第七話 「モヤモヤして、ぐるぐる」
神楽が家に来た翌日、土曜日。
この日の朝食は、今まで以上に素晴らしいものになった。
今まで食事は桜乃に作って貰っていたが、やはり九歳児に包丁握らせるのは危なっかしいということで、昨日夕飯を作るときから神楽に選手交代してもらったのだが、いやはやその腕前の素晴らしいこと。
やはり付き人だっただけあって、料理くらいはお茶の子さいさい。有り合わせのものだけで作ってあるこの朝食も、旅館で出されてもおかしくないほどの見目の良さに美味さである。
顔も良ければスタイルも抜群、おまけに料理も上手いとは、何というか良い嫁さんの見本みたいな奴だ。昨日の一件なんか、すっかり忘れてしまいそうになる。
「いやあ、神楽って料理上手いんだな」
「褒めたって何も出ないわよ」
「いやいや、本当、お前絶対良い嫁さんになるよ。乱暴さえしなけりゃ、だけど」
「全くもう、何言ってるんだか。それに、一言多いわよ、和樹君」
口ではそう言っているが、どこか嬉しそうな神楽。いやしかし、本当に美味いの何のって。これなら、朝からご飯三杯くらいは余裕でいけるね。
「もう、そんなに急いで食べなくっても。ほらほら、こぼしてる。お行儀悪いわね」
「あ、悪い悪い」
これだけ美味い料理を前にしたら、もう行儀の良し悪しなんかどうでもいい。喉が渋滞を起こそうが、お構いなしに次のおかずを口の中に放り込む。そんな俺の様子を見ながら、神楽はまた少し笑った。
しかしそんな神楽とは逆に、俺と神楽のやり取りを見ていた桜乃は、漬け物をぽりぽりかじりながら、ほんの少しだけ不満顔になっていた。
「桜乃も、お料理がもっと上手だったらなぁ」
自分の仕事を一つ取られて不満なんだろうか。昨日の夕飯のときも、「桜乃がつくります!」って意固地になってたもんなあ。
「桜乃も、神楽に先生になってもらえば、すぐに上達するさ。元々、料理は上手なんだしな」
年齢から考えれば、桜乃の料理の腕前だって大したもんだ。自分で料理の本買ってくるくらい、向上心もあるし。しかし俺のフォローは功をなさず、桜乃は不満そうなまま。
ううむ、どうしてこんなに意地を張ってるんだろう。今までこんなことは無かったんだけどな。
何か言葉をかけてやろうとは思うんだが、良い言葉が見つからない。
旦那として情けないことではあるが、桜乃に何と言えば納得してもらえるか、てんで思いつかないのである。
「それじゃ、今日の昼食からは一緒に作りましょうか、桜乃様」
困っていたところで、神楽からの助け舟が出た。とはいえ、神楽自身も困ったような表情をしているが。
桜乃は少しの間黙っていたが、渋々といった感じで、こくんとうなずいた。うーん、やっぱりまだ不満が残っているようだ。
俺も何か言おうかと思ったが、「桜乃はまだ子供だから、包丁持つのは危険」なんて言ったら、またむくれるだろうしなあ。気の利いた言葉の一つもかけてやれないってのは、何だかもどかしくて嫌になる。
「そういえばだんなさま、今日はおしごと、あるんですか?」
俺が何を言おうかと迷っていたところで、桜乃が話題を振ってくれた。良い言葉が見つからずにいたわけだし、正直ありがたい。
「うん、今日は仕事行かなきゃ」
「そですか……」
ああ、頼むからそんなにしょんぼりしないでくれよ。何だかバイト行くのが悪いような気がしてくるじゃないか。俺だって、土曜のファミレスなんて戦場には、出来れば行きたくないんだよ。正直、家でごろごろしていたい。
「神楽と一緒に、しっかりお留守番しててくれよ、桜乃。なるべく急いで帰ってくるからさ」
なるべく優しい口調で言ったが、やはり桜乃は寂しそうにうつむいている。
俺が家を出るときは決まって寂しそうな顔をするのだが、今日はいつも以上にしょげ返っている気がする。
神楽が来たことで、寂しい思いをすることもなくなると思ってたんだけどな。
