第十一話 「ロリコン万歳!」
怖い、怖い! 怖いです、だんなさま……!
桜乃は、声も出せずに、車のトランクの中で泣いてました。暗くて、狭くて、どこに連れていかれてるのかも分からなくて、すごく怖くて、ぶるぶると体が震えてしまいます。
学校の帰り道に、知らない男の人から声をかけられて、だんなさまに言われた通り、ついていかないようにしてたんですが、いきなりお口をお手てでふさがれて、無理矢理車の中に連れていかれました。
だんなさまにお電話しようと思ったけど、電池が残り少なかったので、桜乃はひとまず電源を切りました。桜乃がどこに居るのか分からないのにお電話をかけてしまったら、だんなさまも桜乃を助けに来れないんじゃないかって。
「なあ、本当に大丈夫なのか?」
車の中のほうから、男の人の声が聞こえてきました。
「大丈夫だって、誰にも見られてないんだし」
「でも、これって誘拐だよな?」
「ばれない、ばれない。こういうのは、ばれなきゃそれで良いんだよ。やったもん勝ちだって」
誘拐って聞いて、桜乃はまた、怖くて震えてしまいました。涙がいっぱい出ました。
「だんなさま……助けて、だんなさま……!」
おうちに、帰りたい。だんなさまも、かぐちゃんも、きっと桜乃のことを心配してると思います。
でも、きっとだんなさまが助けに来てくれる。そう思って、桜乃はお手てをぎゅっと握って、怖いのを我慢するように、だんなさまが助けに来てくれるまで、がんばろうと思いました。
静かな俺の部屋。桜乃が居ないだけで、こんなにも部屋が寂しくなるものなのか。
とりあえず、警察には届けを出した。脅迫状や身代金の要求なんかは今のところ無かったため、誘拐事件と断定されたわけじゃないが、捜査をすると約束してくれた。
しかし、やっぱり不安が募る。桜乃が何らかの事件に巻き込まれているのは間違いない。
部屋の明かりも点けずに、俺は窓辺に座って外に降る雨を眺めながら、神楽は部屋の隅でひざを抱えながら、お互いに無言のまま動かなかった。
まだ夕飯も食べていない。腹は減っているが、飯を食う気にはならなかった。
雨足は、いっそう強くなっている。俺の心にも、この空模様と同じで、どんよりと雲がかかっていた。
「大丈夫かしら……」
神楽がぽつりと呟いた。この重い空気に耐えられなかったのか、もしくは「きっと大丈夫だ」という俺の言葉を期待したのか、どちらなのかは分からない。
「分かんねえよ……」
大きなため息と一緒に喉から搾り出した言葉は、自分でも情けないくらい小さくて、頼りなかった。期待を裏切るような台詞だけど、俺だって分からないんだ。俺だって不安なんだよ。
「桜乃様にもしものことがあったら、私は、私は……!」
神楽がひざに顔をうずめた。いつも冷静で気丈な神楽が、俺の前で嗚咽を漏らす。しかし、俺はそんな神楽に、声をかけてやることも出来なかった。そんな心の余裕は、今はない。
桜乃にもしものことがあったら――俺は、どうなってしまうんだろう。
自分のことを想ってくれている、たった九歳の、まだ自分の半分も生きていない少女が、もし俺の前からずっと姿を消してしまったら?
悲しいと思う。それくらいは分かる。
でも、本当にそれだけか? 悲しむだけで済むのか?
万が一、だ。万が一、桜乃がこのままずっと帰ってこなかったり、何らかの事件に巻き込まれて、死んでしまっているとしたら……俺は、どうなる? どうする?
自問を繰り返しながらも、桜乃との色々な思い出が、頭の中をよぎっていく。
俺の家に嫁入りに来た桜乃。怒りながら親父に電話したとき、自分の年齢が悪いものと思い、俺に謝った桜乃。掃除をしてくれて、料理を頑張ってくれて、神楽に嫉妬して、公園で一緒に遊んで。
そして、俺のことを好きだと言ってくれた。
「あっ」
俺は、自分の心の中に、何か違和感のようなものが有ることに気が付いて、思わず声を上げてしまった。俺の声を聞いて、神楽が少しだけ顔を上げる。彼女の涙を見るのは初めてで、きっと最初で最後になるだろう。
この違和感は、一体何だ? どうにも引っかかる。桜乃のことが好きかどうか、ではなく、もっと根本的な何かが有るような気がする。
考える俺の頭に、桜乃の言葉が浮かび上がった。
「だんなさま、あの夜言ってくれました。桜乃を、幸せにしてやる、って。桜乃、ちゃんと聞いてたんですよ?」
うん、確かに俺は桜乃に「幸せにしてやる」と言った。それは達成されたとは思えない。
でも、それだけじゃない。もっと根本的に、俺が桜乃にしてやらなくちゃいけないことがある気がする。それがきっと、俺が持つ「違和感」の答えだ。
一体、どれだ? 何に対して、「違和感」を持ったんだ?
