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最終話 「幸せを『   』に」

「たすけて、だんなさま!」

 激しい雨音にかき消されそうなほど、か細くて小さな悲鳴を聞いて、俺は足を止めた。聞こえたのは、公衆トイレの方からだ。

 俺の頭の中は、ほとんど真っ白だった。桜乃の顔だけが、次々と浮かんでくる。

 笑った顔、怒った顔、好奇心に目を輝かせている顔、泣いている顔。色々な桜乃の表情が、俺の頭の中を埋めていく。

 公衆トイレのタイルに足を滑らせそうになりながらも、俺は紳士用トイレの中に駆け込んだ。

「桜乃っ!」

 俺がそこで見たもの。

 それは、服を乱暴に破られ、壁に追い詰められている桜乃の姿と、それを取り囲んでいる男四人の姿だった。

 きっと殴られたんだろう、桜乃の顔は真っ赤に腫れ上がっていて、切れた小さな唇からは血がにじんでいた。そして、大粒の涙を止めどなくあふれさせている。

「だんな、さま……」

 力のない桜乃の声を聞いて、俺の中で、何かが切れて、爆発した。これだけ心の底からブチ切れたのは、二十年生きてきた中でも初めてなんじゃないか。

「やばっ!」

「何で人が居るんだよ、こんな時間に!」

 四人のうち二人、少し太った眼鏡の奴と、背の低い猿顔が、ほとんど同時に口を開いた。

「お前ら、俺の可愛い嫁に乱暴な真似しやがって! 全員ぶっ殺してやる!」

 桜乃の前で思わず汚い言葉を使ってしまったが、それを悪いことだと思えるほどの心の余裕はなかった。こんな光景を目の当たりにして、冷静でいられるわけがない。

 腕っ節に自信があるわけじゃない。むしろ、喧嘩は弱い方だと思う。なんたって、神楽に簡単に腕を捻られるくらいだしな。

 でも、そんなことは頭になかった。返り討ちにあうかもとか、そういう弱い言葉は全く浮かんでこなかった。

 俺は、驚き慌てる四人組のうち一人、小太りの眼鏡の奴に向かってがむしゃらに駆け出すと、有無を言わせず殴りつけた。眼鏡が飛んで床に落ち、そいつは不明瞭な呻き声を漏らして、床のタイルに突っ込んだ。

 更にその近くに居た、ひょろりと背の高い男の胸ぐらを掴むと、さっきの奴と同じく顔面に一撃を入れてやる。盛大に鼻血を噴きながら、そいつも床に尻餅をついた。

「何だよ、てめえ!」

 長い髪をオールバックにした人相の悪い男が、唾を飛ばしながら叫んだ。何だも糞もあるか、さっき言った通りだ。

「俺は、桜乃の夫だ!」

 言いつつ、今度は小柄な猿顔に蹴りを入れた。右脇腹にミドルキックをモロに受けた猿顔は、悶絶しながら床を転げまわる。クリーンヒットした感触が有った。

 突然俺が現れたことで動揺しているのか、それまで連中からの反撃はなかった。

 が、先ほど眼鏡を飛ばされた小太り男が、立ち上がって俺にタックルをしかけてきた。避けきれずに、抱きつかれるようにして床に転がる。続いて、背の高い奴が、倒れた俺の顔面めがけて蹴りを入れてきた。

 さすがにたまらず、腕で顔を覆うようにしてガードするが、キックは止まらず腕が(きし)んだ。くっそ、無茶苦茶やりやがって。

「だんなさま、負けないで!」

 不意に桜乃の声援が飛んできて、俺の体に力がみなぎるような気がした。

 キックの合間に、俺にしがみついている小太りを振り切って、顔面にひざを入れて強引に引っぺがすと、体勢を整えながらノッポの蹴り足を掴んで、思い切りぐいっと引っぱった。

