婚約破棄ありがとうございます!
青い空が広がり、そこを渡り鳥が群れを成して飛んでいく。
きっと寒気が下りてきたのだろう。
北にあるこの地を立ち、南の森へ行くのかもしれない。
「いいな……私も飛んでいきたいな」
学校の中庭のベンチに座り、ボーッと空を見上げる。
南の森は年間を通じて暖かく、雨も多い。
そこにはたくさんの不思議な生物がおり、その生物を研究する機関もあるのだという。
それを教えてくれた人はそばにはいない。
もう、遠くなってしまったなぁと空を見上げながら溜息を吐く。
私は陰鬱な日常にほとほと疲れ果てていたのだ。
陰鬱と言っても、特に重大な問題があるわけではない。
お金のある者しか通えない上級学校へと通わせてもらい、衣食住も保証されている。
だけど。
「勉強したくないなー……」
うん。したくない。
ワガママだってわかっているけれど、したくないものはしたくない。
誰もいない中庭でボソリとそう呟けば、思ったよりも声が通った。
あ、まずいな、と思ったのも束の間。
突然、校舎の陰からヌッと人が現れる。
その薄い黄緑色の髪が光を受け、キラキラと輝き、とび色の瞳がスッと細まった。
「ヴァラグリーア、発言は慎重にしなさい」
「……はい。申し訳ありません、お兄様」
いつからそこにいたんだ……。
謝りながらも、じとりと睨んでしまうのは許して欲しい。
だって、こんな時まで監視されているとか本当にもう嫌だ。
兄はそんな私の目線などまったく気にする様子もなく、こちらへ近づいてくる。
あー。もう時間切れか……。
一人の時間もこれで終了。
私ははぁ、と小さく溜息を吐いた。
兄と私は一つ違いの兄妹だ。
私も兄と同じ色彩の髪と目を持っているため、兄妹である事は誰が見ても一目瞭然。
その兄がこの学校での私のお目付け役である。
こうしてぼんやりしていると、どこからともなく現れ、私を勉強へと追い立てていく。
今日もきっと、牧羊犬よろしく私を柵の中へと閉じ込めるためにきたのだろう。
「ヴァラグリーア。殿下がお呼びだ」
「殿下が?」
「……ああ。これが最後かもしれない」
「最後?」
突然の殿下からの呼び出し。そして『最後』という謎の単語。
私が疑問符を浮かべて兄を見上げたが、兄は、ついてくればわかる、と私の手を取ってベンチから立たせた。
こうなると何を聞いても無意味だ。
ここでは話せない事なのだろう。
私は前を進む兄の背中をやれやれと追いかけた。
そうして、兄について殿下の部屋へと入り、形式通りの礼を取る。
殿下が椅子を勧めてくれたので、そこへ座り、侍女が用意してくれたお茶を一口含んだ。
「今日君を呼んだのはこれを読んでもらいたかったからだ」
今日も相変わらず、金髪碧眼が素敵ですね、と適当な事を思いながら、殿下が差し出した書類を受け取る。
殿下と兄の様子を見るに、今ここで読め、という事だろう。
とりあえず、視線を書類に落とし、サッと目を通した。
「……これは」
読みながら、思わず声が出てしまう。
「なかなかひどいですね。……私」
そう。そこに書かれていたのは、私がこれまで行ってきた(らしい)いじめの数々が書かれていた。
「ドレスを汚して、教科書を隠して、陰口を叩いて、孤立させ……わぁ。ついに階段から突き落としちゃったんですね」
ははぁ。最低だな私。
思わず、溜息を吐きながら読み上げると、殿下はその美麗な顔の眉間に皺を寄せ、クスクスと笑った。
ちなみに横にいる兄は同じく眉間に皺を寄せているが、こちらは笑っていない。睨んでいる。