更に俺は思い出そうと、思考を巡らせた。
きっと桜乃の言葉の中に、この「違和感」が何なのか教えてくれるものがある、と思った。根拠はないが、確信は有った。
「藤宮家より参りました、桜乃と申します。これからは旦那様の良き妻として、生涯お尽くしする所存にございます。ふつつかものでございますが、何とぞ、よろしくお願いいたします」
桜乃の嫁入りの挨拶が、俺の脳裏をかすめた。桜乃と一緒に暮らすきっかけになった、最初の挨拶。きっと何度も練習してきたんだろう、小学三年生の口からは絶対に出ることのない言葉だ。
この言葉を聞いて、親父に電話して、桜乃が謝ってきて、それから俺は――
「そうか」
分かった。
俺はあの時、初めて桜乃が家に来たとき、こう思ったんだ。
俺が、何とかしてやらなくちゃ、って。
桜乃が今どんな状況にあるかは分からない。でも、ひょっとしたら怖い思いをしているかもしれない。だったら、それを何とかしてやらなきゃ、救ってやらなきゃならない。
幸せにするとか、そういうこと以前に、桜乃に「何とかしてやる」と言った以上、曲げるわけにはいかないじゃないか。もしもこのまま桜乃が帰ってこなかったら、悲しいだけじゃない。俺はきっと、後悔し続けることになる。何とかしてやれなかった自分に対して、ずっと後悔する。
これは義務感じゃないのか? と一瞬思ったが、俺の心は「それだけじゃない」と言っている。
心に湧いて出た「違和感」に気付いたことで、自分の「本当の気持ち」に気付かされた。昨日抱いた「引っかかり」も、これで完全に晴れていた。
あの時は「九歳で嫁入りに来た少女を、何とか救ってやりたい」と思っただけだ。でも今は、それだけじゃない。
それを認めてしまうのは、やっぱり怖かった。
自分の「本当の気持ち」を認めてしまえば、俺は自分で自分のことをロリコンだと認めてしまうことになる。
でも。
俺は無言で立ち上がった。「どうしたの?」と神楽が訊いてきたが、俺は答えずに大きく息を吸い込むと、意を決して、
「ロリコンで構うもんか! ロリコン万歳だ! 俺だって、桜乃のことが好きだ! だから、何とかしてやらなきゃいけない! 旦那だとか、夫婦だとか、そんなことは関係ねえ! 俺は桜乃のことが好きだから、好きになったから、何とかしてやらなきゃならないんだよ!!」
大声で、叫んだ。
自分の中だけで決めてしまうと、決意が崩れそうな気がして、神楽の前であることも、ご近所に聞こえるかもしれないことも何も気にせず、自分に言い聞かせるように、声を張り上げた。
神楽は俺の言葉に驚きつつ、複雑そうな表情を作った。その視線から察するに、きっと軽蔑しているに違いない。
何を思ったか、いきなりロリコン万歳発言をする男が目の前に居れば、そりゃあそういう反応をするだろうな。だが、俺に後悔はない。
「よし、すっきりした」
もうロリコンでいいよ、俺。幼児愛好者のレッテル貼られようが、友達やご近所さんから蔑まれようが、世間から何と言われようが、知ったことか。
俺は、桜乃のことが、心から好きだ。
今までずっと、父性とか親心とか保護欲とかに置き換えて、自分の身を守ろうとしていたけれど、やっぱり自分の心に嘘はつけない。
俺は何も言わず、携帯電話をジーンズのポケットに突っ込むと、玄関に向かった。
「どこに行くの?」
背中から神楽の声が飛んできた。そんなもん、訊かなくたって分かるだろう。俺は安物のビニール傘を手に取ると、振り向きもせずに靴を履いた。
「決まってるだろ、桜乃を探しに行くんだよ。何かあったら連絡してくれ」
どこに居るかなんて分からないし、手がかりだって何もない。だけど、じっとしていられなかった。
ひょっとすると、どこかに桜乃の行方の手がかりになるものが、有るかもしれない。
警察に連絡はしてあるものの、任せっきりでは旦那としての、恋人としての立場がない、そう思った。
しかし、玄関のドアノブに手をかけたところで、
「ちょっと待ちなさい!」
神楽が、強い口調で俺を止めた。何だか、いつも通りの神楽が戻ってきたような気がした。
振り向くと、彼女は目を真っ赤にして、しかし口元には笑みをたたえながら、俺を見ていた。さっきまでの軽蔑の視線はない。
「連絡しようにも、私、あなたの番号知らないわよ」
しまった。何だか格好がつかない。
そういえば、俺と神楽は番号の交換なんか、してなかったんだっけ。
「気ばかり焦って、格好悪いわね」
「ほっとけよ」
俺は頬をぽりぽり掻きながら、靴を脱いで部屋に戻ると、神楽と携帯電話の番号を交換した。何だか、すんごい今更な気もする。
お互いの電話番号をアドレス帳に登録したところで、俺は再び玄関に向かって靴を履いた。決めるべき場面で決めきれなかった感があって、ロリコン万歳発言なんかより、よっぽど恥ずかしい。
「桜乃様は、あなたのことを心から想ってるわ。さっきの発言は変態そのものだけど、あなたも桜乃様のことを想ってくれている。だから、もうちょっとしっかりしてもらわないと、付き人の私が困るんだから」
ドアを開けたところで、神楽の声が飛んできた。毎度毎回、一言多い女だが、彼女にも認めてもらえたような気がして、素直に嬉しかった。
でも、それは桜乃が無事に帰ってきたら、という大前提があってのことだ。
雨足は更に強くなっていたが、そんなことは気にもせずに、俺は家を飛び出した。