 雨で濡れているタイルは滑りやすく、ノッポは大きくバランスを崩した。背中からどうと床に倒れたのを確認して、俺はすぐさま立ち上がると、相手が立ち上がる前に、先ほどの猿顔と同じく右脇腹に思い切り蹴りを入れた。

 つま先をめりこませるようにして放った蹴りは、ノッポの体をごろごろと転がし、そいつも呻きながら床に突っ伏した。

 格闘技に詳しいわけじゃないが、右脇腹に打撃を当てると肝臓に当たりやすく、大ダメージを期待できると聞いたことがある。日常には役に立たなさそうな知識だが、どうやら効果はあがったようだ。

「糞が!」

 汚く吐き捨てながら、人相の悪い男が突っ込んできた。迎え撃とうとするが、小太りに後ろから羽交い絞めにされて、俺は驚いてそちらを向いてしまった。

 それがまずかった。人相の悪い男の右フックが、俺の顔面ど真ん中をとらえ、俺はあまりの痛みに目から星を出した。ごきん、と骨が鳴るような音が聞こえた気がした。

 それから左、右、左と頬を連続で殴られ、それから更に腹に一発。口の中に鉄の味が広がり、ついでに胃の中身が逆流してくるような感覚に、思わず呻き声をあげてしまう。

 しかし、視界の片隅に半裸の桜乃の姿が映り、負けてたまるかと意思を持ち直す。

 俺は咆哮を上げながら背後の小太りに頭突きを入れ、腕が緩んだところで羽交い絞めから抜け出すと、人相の悪い男に殴られながらもカウンターの一撃を繰り出した。運よくそれは相手の顎に当たり、脳を揺らした。

 軽く脳震盪(のうしんとう)を起こしたか、一瞬だけ焦点の合っていない目をしたところで、相手はがくりと片ひざをついた。

 その間に、俺は小太りの方に向き直ると、頭突きを食らって口元を押さえている男に対してキックを放つ。太ももに蹴りを入れられた小太りは、脚の力が抜けたように床にひざをつき、その瞬間に繰り出された第二撃を左耳に食らって、声もなく床に転がった。

 人間、やれば出来るもんだ。いや、火事場の馬鹿力ってやつか。

 残るは一人、そう思って人相の悪い男に向き直った、その瞬間。

 

 桜乃の、悲鳴に近い叫び声が聞こえた。多分、「あぶない!」と叫んだんだと思う。

 不意に背後に鋭い痛みを感じて、俺は動きを止めた。

 目の前に居る、人相の悪い男も、驚いたような顔で、俺を……いや、俺の背中側に居る男を見つめていた。

 下を見ると、ぽたぽたと、タイルに赤い点が落ちていた。

 何だよ、これ、無茶苦茶痛えよ。

 油の切れた機械みたく、ぎこちない動作で背中側に首を回して見てみると、そこにはさっきまで悶絶していた猿顔の姿があった。

 そして、その手に持っている、刃渡り十センチほどのバタフライナイフ。その刃は、俺の背中側、腹の辺りに半分ほど埋まっていた。その光景は、ひどく非現実的に見えた。

 ナイフを伝って、血がしたたり落ちていく。まぎれもなく、俺の血だ。すっげえ出てる。

 頭がぼやけた。指先がチリチリする感覚がある。喉が渇いたような気がする。

 そして何より、痛い。

「ひい!」

 小さな悲鳴を上げながら、猿顔がナイフから手を離し、数歩後ずさった。やっちまった、とでも言いたげに、俺の血がべっとり付いた自分の手を見ながら、がたがたと震え始める。