「一週間後に学校で夜会があるだろう? そこでこの事実を暴露するそうだよ」
相変わらずクスクスと笑っているが、話している内容は衝撃である。
一週間後の夜会。
それは上級学校で行われる、生徒主催のパーティだ。
マナーやダンスの実践をしたり、夜会を開く手順を体験するために行われているらしい。
まあ、結局の所はただの気晴らしなんだけど。
「一週間後、私は殿下の婚約者として出席します。そこで私を諫めるのが目的、という事ですか?」
「ああ。ご丁寧にも証言者の方々も用意してくれているみたいだ」
「なるほど。すると、ここに書いてある事は真実となってしまう、という事ですね」
まったく身に覚えはないけれど。
私はどうやらいじめの主犯として、断罪されるらしい。
「……まったく。お前は本当にわかっているのか? お前が生徒の前で諫言を受けるという事は旧伯爵家である我がフランダリ家を貶められるということだ」
「そうですよね。そうなりますよね」
兄が怒気を含めながら、私をじとりと睨んでくるので、私はそっと目を逸らした。
それがまた兄の逆鱗に触ったらしい。
「……ヴァラグリーア。お前は本当にわかっているのか? いつもいつもそうやって――」
「お兄様、わかっています」
ですから、なにとぞ怒りを鎮めて下さい。
クドクドと延々と聞かされそうな小言から逃げるべく、じっと上目遣いで兄を見上げる。
「大好きなお兄様にご迷惑をかけてしまう事も本当に申し訳なく思います」
そして、『大好き』という言葉をちょっと誇張して伝えれば、兄はうっと言葉に詰まった。
ふふ、末っ子奥義。必殺、上目遣いからの大好きなお兄様攻撃。
「……証言者の予定として書かれているのはすべてフランダリ家の政敵、又はその子飼い。生徒しかいないパーティとはいえ、お前がやり玉にあがるのは良くない」
兄が私の末っ子奥義を受けながらも、淡々とした様子で言葉を告げていく。
……あれだね。最近、兄に小言を受け続けているせいで、この必殺技が効きにくくなってきた。
「私の婚約者である君を諫めるという事は、私自身を貶める行為だ」
兄の言葉に続き、殿下も言葉を発する。
「このまま夜会に出て、君が大勢の前で貶められる。それを手をこまねいて待っているわけにはいかない」
そして、殿下がじっと私を見た。
「そこで君とは婚約破棄をさせてもらう」
「……こんやくはき?」
聞きなれない言葉にはて、と首を傾げる。
こんやくはき……。
婚約、破棄……?
「……っ、つまり、私は殿下の婚約者ではなくなるという事ですか?」
「ああ。だから一週間後の夜会に出る必要もないよ。君とその家族、そして私を貶めようとしていた者たちはさぞがっかりするだろうね」
殿下がクスクスと笑う。
殿下はこういう権力闘争を考えている時は本当に楽しそうだ。
その碧色の目の奥を妖しく光らせている。
「殿下っ、本当ですか!?」
でも、私はそんな殿下の様子などどうでもよくて。
ただ、先ほど殿下に言われた言葉だけが頭の中に響き渡っていた。
思わず立ち上がって、ズズイと殿下に詰め寄ってしまう。
殿下はそんな不躾な私を怒るでもなく、ただクスクスと笑った。
殿下が楽しそうに笑っている。
私の言葉を否定しない。
それはつまり――
――私は殿下の婚約者じゃなくなったんだ。
「……っ、ありがとうございます。ありがとうございますっ」
急に降ってきたその事実。
私は目の前に座る殿下の両手を取って、ブンブンと上下に振った。
やった……っ!
やった!
