第八話 「体にも、心にも」
俺と桜乃との生活に、神楽が加わって五日が経った。
今日は祝日で、学校もバイトも休みである。こういう日は、本来なら家でぐうたら過ごすのだが、今日は三人でお出かけすることになった。
俺は神楽の車の後部座席に桜乃と二人で座り、ジュースを飲みながら外の景色を見ていた。雲一つない青空の下、車は舗装された山道を、上へ上へと進んでいく。
向かう先は、市立の自然公園だ。
面倒だと思わない、と言えば嘘になる。正直、休みの日くらいは家でごろごろしていたい。もっと長く寝ていたい。
しかし、桜乃のお願いなんだから、断ろうにも断れない。
俺は運転席の神楽を睨んだ。こいつが余計なことを言うから、この絶好の睡眠日和に、二度寝も出来ずにいるんだ。
どうして車で外出することになったのか、ことの経緯は今日の朝食時にさかのぼる。
「だんなさま、今日はおしごと、おやすみでしたよね?」
トーストを口に運びながら、いつものように桜乃が訊いてきた。
今日は祝日で、学校もない。
たまには祝日にバイトの休暇を当てても、罰はあたらないだろう。出勤している他のバイトメンバーには申し訳ないが、まあ俺がいない分、地獄を堪能して欲しいと思うことにした。
「うん、店長には「祝日に休むな」って怒られたけどな」
俺の返事を聞いて、桜乃の顔がぱっと輝いた。本当に嬉しそうに、にこにこと笑う。
俺もつられて笑顔になりそうになったところで、横から小さなため息が聞こえてきた。呆れ顔の神楽である。彼女はテーブルに頬杖をつきながら、俺をじっとりと見つめていた。何だよその目は、俺に何か言いたいのか。
「でも、どうせまた家でごろごろしてるつもりなんでしょ? たまには外に出なさいな。健康に悪いわよ」
ええい、うるさいな、お前は母親か。寝るのだって充分健康的じゃないか、それのどこが悪い。
「いつも外出はしてるだろ? 学校の行き帰りと、バイトの行き帰りに」
俺も負けじと言い返したが、「またそんな子供みたいな屁理屈こねて」と鼻で笑われてしまった。くっそう、別に良いよ子供でも! 子供みたいな屁理屈で結構だよ! ごろごろさせてくれ!
と思いつつも、さすがに桜乃の前でそんなことを言うと格好がつかないので、喉の奥で唸るだけになったけど。
「かぐちゃん、お外に出ないと、健康にわるいの?」
ふと神楽の言葉を聞いていた桜乃が、首をかしげながら質問した。その瞬間、神楽の口元がにやりと歪んだのを、俺は見逃さなかった。
「ええ、そうですよ。すぐ病気になってしまう弱い体になってしまいます。桜乃様からも、ひとこと言って下さいませ」
さっきの不穏な笑みは、これだったのか、この野郎! 桜乃を使うなんて卑怯だ!
桜乃、世の中には、お仕事やらテレビゲームやらその他の理由やらで家に引きこもってる人は沢山いるんだよ? おうちでゆっくりしてたって大丈夫なんだよ? だからお願いだ、旦那様に二度寝をさせてくれ。
などとは、口が裂けても言えやしない。いや、実際言おうとはしたんだが、桜乃がうるんだ目で俺をじっと見つめているとあっては、とてもじゃないが言い出せない。
「だんなさまが病気になったら、桜乃はとっても悲しいです。だからだんなさま、今日はどこかにお出かけしませんか?」
更にうるうる。それに押されて、俺は思わずたじろいだ。
だあ畜生、桜乃も卑怯だぞ。そのうるうる攻撃をされてしまっては、ノーと答えれるわけがないじゃないか。
俺が完全敗北したのを見て、神楽は勝利の笑みを浮かべた。
そういうわけで、俺は渋々ながら、外出することになってしまった。
出かけるにしても一体どこに行くかという問題に対して、桜乃が「ピクニックに行きたい」と提案したので、こうして車を出してもらっているわけである。
近所にある公園じゃ楽しくないし、どうせ行くなら大きな公園に行こうということになったのだ。
神楽の話によると、向かう先の自然公園は、かなり規模の大きな公園らしい。
敷地面積は超が付くほど広大で、ピクニック広場の他に、バーベキュー広場、アスレチック広場、テニスコート、サイクリングロードなんかもあるそうで、その他多数設置されている施設を回るだけでも随分かかるんだとか。
山の上という立地条件ながら、デートスポットとしても有名で、休日には家族連れだけでなく、カップルもよく訪れるらしい。
車を運転しながら、神楽は俺にそう説明してくれた。
「楽しみですね、だんなさまっ」
よほど楽しみなんだろう、桜乃はずっと笑顔で、わくわくを抑えきれないといった感じだ。そんな様子を見ていると、やっぱり子供なんだなあと、今更ながら思ってしまう。
自宅で寝ていたいのは山々だが、桜乃は喜んでるし、これはこれで良いか、と思うことにした。
「うおおお、すげえええ!」
駐車場からの眺めを見て、俺は思わず感嘆の声を上げた。さっきまで、渋々出てきたとか自宅で寝ていたいとか言ってたけど、ごめん、やっぱ取り消すわ。
駐車場の広さもさることながら、公園の広さは俺の想像をはるかに超えていた。