「だんなさま……!? だんなさま、だんなさま!」

 桜乃が俺に駆け寄ってきた。しかし俺は声を出すことも出来ず、がくりと床にひざをく。頭がぼやけて、視界もぼやけて、桜乃にかけてやるべき言葉が思い浮かばない。

 自分に刺さったナイフを触ろうと、震える手を伸ばしてみたが、何だか怖くて服を掴むだけになった。じわりと手に血が付く感触があった。

 息をするのも苦しくなって、俺は床に両手をついた。いかん、これは本当にしんどい。床についた手がずるりと滑り、手形の跡を引き伸ばした。

「だんなさま、だんなさま!!」

 桜乃の声が、だんだんと遠くなってくる。頭には白いもやがかかってきた。

「桜乃……」

 乾いた唇から出た、彼女の名前。それすらも他人が言った言葉に聞こえる。

 俺はそのまま床に崩れ落ちると、そのまま意識を失った――

 

 

 暗い空間の中に、俺が立っている。

 他人の視点から、自分の姿を見ているような状態だ。魂が体から抜け出して、幽霊になって自分の体を見ている、みたいな感じ。どうやら、これは俺の夢の中らしい。

 俺は、どこへ向かうのか、真っ暗な中を歩き出す。

 そっちじゃない、俺が行くのはそっちじゃない。そう思うが、声が出なかった。

 どこを見たって黒しかない空間で、そっちじゃないも何もないとは思うが、どうもそちらに歩いてはいけない、そんな気がする。

 俺は、桜乃のところに戻らなきゃいけないんだ。

 なぜなら、俺は「桜乃を何とかしてやる」「桜乃を幸せにしてやる」と決めたんだから!

 心の中でそう叫ぶと、「俺」はこちらを振り向いた。そのときの「俺」は、一体どんな表情をしていたのか――

 

 

 目を覚ますと、そこは白を基調とした個室だった。

 鼻には大きい絆創膏が貼り付けられ、その他にも小さな絆創膏が、顔中あちこちに貼られている。

 どうやらここは、病院の一室みたいだ。

「だんなさま……?」

 小さく声をかけられて、俺は体を起こそうとしたが、脇腹に強烈な痛みを感じて、再びベッドに体を寝かせる。そうか、俺、ナイフで刺されたんだっけ。

 そのことを思い出し、はっとなって声の方に顔を向けた。

 そこには、俺と同じく顔に絆創膏を貼り付けられた、泣き顔の桜乃の姿があった。ああ、頬も目も腫れて、可愛い顔が台無しじゃないか。よっぽど殴られまくったに違いない。

 桜乃は何も言わずに俺を見つめていたが、ふと涙を流しながらにこっと笑った。

「だんなさまったら、本当に寝ぼすけさんで、なかなか起きないから、心配しちゃったじゃないですか」

 ぼろぼろと涙が流れて、ベッドに跡を付けていく。

「もうちょっと早く起きてくれないと、桜乃、困るじゃないですか。もしもこのまま、ずっと起きなかったら、どうしようかって、ほんとに、ほんとに……!」

 最後の方は、もう何を言っているのかほとんど聞き取れないくらい、震える声で桜乃が言った。俺はそんな桜乃の頭を無言で撫でてやる。

「ごめんな、桜乃、心配かけて」

 安心させるように、出来るだけ優しい口調で。腹は痛いが、笑顔は自然に出てきた。

「幸せにしてやるって言ったのに、それも出来ないままじゃ、格好つかないしな」

 俺の言葉に、桜乃は両手で顔を覆うと、首をふるふると横に振った。

 長い間、嗚咽が続いたが、落ち着いたところでようやく桜乃は顔を覆っていた手を下ろし、俺ににっこりと笑いかけた。

「桜乃は、幸せです。今、だんなさまが起きてくれたから、とっても幸せです」

 そう言われて、俺はまた笑った。俺が居るだけで幸せだ、と言われた気がして、嬉しかった。

 

 

 それから桜乃から聞いた話によると、俺を刺した猿顔と人相の悪い男は、駆けつけた神楽が完膚なきまでに叩きのめしたそうだ。神楽がやたらと強い理由を、そのとき初めて聞いたんだが、どうやら彼女は合気道やら空手やらで段を有しているらしい。そりゃ俺も簡単に腕ひねられるわな、と納得してしまった。

