのを待つしかなかった。

 男が見上げているもの。それは冗談のようにそそりたつ肉でできた樹木。三階ほどもある肌色の木。まるで巨大な十字架のごとく空に枝を伸ばしていた。そして、そこから生えていた女性の両脚がぶらんと血を滴り落としながら揺れている。

 さきほどまであった女性の上半身は男が600発の銃弾で消した。

 彼が愛したそのすべてを殺し尽くした。それは彼の幸せを殺し尽くしたのと同義だった。

 

 人を守るために、悪魔を殺してきた代償が自分の幸せなら悲劇としかいいようがない。

 そしてその悲劇はまさに人の手で起こされたもの。悪魔は自然発生するものではなく、人為的に起きる災害だからだ。つまり、故意にせよ事故にせよ彼は人々のために尽くしてきたのにもかかわらず、一部の人間から裏切られたということになる。

 しかし、男の心にはそんなことはどうでもよかった。

 裏切られたとしても女を殺したのは自分自身だからだ。握られた引き金はまさしく彼の殺意。殺すという覚悟のなせる技。間違いなく彼は引き金を引いた事実がそれを物語っている。人としてそれは賞賛されるべき行為で、彼にとっては背負った罪の意識が彼の魂を破壊したのと変わらない。

「約束は守るよ・・・エレン」

 壊れた男は仮面の中で微笑んで呟く。

 轟音にかき消された彼の言葉。それは彼の魂を呪う一言だった。

 魔術が現実の事象を改変させるなら、ただの言葉もまた人の一生を改変させる魔術になる。

 愛したものを生け贄に捧げたその魔術は彼の魂をあらゆる喜びを消し去り、ただひとつの魔術をなすための機械に作り上げていた。

 償いきれない罪を背負った咎人は何をするだろうか。罪の意識で身を破滅させ、社会から消えればいいのだろうか。しかし、それは男にとって安易すぎた。簡単に許されない罪だからこそ、その贖罪は決して安易なものにはならない。自殺などもってのほかだ。その罪を償うには自分の命では釣り合いがとれない。

 自分を愛した女性は、人々を救い続ける男に惚れていたのだ。

 男が見上げている異形の木が崩壊を始めた。残留する魔力でなんとか体勢を維持してきたその体が大きく揺れ動き後ろに倒れていく。肉が潰れる音があちこちから響き渡って、地鳴りと共に落ちた。

「ああ・・・エレン・・・」

 男の視界には血で煙った仮面から見える青い空が映っている。

 幸せだった時間は戻らない。彼女が生き返る奇跡は起こらない。世界は無慈悲なほど青く、男の心を余所に過ぎていく。

 ただ、それでも―――。

「あああああああああああああああああ!」

 空を仰ぎながら男が慟哭する。

 すこしでも、ほんの少しでも奇跡を、世界が自分に優しくあってくれと願い、長い雄叫びを上げていた。


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