実家の敷地が広いってこともあって、たかが公園だろと過小視していたが、この規模はそこらの遊園地なんかとは比べ物にならない。
眼前に見える緑いっぱいの広場に、色とりどりの花が散りばめられた花園、遠くには蛇のようにぐねぐねと曲がる、長いボブスレー型の滑り台も見えた。
おまけに空気も綺麗で、呼吸するたびに肺の中がすっと洗浄されていく感じがする。
「うわぁ、すごーい!」
俺と同じく、桜乃も目をきらきら輝かせながら辺りを眺めている。
「どうかしら、来て良かったでしょ?」
車から降りながら、神楽が言った。しかし俺も桜乃も、もはや神楽の言葉なんかほとんど聞いちゃいない。
「桜乃、ちょっとあっち行ってみようぜ!」
「はいっ、だんなさま!」
「ああ、ちょっと、荷物降ろすのくらい手伝いなさいよ!」
神楽が慌てた様子で声を張り上げたが、俺も桜乃も完全に聞き流して走り出した。
すまん神楽、荷物を運び出す役目はお前に一任させてもらう! 頑張って弁当の準備をしてくれたまえ!
まあ、どこに何があるかもよく分からないまま走り出した結果は、すぐに立ち止まって辺りを見回すだけになり、結局神楽に二人そろってお叱りを受けることになってしまったが。
とりあえず昼食をとろうということになって、ひとまず俺たちはピクニック広場に足を運ぶと、適当な場所にレジャーシートを広げて弁当を取り出した。
レジャーシートはさすがに持ってなかったので、ここに来る途中に買ってきた。桜乃のチョイスで、くまさん柄のかわいらしいやつである。
周りには家族連れやカップルなんかが沢山居たが、それでも座れるスペースには余裕があった。
「この卵焼き、桜乃が作ったんですよ、だんなさま」
神楽が先生役になってからというもの、桜乃の料理の上達ぶりは驚異的だった。独学で頑張っていた頃は、何を作っても多少ぐちゃっとしてたり、たまに失敗もあったりしたのだが、今はあの頃とは比べ物にならない。
桜乃が差し出してくれた卵焼きも、本当に九歳児が作ったのかと疑うくらい、ばっちり卵焼き。正真正銘、完璧な卵焼きっぷりである。
「うん、美味いよ、桜乃。頑張ったな」
「えへへ」
頭を撫でてやると、桜乃は照れ笑いを浮かべながら、少し赤くなった。神楽の視線がちょっと気になったが、気付かないふりをして黙殺する。
しかし、こうして外で弁当を食べるなんて、どれくらいぶりだろう。
家柄がこんなだし、親父もおふくろもこういう場所には連れて行ってくれなかった。こうしてピクニックに行くなんてことは、今思えば全然なかったなあ。
きっと桜乃も似た様なもんだろうな。彼女の年齢から考えても、家族との思い出なんて、ほとんどないんじゃなかろうか。
だったら今回が良い機会だ。良い思い出になるように、はしゃいで、はしゃいで、はしゃぎまくってやる。
本音を言えば、俺自身、童心に帰って遊びたいと思ったりもしてるんだけど。
早く遊びに行きたいのは桜乃も同じだったようで、俺たちは昼食を早々に終わらせると、それから公園案内のパンフレットを見ながら、各施設を歩いて回った。
花畑で花を摘んだり、駐車場から見えていた、全長五百メートルを超えるロングスライダーを何度も滑ったり、草スキーを楽しんだり、サイクリングロードで競争をしたり――
楽しい時間が過ぎるのは早いもので、いつの間にか空は夕焼け色に染まっていた。
遊び疲れたのか、桜乃は俺の背中で寝息を立てていた。疲れたと息を切らしていた桜乃をおぶっていたら、いつの間にか、そのまま寝てしまっていた。
俺も正直、くたくたである。うーん、ちょっとはしゃぎすぎたか。しかし、バイトで疲れるのとは違う、何となく心地良い疲れだった。
「いやー、疲れた疲れた」
こりゃ明日は筋肉痛だな。学校もバイトもあるし、明日は非常につらい一日になりそうだ。
「来るときは嫌がってたくせに、結構楽しそうだったじゃない」
神楽が、俺を見ながらくすくすと笑った。全く、毎度毎回一言多いなお前。
「まあな」
仏頂面で短く答えたが、正直神楽には感謝している。俺は勿論、桜乃もすごく楽しそうだったし。
妻という役柄ゆえに、家に居てもらうことが多いしな。こうしてのびのびと遊ぶのが、本来の小学生の姿だろう。
「ほんと、桜乃様もあんなに嬉しそうで……藤宮に居た頃とは大違い」
俺はハッとなって、神楽のほうに顔を向けた。一瞬だけ悲しそうな顔が見えたが、それはすぐに消えた。
今なら訊ける、そう思った。
「藤宮に居た頃の桜乃って、どんな風だったんだ?」
むしろ、訊くなら今しかない。そう思って、俺は口を開いた。
神楽は一瞬、口を横に結んで視線を落としたが、すぐに持ち直すと、
「藤宮に居た頃の桜乃様は、いつも何かに怯えるみたいに、不安そうな顔をしていたわ。見てるこっちがつらくなるくらい、ね」
と、ゆっくりと語り始めた。
「桜乃様は、今から五年前、四歳のときから、毎日厳しく礼儀作法を叩き込まれてたわ。少しでも間違えば平手が飛ぶ。藤宮の旦那様も奥様も、桜乃様のことは、嫁にやるための道具としてしか見ていなかったみたいね」
四歳から、礼儀作法を叩き込まれる、だって?