「桜乃?」
「あ、はいっ!」
もう一度声をかけて、ようやく桜乃が顔を上げた。
ただ不満があるだけとは、ちょっと違う気がする。今日の桜乃は、ちょっとおかしい。昨日はまあ、夕飯を神楽に作ってもらうことになったときは確かに不満そうだったけど、それ以外は普段通りだったんだけどな。
しかしどれだけ考えても、結局理由は分からないまま、俺はバイトに行く時間を迎えた。
桜乃は朝食後も相変わらずで、口数は少なかったし、俺もそんな桜乃に対して、どう声をかけたものか分からなかった。神楽も多分、俺と同じ心境だろう。
昨晩から今朝にかけて、特に何かあったわけでもないしなあ……
さすがにバイトを休むわけにはいかないし、俺は重い空気の中、家を出ることになった。
ファミレスは、やっぱり今日も満席だった。
繁盛してるのは良いことだが、どうにも桜乃のことが気になって集中できない。
俺、何か言ったかな。知らないうちに桜乃を傷つけたりしたんだろうか。そう思って、とりあえず朝の会話を思い出してみたが、うーん、別にこれと言った内容じゃないと思うしなあ。
やっぱり、料理当番を神楽にしたのがまずかったのか。自分一人で料理を作りたい、っていう強情な部分があるのだろうか。
とはいえ、いつもは俺の言うことなら、大抵素直に聞いてくれる子だしな……桜乃と神楽は藤宮からの付き合いだから、神楽に変な敵対心持ってるわけじゃないだろうし。
ああ、考えれば考えるほど分からない。
「おい長谷川、動き止まってるぞ!」
「ははははいっ! すいませーん!」
店員に怒鳴られて、俺は尻に火が点いたみたいに走り出した。全く、落ち着いて考え事も出来やしない。この超が付くほど忙しいときに、落ち着いて考え事してる暇なんて、元々ないんだけど。
夜が更けて、夕飯を食べに来る客も少なくなったところで、ようやく俺は戦場から解放された。毎週のことながら、やっぱり土日と祝日の外食率は異常なもんである。
あれから色々と考えてはみたものの、やっぱり桜乃の不満がどこから来ているものなのか、さっぱり見当が付かなかった。色々考えた、なんて言っても、そもそも考える材料が少なすぎて、いくつかの考えが延々とループしてただけなんだが。
ほんっと、心当たりがなさすぎるんだよなあ。
「帰ったら機嫌良くなってる、とかだったら良いんだけどな」
夜空を仰ぎ見ながら、呟く。
しかし俺の小さな祈りは、神様には届いてくれなかったようで、
「あっ、お、おかえりなさいませ、だんなさま……」
帰るなり、俺に重苦しい空気が圧し掛かってきた。玄関には、桜乃と神楽の二人が出迎えに来ていてくれた。
桜乃の表情は相変わらず沈んだままで、声も小さい。目線も俺の顔ではなく、靴の方に落ちている。
「お帰り、和樹君」
神楽も困り顔だ。「どういうことか分かったか?」と目で合図を送るが、神楽は小さく首を横に振るだけだった。
「と、とりあえず、飯出来てる?」
俺は、充満する重い空気を払うように切り出した。
「ええ、今日は桜乃様も一緒に作ったのよ。ね、桜乃様?」
神楽が笑顔を――ちょっと苦い笑顔だったが――作りながら、桜乃の両肩にぽんと手を置いた。桜乃の機嫌を取ろうとしているのだろう。この分では、留守番中も胃が痛くなる思いだったに違いない。
しかし、桜乃は小さくうなずいただけだった。いつもなら「はい! 桜乃はがんばって、お夕飯をつくりました!」と元気の良い返事がくるはずなんだが。
「桜乃も一緒に作ってくれたんなら、きっと朝飯より美味いんだろうな。早速頂くよ」
「いえ、あの」
俺のおべっかに、ようやく桜乃が顔を上げた。しかし、すぐにまたうつむいてしまう。
「な、なんでも、ないです」
それだけ言うと、桜乃はたたたっと部屋に向かい、いそいそと食事の準備を始めた。
一体どうしちゃったんだよ、桜乃……!
