第十話 「消えた桜乃」
「だんなさま……だんなさま?」
ぼんやりと外の景色を眺めていた俺は、桜乃の声で我に返った。今日は午後から雨になるらしいのだが、そんな予兆は全くない、青い空が窓の外に広がっていた。
桜乃が俺に「告白」をしてくれてから、一夜が明けた。いつも通り、俺と桜乃と神楽の三人でテーブルを囲み、朝食をとっているところである。
しかし、どこか「いつも通り」と違う。それは、この食卓を包む空気だ。
「あの……ご飯、おかわり、いりませんか?」
「あ、ああ、うん、もらおうかな」
どこかぎこちない俺と桜乃。見た目だけは普段通りの朝だが、やっぱりどこかお互いを意識してしまっている。
部屋には妙な堅苦しさというか、居づらさというか、そういったものが充満していた。
「何かあったの?」
昨日のこと、桜乃の告白のことを知らない神楽が、訝しそうな目つきで俺を見ながら訊いてきた。思わず飯を喉に詰まらせ、俺は大きく咳き込んだ。
「な、なんでもないよ、かぐちゃん」
俺の代わりに桜乃が答えてくれた。何でもないことはないんだが、桜乃から告白されました、なんて言うわけにもいかないし、正直助かった。
隠す必要はないとは思うが、教えることでもない。
桜乃の歯切れの悪い返答に、神楽は更に眉根を寄せて俺を見たが、目をそらして無視することにした。
「まさかとは思うけど、和樹君、あなたまさか桜乃様に何かしたんじゃないでしょうね」
「馬鹿言え」
すんなりと否定の言葉が出たことに、神楽は少し驚いた様子だった。
そりゃそうだ、俺は何もしていない。いや、正確には、何もしてやれなかったと言った方が良いかもしれない。
「まあ、いいけど」
全く納得した様子ではないが、神楽はひとまず引いてくれた。
しかし食事が終わっても、学校へ行く準備をしていても、どこかぎくしゃくした感じ。その理由は、ちゃんと分かっている。
心の中に、すっきりしないものが引っかかっていて、ちくりと痛む感覚があった。
それから、いつも通り二人で家を出て、通学路を途中まで一緒に歩いたが、俺も桜乃も何も言わなかった。それは俺にとって、すごくつらいことだった。
大学で講義を受けながら、俺は昨日のことを考えていた。
桜乃は昨日、泣きながら俺に「告白」をしてくれて、俺のことを好きだと言ってくれた。
親が勝手に決めた結婚だったのに、それでも桜乃は、俺のことを好きになってくれた。
それは素直に嬉しい。
俺が桜乃の支えになってやれていると分かった気がしたし、認めて貰えたみたいな安堵感もあったし。
彼女は俺のために、色々なことを一生懸命がんばってくれた。そのことを、俺はよく知っている。それを見ていて、俺も確かに桜乃のことが好きになっていた。
しかし、心にある引っかかり。
ひょっとすると、俺が桜乃を好きなのは、「愛している」という意味ではないんじゃないか。どちらかと言えば、親心というか、保護欲に似たものじゃないのか。
確かに、桜乃を見てドキドキする場面は、今までに何度もあった。しかしそれは、本当に「愛している」という感情からきたものなのか?
更に俺には、自分の心が一体何と呼ぶものなのかという疑問の他に、一つの不安があった。それは、俺が二十歳で、桜乃がわずか九歳であるという、どうしようも出来ない年齢差だ。
ロリコンと呼ばれることを、そういう立場になることを恐れていた。
世間でロリコンが問題視されている現代に、九歳の少女を嫁にするなんて、社会的立場が危うくなるかもしれないという不安が、俺の心に降り積もる。こんなことは今更言うことじゃない、それくらいは分かってるんだが、どうしても体面を気にしてしまう。
自分のことを好きだと言ってくれている桜乃に対して、すごく情けないことを言っているという自覚はある。しかし、心の「引っかかり」と相まって、どうしても振り切れない。
「幸せにしてやるって言ったのに、どうすれば良いのか、さっぱり分かんねえよ……」
誰にも聞こえないように、小声でそう呟く。講義なんか、もはや全く聞いていなかった。
心に「引っかかり」を残したままで、桜乃とずっと暮らしていくのか? それで本当に、桜乃を幸せにしてやれるのか? 自分のことすら分かりもしないのに、桜乃にとっての幸せが何なのか、分かってやれるのか?
