第九話 「本当のきもち」
本来なら、今日という日は俺にとって最高に嬉しい日になるはずだった。
今日は、月に一度のハッピーデイ、財布の紐も緩みやすくなる、待望の給料日である。
一ヶ月前とは違って同居人が二人も居るため、一人暮らしの頃とは違った生活費の計画を立てなくちゃいけないってのは面倒くさいが、それとしても給料が入るってのは嬉しいもんだ。
しかし、銀行にて通帳記入の手続きを行ったところで、一本の電話が入った。これが、俺の「最高のハッピーデイ」を、見事に打ち砕いてくれたのである。
電話をかけてきたのは大学の友達で、内容は「今夜飲み会に行くから、お前も一緒に来ないか?」というものだった。
以前と違い、家に桜乃が居る手前、断ろうとは思ったんだが、「あと一人メンバーが足りないから、ぜひ来てくれ」と懇願されて、しょうがなく俺は飲み会に行くことにしたのだ。
桜乃に電話して、夕飯は要らないことと、帰りが遅くなることを伝えてから、大学の帰りに飲み会に行ったんだが――
「だだいば〜」
すっかり酔っ払って、やっとの思いで我が家に帰りついたとき、もう時刻は深夜を回っていた。
俺は元々酒には強くないし、今日みたく大量に飲む機会は今まで無かった。二十歳になって、まだあまり経ってないしな。
だというのに、半ば無理矢理に飲まされまくって、すんごい吐きそうだ。世界がぐにゃぐにゃ歪んで、満天の星空はぐるぐる回っている。
当然玄関には鍵がかかっており、俺は一苦労しながらドアノブに鍵を差し込むと、倒れこむように家に入った。
「随分遅かったわね……ってちょっと、お酒臭いわよ」
玄関の電灯を点けながら、パジャマ姿の神楽が出迎えてくれた。どうやら、俺の帰りを寝ないで待ってくれていたようだ。そういえば、桜乃には「飲み会に行く」とは伝えてなかったからな。
いや、厳密に言うと、俺が呼ばれたのは「飲み会」ではなかったんだが。
「大学の奴らに、合コンに呼ばれて、しこたま飲まされてな」
そう、俺が呼ばれたのは合コンなのである。正しくは、合同コンパ。男女数人が、費用を出し合って飲食するあれだ。
電話口で「メンバーが一人足りない」と言われた時点で気付くべきだった。飲み会に人数なんて関係ないだろうに、どうして気付かなかったんだろう。
俺にはもう嫁が居るというのに、そんなことを知らない友人達は、要らん気を回してくれたようで、俺を合コンに誘ったんだそうな。さすがに「俺にはもう小学三年生の嫁が居ます」なんて、友人に話したことはなかったし、誘ってくれるのはありがたいんだけどさ。
夫という身分で合コンに行ったと桜乃や神楽に知れたら、どんなお叱りを受けるか。
「合コン、ですって……!?」
不意に、ぞわっと巻き上がる殺気の渦。しまった、酔っ払って思考力が低下していた! さっきモロに「合コン行ってきた」って言っちゃってるじゃないか!
恐る恐る顔を上げてみると、神楽は憤怒の形相で俺を見下ろしていた。
以前見せたオーラなんかとは比べ物にならないほどの怒りが、彼女を取り巻いている。バックに背負うのも、般若なんて生やさしいものじゃ済みそうにない。阿修羅とか明王とかのレベルである。
「あなた、桜乃様というものがありながら、なんてふしだらな!」
ヒステリックに言われて、思わず俺は正座して縮こまった。
いやはや、ごもっともです。
「いや、俺は飲み会って友達から聞いて」
「飲み会にせよ、桜乃様のために断るのが、夫として当然でしょう? 別に会社の付き合いってわけじゃあるまいし、友達からの頼みくらい、断れるんじゃなくって?」
いちいち、ごもっともです。
「すいませんでした」
俺は浮気がばれて叱られている旦那みたいに、神楽に向かって土下座した。いや、この表現は、あながち間違ってはいないような気もする。
いやいや、合コンに来た女の子たちから「彼女いるんですかー?」とか色々聞かれたが、適当にごまかしておいたんだ。浮気はしていない。断じて、全く、絶対にしていない。
「全く、あなたは桜乃様の夫としての自覚がないの? 桜乃様は、あなたの帰りをずっと待っていたのに、心配そうにしていたのに、そんなことも知らないで合コンだなんて」
くどくど、くどくど。
夜もとっぷり暮れているというのに、それからみっちり一時間、俺は土下座したままで神楽のお説教を聞くはめになってしまった。