これで私はもう。
「自由だぁ!」
まったく淑女らしくなく叫んだ私に、兄は思いっきり眉を顰める。
そして、殿下は相変わらずクスクスと笑っていた。
私が住んでいる国、ルルスキニ。
この国の王族は象徴としてあるのみで、権力は議会へ移行している。
政に対しての決定権はなく、祭事と外交、慰問が主な仕事だ。
貴族が領地を治めていたのは遠い昔で、今では豪商や金貸し、議員などの仕事をしている。
貴族の爵位も廃止されているが、未だに血を重んじる傾向があり、旧伯爵や旧子爵などと言った呼び方で呼ばれていた。
そのような名ばかりの王族、貴族とはいえ、未だに庶民との結婚には高い壁がある。
家柄や血筋は重要なのだ。
この国には王子が三人いる。
慣習として、それぞれ十四になる時に婚約者が決められるのだ。
基本的には当事者同士の話し合いや希望などを聞き、多角的に決められるのだが、私の婚約者である第三王子シャルスターク様は一味違った。
シャルスターク様は自分と婚約できる可能性のある令嬢を一所に集めたのだ。
その日、旧伯爵家以上でシャルスターク様と年が近い令嬢が王宮の一室に集められた。
そこで、本来ならシャルスターク様の寵をめぐって、女の争いが起きなければならないのだろう。
だが集まった少女たちはどこか貼りつけたような笑みで、どことなく地味なドレスを着ていた。
――どうか選ばれませんように。
多分、私を含め、どの令嬢もそう思っていたと思う。
だって、第三王子の妃なんて……なんのうまみもないのだ。
この国の王族に権力はない。ただのお飾りだ。
贅沢な暮らしをするなら、大商人の跡取りに。
自由を求めるのなら、革新的な考えを持った旧貴族に。
王族に嫁げば、がちがちに監視され、かといって贅沢もできず……。
そのくせ、公務はぎっちりで休む暇もない。
そして、王太子夫妻は既に二人も男児を生んでおり、国母になるのもほぼ無理。
シャルスターク様が悪いわけではない。
ただこのルルスキニの第三王子妃というのは一生を籠の鳥として生きる事を意味していた。
そんなわけで、シャルスターク様が現れて、一通り挨拶をした後も、みんなどこか白々しい笑みを浮かべたまま、互いに牽制しあっていた。
『お前行けよ』『いやお前が行けよ』『お前金髪碧眼好きだろ』『お前だって顔は好みって言ってただろ』
そこで、『それなら私が行くわ!』という素敵な令嬢が現れないかと期待していたが、そのような令嬢は現れなかった。
……みんな、自分がかわいいのだ。
私も自分がかわいい。
そんな押し付け合いの中、クスクスと笑っていたシャルスターク様が声を上げた。
「みなさんが乗り気ではないことはわかりました。きっとそうだろうと思っていたので、あらかじめ用意していた物があるのです」
シャルスターク様がそう言うと、いくつかの机と小さな紙とペン、そして片手で抱えられるぐらいの木箱が運び込まれた。
近くにいる令嬢と顔を見合わせて、なんだろう? とお互いに疑問符を浮かべる。
それは他の令嬢もそうだったようで、みな一様に不思議そうな顔をして、それらが用意されるのを眺めていた。
「みなさんは生贄にはなりたくないのでしょう。私も積極的に選びたくはありません。……なので、運を天に任せてみる事にしました」
シャルスターク様がその少女のような可憐な顔にクスクスと笑みを浮かべて、話を続ける。
「くじをしましょう」
……くじ?