いずれ時間が解決してくれる問題なのかもしれない、とは思う。桜乃はまだ子供だし、俺だって学生という身分だ。もっと時間が経てば、俺も桜乃を心から「恋愛対象」として見れるようになるかもしれない。
でも、そんなの、いつになるかも分からない。
それに、桜乃は「今」俺のことが好きで、だったら俺も「今」答えを出さなきゃならないんじゃないかって。そう考えてしまう。
昨日、俺は桜乃の告白に対して、答えを返していない。ただ彼女の想いを受け止めるように、小さくて細い体を抱きしめただけだった。だから、今朝はお互いにぎこちなかったんだと思う。
俺がもし本当に桜乃のことを愛していて、彼女の想いにちゃんと答えを出していたなら、きっとそうはならかっただろう。でも、自分の気持ちに整理をつけないまま「俺も桜乃のことが好きだ」なんて、うわべだけの言葉を答えにするのも卑怯だと思う。
頭の中が、ぐちゃぐちゃと混乱する。気分の悪い感覚だったが、これを取り払うためには、自分の力で答えを出さなくちゃならないんだよな。
「さっぱり、分かんねえ……」
もう一度、助けを請うように呟いた。誰に助けを求めたのか、自分でも分からなかった。
それから俺は、ずっと頭を抱えて過ごした。講義なんか全く頭に入っていない。一体これからどうすれば良いのか、そればっかりがぐるぐる回っている。
こんなことなら、講義なんかに出てないで、家に居たほうが良かったんじゃないかなあ。考え事ばかりしてたし、まるで出席した意味がない。
いや、はたして考えて答えが出せる問題なんだろうか。
俺はアパートに帰りながら、空を見上げた。今朝とは違って、黒い雨雲がかかっている。雲の隙間から少しだけ、夕焼けに染まり始めた青空が見え隠れしていた。
そんな微妙な――ある意味では、俺の心を映しているような――空に向かって、ため息を一つ漏らす。
神楽に相談しようかとも思ったが、どう言って相談すれば良いのか分からない。桜乃に対する自分の気持ちが分かりません、なんて言ったところで、答えが返ってくるとは思えないし。
まあ、帰宅すれば桜乃も神楽も居るだろうし、話していればそのうち気持ちの整理がつくかもしれない。
いくら考えたって、納得出来る答えは出そうにないんだ。ひとまず考えるのはやめにして、部屋で少しくつろいでから、バイトに行こう。
そう思ったところで、俺はアパートに帰り着いた。ほとんど無意識的にため息をつきながら階段を上がり、狭い通路を抜けて、二○五号室の鍵を開ける。
「ただいま〜」
言いながら中に入ったが、「お帰りなさいませ」も「おかえり」も返ってこなかった。
「あれ?」
首をひねりながら、靴を脱いで短い廊下を抜け、部屋に入る。窓から差し込む光は少なく、電気も点いていない。見慣れているはずの部屋は異様に暗く、冷たかった。
おかしいな、小学校はとっくに終わっているはずだ。今まで俺が帰宅したときに「お帰りなさいませ」が聞こえてこなかったことは、たったの一度もなかったのに。
部屋にはランドセルもない。どうやら、まだ帰ってきてすらいないようだ。
小学校の友達と、どこかで寄り道でもしてるんだろうかとも思ったが、それならそれで電話の一本でも入っていいはずだ。桜乃はしっかり者だし、そういった報告を欠くとは思えない。
桜乃のぬいぐるみ達が、薄暗い部屋の中で、不気味に俺を見つめていた。それに気付いた瞬間、俺は言いようのない不安を感じた。
「ただいま」
部屋の中央で呆然と立ち尽くしていた俺の背後から、不意に声が上がった。一瞬桜乃かと思って勢い良く振り向いたが、玄関に立っていたのは神楽だった。
「あら、和樹君、帰ってたのね」
その両手には、買い物袋をぶら下げている。どうやら買出しに行っていたようだ。
神楽ならこの異変の理由を知っているんじゃと思ったが、しかし彼女も、部屋に入るなり眉根を寄せた。
「桜乃様は?」
「お前こそ、知らないのか!?」
やっぱり神楽も知らなかったのか。俺は思わず大声を上げてしまった。
「わ、私は、ちょっと前から買い物に出てたから……てっきり帰ってきてると思ってたんだけど」
ばつが悪そうな神楽の言葉を聞いて、不安が更に大きく膨らんでいく。
まさか、桜乃に限って、そんなことはないよなと、自分に言い聞かせる。そんなこと、とは、とても口に出したくないことだった。
俺は急いで携帯電話をショルダーバッグから取り出すと、アドレス帳から「桜乃」を選び、震える指で通話ボタンを押した。
神楽の顔は、真っ青だ。きっと俺も似たようなもんだろう。
頼むから電話に出てくれと祈ったが、無常にも、コール音の一つも鳴らずに「あなたのおかけになった電話は、現在電源が入っていないか、電波の届かないところに――」と、無機質なアナウンスが流れるだけだった。
何度もかけなおしてみたが、やっぱりアナウンスが流れるだけで、桜乃の声が聞こえてくることはない。
「駄目だ、電源が切れてる」
奥歯を噛みながら、吐き捨てるように俺が言ったところで、神楽の表情が不安と恐怖に歪んだ。
「まさか、まさかね」
自分に言い聞かせるように、神楽が呟く。俺だって、考えたくないことだった。
「もう少し、待ってみよう」
俺は重い口調でそう言うと、今度はバイト先のファミレスに電話をかけた。こんな大事に、バイトなんて行ってられるわけがない。
適当な理由をつけて、バイトを休みにしてもらったが、店長からこっ酷くお叱りを受けてしまった。しかし、今に限っては全く気にならなかった。
時計の針が進むのが、とても遅く感じた。
外はいつの間にか、雨が降り出している。どんよりと雲がかかっているため、暗くなるのはいつもより随分早かった。
しかし、いくら待っても桜乃は帰ってこず、携帯電話も鳴らなかった。