かくしてハッピーデイは、桜乃に対する罪悪感と、吐き気と、神楽の説教に締めくくられ、おまけに二日酔いという置き土産を残して過ぎていった。
更に、それだけではなく……
「うう、頭痛え」
窓から差し込む陽光に照らされて、俺は呻きながら目を覚ました。頭がハンマーで殴られるみたいにガンガン鳴って痛いわ、喉の奥が気持ち悪いわで、最悪の目覚めである。
いつもなら桜乃なり神楽なりが起こしてくれるのに、今日はそれがない。それが日常として定着していたため、俺はそのことに違和感を覚えた。
今日は大学に行かなくてもいい日だが、一応平日だ。学校に行ったんだろう、桜乃の姿とランドセルはない。時刻はとっくに正午を過ぎていた。
「あれ、おはよう、神楽」
部屋を見渡してみたところで、テーブルに頬杖をつきながら読書をしている神楽の姿を見つけた。昨日はみっちり説教してくれやがって、俺だって好きで酒飲んだわけじゃないってのに。
俺が声をかけたことで神楽はこちらに振り向いたが、その目は瞬間にぎろっと細められた。どうやらまだ怒っているらしい。
「おはよう、和樹君。もう酔いはさめたかしら?」
「二日酔いだ」
「あ、そ」
自分から訊いたくせに、冷たい口調でそれだけ言うと、神楽はまた本に視線を戻した。うう、居心地悪いな。
とりあえず起き上がって水を一杯飲むと、顔を洗って、寝癖を直し、昨日から着たままだった服を着替えた。
しかし二日酔いってのは、こんなにつらいものだったんだな。もう二度と酒なんて飲むもんか。そんなことを考えながら部屋に戻り、ぐったりと布団に寝そべった。
と、その瞬間。
「そうそう、桜乃様には、昨日あなたがどこに行ってたのか、ちゃんと説明しておいたわよ」
神楽の口から冷たく放たれたその言葉に、俺は思わずびくっと震えた。
え、言っちゃったの? 本当に?
「だんなさまが、苦しそうに寝ています、昨日なにがあったんですか、って訊かれたわ。だから、ちゃんと説明して差し上げたの」
説明した、というくだりが、非常に怖い。
飲み会、合コンについて、どんな教え方をしたのか知らないが、神楽の冷たい口調から察するに、あんまり良い教え方はしていないんじゃなかろうか。
桜乃が俺に対してお説教をしたことは今までないのだが、彼女は怒ると怖いのである。桜乃が学校から帰ってきたら、きっと以前神楽が食らったようなお説教タイムが始まるに違いない。
生活費の一部は昨日の合コン代に消え、二日酔いにもさいなまれ、おまけに二人の同居人からダブルで説教とは、昨日俺を誘った友達に対して、怒りを覚えずにはいられない。
いや、神楽から説教された通り、誘いを断りきれなかった俺も悪いんだろうけどさ。
「怒ってるだろうな、桜乃。やっぱり、嫁として、旦那がこんなに情けなかったらなあ」
俺の呟きに、神楽が一つため息をついた。
「それは当然怒ってるでしょうけど、何も分かってないのね、あなた」
神楽の言葉の真意が分からず、「どういうことだ?」と訊いたが、返事は返ってこなかった。
それから俺は居心地の悪いまま、適当にごろごろしながら過ごした。
時間が経てば経つほど、不安と恐怖が押し寄せてくる。
とにかく謝って謝って謝りぬいて、桜乃に許してもらおう。土下座だって何だって、必要とあらばやってやる。
そう決心したところで、不意に玄関のドアが開いた。俺は思わず背筋を伸ばして正座してしまう。
「ただいま帰りました」
いつも通り、丁寧な桜乃の声。口調も別に怒った風ではない。
「おかえりなさいませ、桜乃様」
「お、おかえり、桜乃」
ひょっとして怒ってないんじゃ? と一瞬思ったが、俺の「おかえり」を聞いて、桜乃はやや乱暴にドアを閉めた。
うん、こりゃもうメッチャクチャ怒ってる。
「それじゃ桜乃様もお帰りになったことだし、私はお買い物でも行ってくるわね」
これからマンツーマンの説教タイムが始まるのを見越してか、神楽がそう言いながら立ち上がった。そのまま枕元に置いてあった俺の財布をむんずと掴むと、すたすたと外へ出ていく。
確かに神楽が居ると俺も謝りにくいが、こういうときに変に気を回してもらうのも心地が悪かった。
桜乃は部屋に入ると、無言でランドセルを置いて、俺の方に顔を向けた。その表情は、怒っているような、悲しそうな、つらそうな――神楽に嫉妬していたときの表情と同じだった。
「昨日はすまん、桜乃!」