シャルスターク様の話に驚き、目を瞠ったが声を上げる事はしなかった。
他の令嬢も驚いてはいたが、誰もシャルスターク様に異を唱える者はいなかった。
今なら止める。
バカな事をしてはいけない、と。
みな乗り気ではないと言っても、ちゃんと話し合わなくてはいけない。
大切な婚約者をくじで決めるような、そんな事はすべきではない、と。
でも、私はその時はそれでいいか、と思ったのだ。
ここにいる令嬢は十人ほど。
その中の一人が婚約者。
くじで決めれば、変な禍根も残らず、こちらも罪悪感を覚える必要もない。
選ばれた令嬢は気の毒だが、それは天が決めたことなのだ。仕方ないのだ。
……そう。
私は自分が選ばれるなど思ってはいなかった。
きっと、誰だってそうだ。
今考えれば、十人のうち一人って結構確率高いよ! と考えられるのだが、クスクス笑うシャルスターク様とキラキラときれいな王宮の雰囲気と『お前が行けよ』と牽制しあう令嬢に疲れて、頭が働いていなかった。
シャルスターク様が一度退室し、その間に自分で自分の名前を書く。
ここで他の令嬢の名前を書く、という案も浮かんだが、バレた時が怖い。
私はこういう策略は向いていないので、正直に自分の名前を書き、丁寧に折りたたむ。
それはもう何度も何度も折り、小さく小さくした。
絶対にシャルスターク様の指に触れないよう。
触れても存在がわからないぐらい小さく……。
戻れるなら止める。
ダメだ、と。
シャルスターク様はちょっと変なんだよ。
そういうおかしなことをしている人間の尻尾を掴んで、クスクス笑うのが大好きなんだよ、と。
そうして、他の令嬢も名前を書き、木箱に紙を入れ終わると、シャルスターク様が帰ってきた。
少しばかり、話をした後、その手を木箱に入れる。
運命の時である。
どうか引かれませんように。
神様、お願いします。
必死で祈った。
そして、シャルスターク様がスッと手を引き抜く。
そこには親指と人差し指でつまみ出された小さな小さな紙があって……。
「ひっ」
その瞬間、声が漏れた。
ダメ。
それ、ダメなやつです。
そんな私の心の声は当然、シャルスターク様に聞こえるわけもなく……。
シャルスターク様が小さく小さく折りたたまれた紙を丁寧に広げた。
そして、そのきれいな声で名を呼ぶ。
「フランダリ旧伯爵家次女ヴァラグリーア」
あ、私だ。
「うっそだぁ!」
バッと振り返る令嬢たちの視線を浴びながら、私は素っ頓狂な声を上げた。
そんな革新的なくじびき婚約から早二年。
毎日毎日、妃教育という名で色々な学問を頭に詰め込まれ、マナーを身に付けさせられ……。
誰が悪いわけでもない。
ただひたすらに運が悪かった。
くじびきにするという時に声を上げなかった自分が悪いのだ。
だから、ちゃんと勉強をした。
学校に行きながらも、王宮にも通った。
……時々、休息と称して、ボーッとした時のあるけれど、それは許して欲しい。
どうせ兄に見つかって、王宮まで送られていたのだから。
それが、今日。
突然、終わりを告げたのだ。
「ヴァラグリーア、いい加減にしなさい」
殿下の手をブンブンと振っていると、後ろから兄の声が聞こえ、殿下から引き離される。
「婚約破棄をされ、謝辞を述べるなど……お前は本当に分かっているのか? 第三王子と婚約破棄をしたとなれば、まっとうな結婚は望めないぞ」
「はい、わかっております。大丈夫です、お兄様」
じとりと私を睨む兄をまっすぐに見据え、宣言した。
「私、雨の森に行きます」
「雨の森だと?」
兄の眉間に深い皺が刻まれる。
私は膨れ上がる怒気に恐れ、そっと距離を取った。
雨の森はここ王都から遠く離れた場所にある僻地だ。
私がそこに行きたいなんて言い出したものだから、兄は怒ったのだろう。
兄から逃げた私に殿下が話しかける。
「ヴァラグリーアはいつも言っていたね。南の森には雨がたくさん降る。だから雨の森と呼ばれていると」
「はい。その雨の森にはたくさんの不思議な生物がいるんです」
「……見に行きたいんだよね?」
殿下が私を見て、そっと首を傾げた。
私はそれに、はいっと返事をして、大きく頷く。
「雨の森の生物を研究している機関。そこで働くのが夢で……。殿下の婚約者となった事で諦めていましたが……でも、これでっ」
「ああ。行っておいで」
雨の森の事を思い、グッと胸が詰まる私に殿下が優しく笑ってくれた。
私はそれにうんうんと頷いて返す。
そこで、ふと、殿下の事に思い至った。
「あ……。でも、殿下はどうされるのですか? 私という婚約者がいなくなってしまっては、殿下の立場が危うくなりませんか?」
「大丈夫だよ。新しい婚約者として旧子爵家のレイアを婚約者とする事にしたから」
「……それって」
「ああ。君を貶めようとしている張本人だよ」
殿下の目がまた妖しく光る。
それはもう、すごく楽しそうだ。
「第三王子妃という生贄に積極的になってくれるらしい。適任だと思ってね」
「……殿下は趣味が悪い」
殿下の言葉に兄がやれやれと溜息を吐く。
それに、殿下がクスクスと笑った。
「幸い王太子夫妻に二人の男児がいる。私が子供を作る必要もないだろう」
……それは白い結婚という事?
