ただ普通の女の子になりたかった
ふわっと春の風が二人の間を吹き抜ける。ウォーレルの艶やかな黒い髪が靡き、涼しげな切れ長の青い瞳と僅かに歪んだ眉が髪の間から見え隠れする。
「それは無理だ」
ひどく落ち着いた声がその場に響いた。その声を聞いただけで、失敗してしまった、とフェデルシカは思う。
彼はフェデルシカの発したお願いを冗談だとさえ受け取ってはくれなかったのだ。
いや、フェデルシカはわかっていたはずだった。ウォーレルに偽りの言葉は通用しないということを。
いつの頃からかウォーレルはフェデルシカの嘘を見抜くようになっていた。心から思っている時の言葉には、なぜそう思ったの? と色々聞いて話を膨らませてくれるけれど、心を隠した言葉には、何も聞かずウォーレルの意見をぶつけてくる。
ずっと王女として苦しい時も笑顔の仮面を貼りつけてきたフェデルシカはとても戸惑った。これでは本音がバレてしまうではないかと。しかし、同時にウォーレルには隠し事ができないということが嬉しかった。ありのままでいていいと言われている気すらしていた。
だが、だからこそ今回の発言は失敗なのだ。隠し通したいと思っておきながら、隠し事をできない相手に嘘を吐いてしまったのだから。
「フィーを忘れるくらいなら、俺も共に消える」
まっすぐ見つめてくるウォーレルの瞳からフェデルシカは思わず目を逸らし、すぐに自分のとった行動を後悔した。
これではまるで気づいて欲しいと言っているようではないか。
「それは、駄目……」
絞り出すように発した声がひどく震えていて、フェデルシカは咄嗟にぐっと喉に力を込める。
こんなに自分が情けないと思ったのは初めてだった。なんて自分は弱いのだろうか。彼にこれ以上何かを求めるなんて、それこそバチが当たるというのに。
「フィー……話してくれるかい?」
優しく穏やかな声がフェデルシカの心に響いてくる。隠し続けたいと思っていたはずなのに、心のどこかで今の状況にホッとしているのがわかった。
「フィー」
「……」
「フィー?」
「……私、もう長くは生きられないみたいなの」
目の前でウォーレルが小さく息を呑んだのがわかる。フェデルシカは怖くて顔をあげられなかった。
ウォーレルのおかげで予知夢を見なくなってからフェデルシカの体力はみるみる回復していき、誰もがフェデルシカの未来が繋がったことに歓喜した。もちろんフェデルシカもその一人だった。しかし、すぐにその歓喜に影がさす。
国王からの信頼も厚く、幼い頃からフェデルシカの主治医を務めてきた王宮医師がフェデルシカの回復経過を見に来た時にそれは発覚した。フェデルシカの身体は病に侵されていたのだ。
いつからかなどわからない。何故なら、フェデルシカの身体は長年にわたり予知夢を見続けていたことによって、すでに死の一歩前まで近づいていたのだから。それが病のせいなのか、予知夢のせいなのかまでは判別がつかず、皮肉にも身体が回復してきたことによって病が発覚したのである。
その事を知った時、フェデルシカは気づかなかったことを何度も謝り、終いには首を切るとまで言い始めた医師を何とか宥め、一つお願いをした。この事は誰にも言わないで欲しいと。
それはできないと言う医師に、少しでもいいから心配や罪悪感、同情の目を向けられない時間を過ごしてみたい、と医師を困らせるとわかっていながら意地汚い言葉まで使って、黙っていてほしいとお願いしたのだ。
みんながフェデルシカの未来に希望を持ち始めている。その時間が長ければ長いほど絶望させるだろうことはわかっていたのに、フェデルシカは我儘を通した。ただ、普通の女の子として過ごしてみたいがために。
「黙っていて、ごめんなさい」
ウォーレルが時間はたくさんあるからフェデルシカのしたい事をたくさんしよう、と言ってくれた時、凄く嬉しかったのに、凄く寂しかった。
ウォーレルを隣に感じながら過ぎていく楽しい毎日が、とても幸せで、たまに苦しくなった。
まっすぐ見つめてくる青い瞳を見るたびに、心がむず痒くなって、少し罪悪感が芽生えた。
疲れていても自分が眠るまでウォーレルが寝ないことを知って、心が温かくなるのに、ごめんねと何度も謝った。
薄々感じ始めていたのだ。普通の女の子になりたいという願いは無理なのだと。
だって、ウォーレルに『好き』だと一度も言えていないのだから。
「やっぱり俺は、フィーを忘れることはできない」
「私のお願いでも?」
「ああ」
なんであんなお願いを? と一言聞いてくれれば『あなたをいなくなる私に縛り付けたくない』とか何とか言い訳できるのに、ウォーレルは絶対聞いてくれない。偽りの言葉などいらないから本音を言っていいんだよ、と甘く囁かれているようだとフェデルシカは思う。
「俺は何者でもない、目の前にいるフィーが好きだから」
本当は去ってしまう私なんか忘れて、新しい未来へ踏み出して、と背中を押してあげられる人になりたかった。
辛さを隠して、楽しい思い出だけを与えられるような人になりたかった。
大切な人を苦しめないような人になりたかった。
「だから、忘れたくないんだ」
なによりも、躊躇せず素直に好きだと言えるような普通の女の子になりたかった。
「フィー?」
黙ったまま顔を伏せているフェデルシカを心配したのか、ウォーレルの手がフェデルシカの手にそっと触れる。その大きくて温かい手をフェデルシカはギュッと握りしめた。
「……じゃあ私を、ずっと、忘れないで」
ポタリと一粒の雫が手に落ちる。今だに顔を上げないフェデルシカをウォーレルは優しく抱きしめた。繋いでいない方のフェデルシカの手が自分のシャツの胸元をぐしゃりと握るのを感じながら、ウォーレルは何度も何度もフェデルシカの背を撫で続けた。