俺はそれを聞いて、愕然とした。俺が四歳のときなんか、鼻水垂れながら家中を走り回って、ガラス戸を割ったりして叱られたりしてたのに。とてもじゃないが、信じられない。
俺は二十歳になってもこんな調子だしな。どれほどつらいことなのか、想像もつかない。
「私は、その頃から桜乃様のお世話をしていたわ。本当に、毎日つらそうで、悲しそうで……私の前では、たまに笑顔を見せてくださっていたけど、今日みたいな笑顔とは違う、どこか痛々しい笑顔だったわ」
神楽がぎりりと奥歯を噛んだ。
俺のところに来てすぐの頃の桜乃は、妙にびくびくしてて、つらそうで、堅苦しくて、痛そうだった。あれが、五年間も続いていたのか。
少し優しい言葉をかけてやったら、声を上げて泣きじゃくった桜乃。俺の短い言葉だけで、簡単に崩れてしまうほどに、心を削っていた桜乃。そんな暮らしをしてきたのなら、そんな桜乃になって当然だ。
神楽もきっと、それに劣らないくらい、つらい思いをしてきたんだろうな。語る彼女の表情からも、桜乃の付き人という地位からも、神楽の話を聞いた今、それは簡単に予想がついた。
「思えば、桜乃様も私も、お互いを支えにしてたのかもしれないわね」
「だからお前は、桜乃を追いかけてきたんだな」
会うなり突然腕をひねられたのも、俺が桜乃の支えになってやれていないと思われたからなのかもしれない。
うちに居候することになったとき、神楽が「良かった」と呟いたのも、桜乃が笑顔を見せていたから、俺が桜乃の新しい支えになっていることが分かったから、そう言ったんだろう。
ひょっとすると、桜乃の支えという地位を取って代わられた俺に対する嫉妬も有ったのかもしれない。
自分では、まだ「桜乃の心の支え」になれているのか、あんまり自信がないんだけど。
「そういえば、あのときのこと、あなたにはちゃんと謝ってなかったわね。本当に悪かったと思ってる」
「もう気にしてねえよ」
あれからもう五日も経ってるし、今になってもグチグチ言うほど、俺は意地汚い人間じゃない。
神楽は俺の言葉ににっこりと笑うと、「ありがとう」と小さく言った。その笑顔は、とても優しいものだった。きっとこれが、本来の神楽に違いない。
「でも、良かったわ。桜乃様が笑って暮らせるようになってて。和樹君、あなたのおかげね」
いきなりそんな風に褒められると、さすがに照れてしまう。
どうやら顔に出てしまったようで、神楽は俺を見ながらくすりと笑った。いちいち卑怯な奴だな、全く。
それから帰路についたとき、さすがに俺も疲れ果てていたため、桜乃と一緒に後部座席で眠ってしまった。
眠る前に、神楽がもう一度「ありがとう」と言ったのを、俺は聞き逃さなかった。
少しサブタイトルが分かりづらいかもしれないです。
サブタイトルの後に続く言葉は、読者様のほうで、自分にしっくりくるモノを当てて貰いたいと思って、わざと「体にも、心にも」までで切ってます。
もうちょっとセンスのあるサブタイトル付けることが出来れば良いんですけどねー(;´д`)
他に思いつかないし、何か他に言葉入れても語呂が悪くなっちゃいそうだったんで、思い切ってぶった切りました。スイマセン。