「危険分子と対立するっていうのもいいんだけど、せっかくだから飼い殺してみることにしたんだよ」
その旧子爵家のレイアさんという人。
婚約者になったからには、私のように妃教育をばりばりと施されるのだろう。
私よりスタートが遅い分、それはそれは大変なはず。
そして、その一生を籠の鳥として生きる。
しかし、殿下の口振りだと、寵を与えるつもりもないのだ。
王族に嫁げば、滅多な事では離縁はできない。
話が違うと暴れても、公務に出ることができなくても、王宮のどこかの閉じ込められるだけだろう。
まさしく飼い殺し。
「それは……あの……大変ですね」
旧伯爵家以上の者は内情を知っているために、誰もなりたがらなかった第三王子妃。
その旧子爵家のレイアさんはわざわざ私を貶めてまで、それになりたかったらしい。
……不思議な人もいるな。
「表向きは私が心変わりをして、婚約者を変えたという事にする。しばらく私の評価は下がるだろうが、それもじきに回復するだろう。君は王都から離れ、雨の森で存分に研究するといい。私に振られて、田舎に引いてしまったと思われるはずだ」
殿下の流れるような説明にうんうんと頷く。
さすが殿下。権力闘争を楽しんでいる。
「……それでいいのか?」
後ろで私と殿下のやり取りを聞いていた兄がボソリと呟いた。
それは私に聞いているのか、殿下に聞いているのか、微妙な声色で……。
兄が私に聞いたのか殿下に聞いたのかはわからない。
けれど、私はその兄の言葉に、はい、と頷いた。
「私は行きます」
「……そうだね」
私がしっかりと頷いたのを見て、殿下もふっと笑う。
兄はそれにはあと溜息を吐いた。
「それなら、もう行くといい。私と殿下はこれから諸事に忙しくなる。お前も雨の森へ行くのなら、準備が必要だろう。家へ帰り、母に相談しなさい」
「はい、お兄様」
お兄様の言葉を受け、殿下に礼を取り、部屋を退室する。
パタンと扉が閉まると、なんだかぎゅっと胸が痛んだ。
十三歳で殿下に出会った。
くじで婚約者になっただけだけど、一つ年上の殿下はいつも優しくしてくれた。
たった二年間。
私が十五になるまでの間だけだったけど……それでも……。
そこまで考えると、私は先ほど閉まった扉をバンッと開けた。
中には驚いた顔の殿下と眉を顰めた兄の顔がある。
私は兄の顔を見ないようにしながら、殿下に近づき、その手を取った。
「殿下――シャルスターク様。私、ちょっと、今のは間違えました」
「間違い?」
シャルスターク様がパチパチと目を瞬く。
私はその碧色の目をしっかりと見て、言葉を続けた。
「婚約破棄にありがとうございます……と言ってしまいましたが、そうじゃなかったです。……あの、二年間でしたが、私はシャルスターク様といるのが嫌いではありませんでした」
「そう? 王宮には嫌そうに来てたよね」
「それは、勉強が嫌だっただけです」
そう。妃教育が嫌だっただけで、シャルスターク様が嫌だったわけじゃない。
「一緒にお茶をしたり、庭園を歩いたり……。シャルスターク様はいつも私の話をクスクスと笑って聞いてくれました。完璧な婚約者じゃないのに、笑って許してくれました。きっと、シャルスターク様でなければ、もっとつらい日々だったと思います」
「……私も君と過ごせて良かったよ。今まで君をここに留めてしまい、申し訳なかった」
「いえ、あの……くじでしたから」
ね? とシャルスターク様に微笑みかける。
