らぶらぶ・ファイヤー ~恋は火力で勝負よ!~
あるところに、一人の内気な少女がいました。
彼女の名前は水谷恵理、まだ恋を知って間もない中学生です。でも、その恋は片想い。彼女は想いを伝えるどころか、相手に話しかけることすらできませんでした。
彼女は神様に祈ります。どうか彼に振り向いてもらえますように、と。
しかし、神様はそんな一人の少女の願いを叶えられるほど暇じゃありません。毎日のように夜空へ向かって祈り続ける彼女を、神様はずっと無視しつづけました。
ある日のこと、恵理が一人、家路に続く田んぼ道を歩いていると、ふいに頭の上に何かが落ちてきます。幸い落ちてきたものは軽かったらしく、彼女は驚いた程度ですみました。
恵理は目をまんまるくさせて少しだけ痛かった頭をさすり、落ちたものを見つめました。それは小さなノート、A5版くらいの真っ黒なものです。不思議に思った彼女は空を見上げました。
そこにはただ青空が広がるたけ、周りにだって何一つ高い建物なんかありません。
誰が落としたんだろう? そんな呑気な事を考えながら、好奇心にかられた彼女はノートをパラパラとめくります。中にはどこか知らない国の言葉なのか、それとも暗号なのか、よくわからない記号が書かれておりました。
けーさつに届けなくちゃね。素直に彼女はそう思い、今まで歩いてきた道のりを引き返そうとしました。
しかし、ページをめくっていた手が止まります。それと同時に歩いていた足も止まります。彼女の興味がページの一点に集中します。
そこに書かれていた文字は、日本語でした。
『恋の魔法薬』
まさかね、そう思いながらも彼女は下に書かれている説明を読むことにします。
『恋の魔法薬に関するレポート』
・相手に自分を惚れさせる薬の材料
赤ワイン グラス一杯
カモミールの葉 一枚
イモリの黒焼き 一匹分
ハシバミの小枝 一本
……
ここに書かれている材料は、その気になれば手に入れられるものばかり。もちろん、誰かが冗談で書いたのかもしれません。それでも恵理は、その先を読まずにはいられませんでした。
・薬の調合方法
黒焼きにしたイモリは粉にし、赤ワインに溶かしてその中にカモミールの葉を浮かべます。ハシバミの小枝と……
冗談にしては手が込んでいる。でも、魔法の薬なんてこの世の中に存在するわけがない。そう思いながらも彼女は、読むのをやめることができませんでした。
なにせ、相手に惚れさせることができるという薬。それが百パーセントの確率ではなくても、おまじないのような効果があるのでは、そう彼女は考えていたからです。
恵理もいちおう女の子、占いやおまじないに興味がないわけがありません。好きな人だっているのですから、今まで本や雑誌に書いてあることを試したこともあるはずです。
夢中で読み、時間の感覚がなくなりながらも、文章から目が離せません。
日も落ちかけて、ノートに書いてある文字が見えなくなってきて、ようやく彼女は自分が立ち止まったままでいることに気がつきました。
これでは、ママに怒られてしまいます。続きは家で読もうと、再び家路を駆け出しました。
家に帰って夕飯もそこそこに自分の部屋へと戻ると、恵理は真っ先にあのノートをひろげました。そして、読むこと数時間。
宿題なんか手に着くはずもなくひたすら文章へと集中し、そこに書かれていることを彼女なりに考え、時には疑い、時には納得していきます。
それは、物語を読む事や勉強する雰囲気とはまったくかけ離れた特異な感覚でした。
ぱたんと、ノートを閉じます。読み終わってその内容を整理するために、吐息を軽くつきました。
読めば読むほど不思議な内容。理論はどうかわかりませんが、書かれている事柄には妙に説得力があり、彼女は感心したものでした。
ものは試しと、恵理は比較的簡単にできそうなおまじないを(彼女はこの時点では魔法とは思っていないのです)一つだけ実践してみることにします。
項目は、『好きな相手に声をかけてもらう方法』。
満月の夜、カモミールの葉で入れたお茶を銀のスプーンでかき混ぜながら呪文を唱える、という誰でもできそうなものでした。
今日は、ちょうど満月、恵理の家にはカモミールティーも銀のスプーンもあります。あとは呪文が言えれば問題はありません。
さっそくお湯を沸かして、カモミールのティーバックを探します。でも、ティーバックなんかで効果が薄れなければいいな、とちょっと不安になったりする恵理でした。
銀のスプーンは従姉妹の誕生日の時の引き出物で奥の方に仕舞われているのはわかっておりました。が、それを探し当てるのに大変な苦労をすることになった彼女でした。
カップにお湯を入れてから探し始めたので、見つかった頃にはいかにも渋そうなお茶ができてしまったのです。
それでもめげずに、彼女はそっと自分の部屋へと戻ります。あとは、呪文を唱えるだけですから。
ノートを確認して、心の中でひとまず唱えてみます。何事にも練習は必要です。本番で言い間違えたら洒落になりません。彼女は胸の高鳴りを抑え込みながら、カップの中でスプーンを回します。