 それから、桜乃を誘拐した四人組は当然お縄となり、この事件は新聞の片隅に小さく掲載された。

「しかし、我ながら格好つかないよなあ。ばっちり返り討ちにあってるし、神楽みたく腕っ節が強けりゃ良かったんだろうけど」

 トーストにマーガリンを塗りたくり、口に運びながら、俺はぽつりと呟いた。窓の外には、雲一つない青空が広がっている。

 あれから俺は順調に回復し、退院してから、いつも通りの生活を送っている。いつもの朝食の風景が、いつもの狭い部屋にあった。

「でもでも、あのときのだんなさま、とってもかっこよかったですよ?」

 言いながら照れ笑いする桜乃。やめてくれ、こっちまで恥ずかしくなるじゃないか。

「でもまあ、良いんじゃない? こうして桜乃様も無事だったわけだし、風穴一つ開けられただけで済んだんだし」

「ほんっと、お前っていつも一言多いよな、神楽」

 俺がじっとりと睨むと、神楽は「そうかしら」と素っ気なく答えながらコーヒーを一口。全くこの女ときたら、折角俺のことを認めてくれたと思ったら、こんなだもんな。

 まあ、これもまた「いつも通り」ではあるんだけど。

 俺と神楽のやりとりを見ながら、桜乃がくすっと笑った。そんな彼女を見て、俺も思わず笑みを漏らしてしまう。

 本当に幸せそうな桜乃を見て、正直ほっとしている。それに俺も、あんなことが有った分、この日常を幸せだと思うことが出来る。そういった意味合いでは、あの誘拐犯の馬鹿四人に感謝せねばなるまい。

 あんな事件は、二度と御免だけど。

「おっと、あんまりゆっくりしてられないな」

 時計を見やると、もう学校に行く時間が近かった。残りのトーストをさくさくと口に運び、コーヒーで一気に流し込んでから、俺は大学へ行く準備に取り掛かった。

 桜乃も同じように、ランドセルに教科書やノートを詰め込んでいく。

 二人とも準備が済んだところで、俺は一つ欠伸をすると、背筋を伸ばして玄関に向かった。その後ろを、桜乃がとてとてと付いてくる。

「んじゃ、行ってきます」

「かぐちゃん、いってきます」

「お帰りになるときはお迎えに行きますから、電話して下さいね、桜乃様」

 誘拐事件以来、神楽は桜乃の送り迎えをするようになっていた。しかし、桜乃が「学校に行くときくらいは、だんなさまといっしょがいいです」とごねたため、今では送るのは俺の仕事である。

 

 二人でそろって玄関を出たところで、桜乃が俺の手を握ってきた。少しドキッとしたが、俺も軽く握り返してやる。

 小さな手だった。九歳児であるという現実が伝わってくるが、もうそんなことは気にしない。

 親に決められた結婚だけど、しきたりに縛られた結婚だけど、そんなことは関係ない。

 お互いの気持ちが分かった以上、これから少しずつ、始めていけばいいんだ。俺と桜乃が「お互いに幸せになる」ということを。これからもずっと、何とかしてやるからな、桜乃。

「桜乃は、幸せです」

 不意に小さく言われて、俺は桜乃の方に顔を向けた。

 桜乃は、俺の顔を見ながら笑っていた。小学生にあるべき、あどけない、太陽みたいな笑顔だった。

 

 

 


というわけで、書き終わりました。

恋愛、コメディ、一人称と、色々初挑戦してみた作品でしたが、いかがでしたでしょうか。

ラストがイマイチだと思われる方もみえるかも知れません。すいません、これが俺の限界です(何

ちなみにサブタイトルの『   』には、八話と同じく読者様のほうでしっくりくるものを当てて頂きたいと。

評価、感想、メッセージ、メール、チャットなどなど、色々なところで励まして下さった皆様、そして拙作を読んでくださった読者の皆様、ホントに感謝しています。毎日更新頑張れたのも、ひとえに皆様のおかげです。ありがとうございました!

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