そして、シャルスターク様の手をギュッと握った。
暖かくて優しい手。二年間、私を守ってくれた。
「私、雨の森でがんばってきます。それで、この国のためになるような発見をしてきます」
シャルスターク様から手を離す。
「シャルスターク様。婚約者になってくれて、ありがとうございました」
うん。こっちのありがとうの方がずっといい。
私はそれだけ言うと、にこっと笑って、礼を取った。
そして、今度こそ本当に殿下の部屋を出て、走る。
私は自由だ。
雨の森へ行くんだ。
「やったぁ!」
誰が見ているかわからないけれど、中庭を走りながら、ピョーンと飛び上った。
殿下との話しが終わった私は家へと帰る馬車へと飛び乗った。
父はまだ仕事で家にいなかったため、早速、母へと事情を話す。
私から婚約破棄の話を聞いた母はとても驚いていたが、なんとか納得してくれた。
「それでも、雨の森へ行くなど……。あなたはまだ十五の少女なのですよ? わかっているのですか?」
「大丈夫です、お母様。私はずっとこの日を夢見ていたのです」
「……確かに、あなたは幼いころより、雨の森へ行くのが夢だと言っていましたね」
「はい……。私、お母様が大好きです。大好きなお母様は私の夢をいつもにこにこ聞いてくれました」
雨の森へ行く事を渋る母を上目遣いで見上げる。
末っ子奥義。必殺、上目遣いで大好きなお母様攻撃。
「大好きなお母様が話を聞いてくれたから……私は夢を持ち続ける事ができました」
ちょっと甘えた声音でじっと母を見る。
私の攻撃を受けた母は、その目を潤ませて、ぎゅうっと私を抱きしめた。
「ああ、そうね。私の大事な小さなヴァラ……。あなたの夢を応援したのは、誰でもないこの私」
「はい。大好きなお母様が私を応援してくれました」
よし、あと一押し。
今日は『大好き』を増量しています。
兄には効きにくくなったこの必殺技。母にはまだまだいける。
「……そうね、わかりました。婚約破棄の事もあり、王都にいるのはつらいでしょう。すぐに準備をさせます」
「お母様っ、ありがとうございます」
大好き、とぎゅうっと抱き返せば、母はうふふと柔らかく笑った。
そうして、母との話を終え、私は部屋へと下がった。
母を味方につけてしまえば簡単だ。父も承諾してくれるだろう。
部屋に戻った私は衣裳部屋から様々な服を取り出し、ソファへと並べていく。
とにかく、雨の森へ行く準備を急いでしなければならない。
一週間後の夜会には殿下は新しい婚約者を連れていくつもりなのだ。
できればそれまでに王都を出ておきたい。
「お嬢様っ、婚約破棄なさったというのは本当ですかっ?」
私の突然の知らせに、屋敷はバタバタと騒がしい。
そんな喧騒の中、薄い茶色の髪に灰色の目をした青年が私の部屋へとやってきた。
「ツヴァイクッ」
懐かしいその顔。
私は思わず駆け寄って、ぎゅうっとその手を握る。
ツヴァイクも感激した面持ちで、私の手をぎゅうっと握り返した。
「お兄様についていなくていいの?」
「はいっ、ヴァラグリーア様の事が報告されると、すぐに屋敷に行くように、と」
「そっか……」
きっと兄二人が配慮してくれたのだろう。
その心遣いに自然と顔が笑顔になる。
ツヴァイクは私の元、従者だ。
本来なら一番上の兄の従者として、屋敷に来たのだが、私がどうしてもと駄々をこねて、私の従者にしてもらった。
私が五歳、ツヴァイクが十歳の時だ。