「こりゃあ重症だな」
「本当、私もどうすればいいのか」
神楽とぼそぼそ会話しながら、俺も部屋に入った。その様子を見ていたのか、横目に見えた桜乃の瞳に、少しだけ何かの感情が宿った気がした。
一瞬で消えてしまったため、それが何なのか、考える暇もなかったが。
夕飯を食べている最中も、食べ終えても、桜乃はずっとそんな調子だった。このままじゃ、きっと明日になっても状態は変わるまい。
「それじゃ、先にお風呂頂くわね」
食器の片付けを終わらせた神楽が、小さなため息をつきながら立ち上がる。藤宮から持ってきていた自分の着替えをキャリーバッグから取り出すと、脱衣所に姿を消した。
それを確認したところで、俺は隣に座っている桜乃に向かって、勇気を出して口を開いた。
「桜乃」
「は、はい、だんなさま?」
「一体どうしちゃったんだよ。今日のお前、何だか変だぞ」
何だか本人から直接訊き出すのは気が引けたが、桜乃は俺の妻なんだ。悩みが有るなら聞いてやる、困ったことが有ったら手を貸してやる。それが旦那として、当たり前のことだろう。
「神楽に食事任せたのが悪かったのか? それだったら、俺だってお前のことが心配で」
「ち、ちがいますっ!」
桜乃は大きくかぶりを振りながら、俺の言葉をさえぎった。
「ごめんなさい、だんなさま、ご心配をおかけしてしまって」
謝る声は、震えている。大きな瞳には涙が溜まって、今にもこぼれ落ちそうだ。
何だか、桜乃が初めて家に来たときと同じ感じがした。ひょっとして、またどうしようもないことで自分を責めているんじゃないか。
そんなことだけは、もうさせたくない。
「待て待て、俺は別に説教をしてるわけじゃないんだ。桜乃が謝ることは――」
言いかけた言葉を止めたのは、いきなり桜乃が俺に抱きついてきたからだ。昨日も抱きつかれたが、今回は服をぎゅっと掴んで離そうとしない。
思わずどぎまぎしてしまい、とりあえず剥がそうと桜乃の肩を掴む。
が、その時。
「でも、ダメなんです。朝だって、なんだかかぐちゃんの方がお嫁さんみたいで、かぐちゃんは桜乃よりもずっと大人だし、いろんなこと上手だって桜乃は知ってるけど、でも!」
桜乃は堰を切ったように、俺に思いをぶちまけた。
「何だかモヤモヤってして、ぐるぐるしてて、ダメなんです、ごめんなさい、ごめんなさい!」
謝りながら、桜乃は嗚咽をもらした。それに合わせて肩が震える。
そうか、そうだったのか。彼女の思いを聞いて、俺はようやく気が付いた。
桜乃は、神楽に嫉妬してたんだな。
朝の会話のときもそう、さっきの玄関での内緒話もそう。俺と神楽が仲良くしていることが、俺の嫁として自覚を持っている桜乃には耐えられなかったんだろう。
おまけに、神楽は大人の女性で、桜乃よりもずっと色々なことが出来る。料理をはじめとして、全てにおいて劣っていると感じてしまうのも無理はない。
自分の夫と、仲のよい間柄とはいえ自分以外の女が仲良くしている様子に嫉妬し、自分の価値がなくなるかもしれないという恐怖と不安を、この小さな体に抱え込んで、きっと辛かったに違いない。話そうにも、神楽が居た手前、言い出せなかったんだろう。
桜乃の心を知った今、かけてやるべき言葉に迷うことはない。
「桜乃、お前は俺の嫁だ。だから、安心しろ」
そう言って頭を撫でてやると、桜乃は声を上げて泣き始めた。
「俺と神楽の仲が悪かったら、嫌だろ? でも、どんだけ仲良くしてたって、お前は俺の嫁なんだから、何も心配しなくて良いからな」
「はい、ごめんなさい、ありがとうございます、だんなさま……!」
泣きじゃくる桜乃の頭を優しく撫でてやりながら、俺は問題が解決した安堵感に、ふぅと一つ息をついて顔を上げた。
っとその瞬間、体がびくっと跳ね上がって硬直する。
いつの間にか風呂からあがっていた神楽の姿が、そこにあった。その目は細められて、じっとりと俺を睨んでいる。嫌な汗が首すじを伝っていった。
「いや、これは別に、何もやましいことをしようとしていたわけでは」
喉から搾り出すように言った俺を見て、桜乃も神楽に気付き、ぱっと俺から離れた。
「和樹君……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「何がだよ」
と言いつつも、どういう意味なのか、しっかり分かっている。
神楽は更にじっとり。俺も汗がじっとり。
神楽の言葉の意味するところが分からないのか、桜乃はきょとんとしていたが、不意にクスッと笑った。涙のあとは残っているが、ようやく本日初めての笑顔を見せてくれたのだ。
そんな桜乃を見て、神楽は一つため息をつくと、
「まぁいいわ」
桜乃様の機嫌も良くなったみたいだし、と目で言いながら、ようやく細めていた目を元に戻した。
全く、蛇に睨まれた蛙ってのはこのことだ。神楽の眼光から開放された俺は、脱力したように、大きく息を吐き出した。
しかし焼きもちを焼くとは、小学生とはいえ桜乃も女の子なんだなあ。なんて、今更ながら思ってしまう。
「それじゃ桜乃も、おふろ入っちゃいますね」
にこっと俺に笑いかけて、桜乃は着替えを両手に抱えると、とてとてと風呂場に向かっていった。その姿が今まで以上に愛おしいものに思えて、俺も思わず微笑んだ。