そんな表情を見た俺は、畳に頭をこすりつけながら謝っていた。神楽のときみたく、言い訳の一つも付けないで。
こういうときの謝罪の言葉ってのは、案外自然に出るもんなんだな。
桜乃は少しだけ黙っていたが、なりふり構わず土下座している俺の前に座り、口を開いた。
「だんなさま、昨日「ごうこん」っていうのに行ってたんですよね? 今朝、かぐちゃんから聞きました」
弱々しくて、どこか悲しそうな桜乃の声を聞いて、本当に昨日のことを後悔せずにはいられなかった。彼女を幸せにしてやると誓ったのに、友達からの誘いとはいえ、断れなかったことに罪悪感を覚えた。
友達からの誘いだから仕方ないとか、飲み会と聞いていただけで合コンとは知らなかったとか、そんなものは言い訳にもならない。桜乃の表情を見て、声を聞いて、ようやくそのことに気が付いた。
「すまん、本当にすまん! 桜乃は俺の嫁だってことに自覚を持ってるのに、俺はお前の夫である自覚が足りてなかった! 許してくれ!」
小学生相手に土下座する大人という図は、はたから見れば情けないの一言に尽きるだろう。実際、本質的に情けないんだが、そんなことは気にも留めず、俺は更に頭を下げた。
しばらく静寂が部屋を包んだ。
「……ちがうんです、だんなさま」
その静寂を破った桜乃の声は、涙声だった。一体どうしたことかと、俺はぎょっとして顔を上げる。
桜乃は正座したまま、今にも泣き出しそうな、痛々しい表情で、俺をまっすぐに見つめていた。
違う、というのは、一体どういう意味なんだ?
俺の心中を察したように、桜乃は続けた。
「桜乃は、だんなさまのお嫁さんです。だけど、お嫁さんだからってだけじゃありません」
お嫁さんだから、だけじゃない?
桜乃の瞳から、大粒の涙が流れ落ちた。しかし桜乃はそれを拭いもせず、俺を見つめたまま視線をそらそうとしない。
「だんなさま、あの夜言ってくれました。桜乃を、幸せにしてやる、って」
「き、聞いてたのか?」
桜乃が部屋の掃除をしてくれた日の夜、俺はそう誓った。自分の決意を確認するように、声に出して、眠っている桜乃に向かってそう言った。
面と向かっては言えないくらい恥ずかしい台詞だったが、まさかあの時桜乃が起きていたなんて。しかし、あの言葉を聞かれていたと分かっても、不思議と「恥ずかしい」という感情は浮かんでこなかった。
「桜乃、ちゃんと聞いてたんですよ? とっても嬉しくって、顔がにやけちゃいそうで、だんなさまに起きてるのがばれないように、寝返りの真似しちゃいました」
涙を流しながら、桜乃は笑った。でもその笑顔は、とても痛々しい、つらそうな笑顔だ。
「桜乃は、だんなさまのお嫁さんです。だから、今こんなこと言うのは、何だか変だと思います。でも……」
言いかけて、視線を落とす。その小さな口は、横に結ばれた。
神楽が俺に「何も分かっていない」と言った意味が、分かったような気がした。
意を決したように桜乃は顔を上げ、精一杯の笑顔を作りながら、しかし大粒の涙をあふれさせながら、
「桜乃は、だんなさまのことが、好きです」
俺に、告白をした。
「とっても優しくて、おっきくて、ちょっとだらしないところはあるけど、そんなところも全部全部、桜乃は、だんなさまのことが、大好きです」
そうだ、神楽の言う通りだった。俺は今まで、何も分かっちゃいなかったんだ。
桜乃が料理を頑張って覚えようとしていたのも、神楽と俺が仲良さそうにしていたことに嫉妬したのも、毎日仕事が有るかどうか訊いてきたのも、そして昨日のことも、全部。
俺の嫁だから、そういう立場だからって理由だけじゃ、なかったんだな。
ただ純粋に、俺のことが好きだから。
「桜乃っ!」
俺は思わず、桜乃を抱きしめていた。
「ごめんな、桜乃。本当に、ごめんな」
昨日のことに対してなのか、彼女の気持ちに今まで気付いてやれなかったことに対してなのか、それとも他の何かか、何に対して謝っているのか、自分でもよく分からなかった。
しかし桜乃は俺の言葉を聞いて、声を上げて泣きはじめた。初めて俺のところに来たときと同じように、俺に顔をこすり付けながら。
これ以上、俺が言うべき言葉はなかった。桜乃もまた、これ以上言うべき言葉はない。
俺の心には、まだ一つ、引っかかりがあった。しかし今は、そんなものは気にしないで、桜乃の想いを受け止めてやろうと、そう思った。