それからずっと一緒にいたのだが、私の婚約を機に、ツヴァイクは本来の予定通り、一番上の兄の従者になった。
第三王子の婚約者に妙齢の男の従者がいるのは世間体がよくなかったのだ。
兄の従者になったツヴァイクと第三王子の婚約者になった私は屋敷でも顔を合わせる事はなく、こうしてお互いに言葉を交わすのは久しぶりだった。
「ツヴァイク。私、雨の森に行くの」
「っ、雨の森に?」
「うん。……約束したよね? ツヴァイクが雨の森に一緒に行ってくれるって」
ずっと、ずっと。
私のそばにはツヴァイクがいた。
薄い茶色の髪はサラサラしてて、少し垂れた灰色の瞳はいつも優しく私を見てくれた。
「ツヴァイクが不思議な生物の事をいっぱい教えてくれた。私、ずっと行きたかったよ」
雨の森へ行きたかった。
ツヴァイクと行けると思っていた。
――あのくじで婚約者に決まるまでは。
「俺、お嬢様とはご一緒できないと思って……っ」
私の言葉を聞いたツヴァイクの目からポロっと涙が溢れる。
私はそれを見て、あははと笑った。
「ツヴァイクは相変わらず泣き虫」
「……っ、これ、は、お嬢様がいつもいつも……」
一度堰を切った涙はもう止められないようで、ボロボロとその目から涙を零す。
……五歳も上なのに、本当に仕方ないなぁ。
私はその目元に白いハンカチを当てて、次から次に溢れてくる涙を何度も拭った。
「ツヴァイクがいないと髪も編み込めないし、せっかく不思議な生物を観察しても絵に残せないからね」
「っ……、ふっ……お嬢様は、絵がへたくそですか、らね」
「ツヴァイクが代わりに描いてね」
ハンカチで涙を拭いながら声をかけると、ツヴァイクがはいっ、と頷く。
「ツヴァイクが言ってくれたでしょ? この黄緑色の髪もとび色の瞳も。雨の森に入れば保護色になるって」
「……っはい」
「それから、この髪も瞳も好きになったよ」
四人姉弟の末っ子で。
出来のいい姉や兄に囲まれて、同じ色彩の自分なのに、あまり上手くできなくて……。
もうイヤだって思ってたのに、ツヴァイクが私の事を見てくれた。
雨の森に行きたいって言ったら、いっぱい勉強して、色々と教えてくれた。
最初に行きたいって言ったのは私なのに、私よりも物知りになっちゃって。
「これも、これも、ぜーんぶ、今日のために持ってたんだよ」
私はツヴァイクから手を離し、ソファの上に広げていた服を手に持つ。
どの服も緑色や茶色をしており、上下が別れている。
スカートは一枚もなくて、すべてキュロットやスラックスばっかりだ。
「ショートブーツも、雨除けの外套もあるんだよ?」
ずっと、集めてきた宝物。
それがようやく意味を成す。
「今日ね、渡り鳥が雨の森に飛んで行ってた。……私、それを見上げてね、私も飛んでいきたいなーって思ったんだ」
私は第三王子の婚約者で。
夢なんか見ちゃいけなくて、ずっと籠の鳥なんだって思ってた。
「もういいんだって。なんか私、飛んでいけるみたい」
あははって笑って、ずっと泣いているツヴァイクの目を見る。
灰色の目は相変わらず優しくて……。
「ツヴァイクも一緒に行こう? 雨の森で不思議な生物を観察しよう?」
上目遣いでじっと見上げれば
「っはい、お嬢様。……喜んで」
ツヴァイクが泣きながら、蕩けそうな笑顔で返してくれた。
9/21活動報告に王子視点の小話upしました
10/19活動報告にその後の小話upしました
2/19活動報告に兄と王子のその後の小話upしました