「シュンパテイア」
声に出しながら恵理は頬を赤く染めてしまいます。誰かに聞かれたらどうしようという気持ちと、こんなおまじないを真剣にしている自分が恥ずかしいという感覚が、彼女の頬を染めているのでしょう。
「これで効き目があらわれれば……」
ふとそんな気持ちを口に出しながらも、おまじないに頼らなくても自分から話しかけられればいいのに、という気持ちが心の中で衝突していました。
彼女は、自分の性格を変えられないかとノートを読み探しましたが、そのほとんどが恋に関するものばかりです。
「もしも彼が振り向いてくれたのなら、わたしはきっと変われるはず」
恵理は心の中で強く強く誓いました。
それにしても誰が落としたんだろう? まさか神様がわたしの為に……なんてことはないよね。でも、もし本当に神様の気まぐれでこのノートが手に入ったとしたならば。
うん。そうね、神様にお礼を言わなければいけない。恵理は、部屋の窓を開けると夜空を見上げます。今日はお願いではなく、感謝の気持ちです。そう、呟きながら彼女はそっと手を合わせました。
**
「水谷さん」
恵理はそう呼ばれて心臓が飛び出さんばかりに驚きました。でも、奥山くんの見ているところでそんな醜態は見せられません。彼女は冷静を装って、呼ばれた方へと振り返ります。
「な、なんですか」
さすがに緊張だけはとれません。わずかながらに声が震えてしまいます。
「広山センセが呼んでたよ」
なんだそんな事かと、恵理は拍子抜けしてしまいました。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言ってすぐに職員室の方へと歩き出そうとすると、彼はまた声をかけてきました。
「水谷さん」
胸の鼓動がどきりと一段階早くなります。
「え? なんですか?」
二度も呼ばれて照れてしまい、彼の顔が見られずに、おもわずうつむいて振り返ります。
「クラスメイトなんだからさ、敬語使うのは変じゃないか?」
「ごめんなさい」
条件反射的に彼女は謝ってしまいます。なんだかそれが彼女の癖のようなのです。
「ま、いっか。強制することじゃないし」
奥山くんは恵理の態度に悪気を感じてしまったのでしょうか。頭を掻きながら困ったような顔をします。もちろん、彼女は彼のそんな態度にも気づいていません。
恵理は頭を上げるとともに、駆け出していきます。この場にいることが気恥ずかしいのでしょう。
せっかく声をかけてくれたのにもったいない、そんな気持ちはないのでしょうか?
でも、むしろ二回も自分の名前を呼んでくれたことに喜びを感じているのでしょう。単純な性格といえば単純なのかもしれませんね。
さてさて、職員室での用事も済んだ恵理は、親友のところへやってきます。でも、昨日のノートの件を話すべきでしょうか。彼女は悩みます。そんな仕草も、彼へ告白できない悩みだと勘違いしている親友の美咲は、どんどんマイペースで話を進めていきます。
「今日、奥山くんと話してたでしょ? 私見ちゃったんだから」
「え? 話といっても広山先生に呼ばれているって、伝言だけだよ」
「でも、一対一で話せたじゃない。念願叶ったりってか?」
「もう茶化さないでよ。緊張してまともに喋れなかったんだから……それに」
「それに、なに?」
「敬語使うなって言われちゃった。なんか恥ずかしい」
「恵理って人見知りが激しいっつうか、他人さまに対して縮こまっちゃうっていうか。その性格なんとかしないと、奥山くんに告白どころじゃないよね」
「美咲ぃー、声大きいよぉ」
「まあ、偶然をもっと期待しながらさりげなく親しくなるのが、恵理には合っているのかもしれないね」
美咲は勝手に話をまとめてしまいました。恵理はそう言われて返す言葉もないまま、魔法のおまじないのことも拾ったノートのことでさえ話題としてあげづらくなっていきます。そして、いつの間にか「バイバイ」と手をふる状況になり、一人とぼとぼと家路を歩く羽目になりました。
「今日はどれを試そうかな」
おまじないの効果は少しずつ少しずつ確実に表れています。恵理は比較的簡単に調合できる薬やおまじないから始めていきました。今では奥山くんと挨拶ができるほどまで進展しています。これもノートのおかげかなと思いつつ、だんだんと欲は出てきます。 今までは、声をかけてくれるとか挨拶ができるとか、一日に何回も出会えるとか、他人から見ればたわいもなく、恋としての効果も薄いものばかりでした。
結果、少しずつ進展してくればしてくるほど、もう少し強いおまじないを試したくなります。でも、一番に興味を惹かれた「相手を自分に惚れさせる薬」は、今までのような簡単に調合し実践できるものではなく、それなりの準備と覚悟が必要なものなのです。
だいたい、イモリの黒焼きなんてどうやって手に入れましょうか? 昔から虫や爬虫類が苦手であった彼女には、外で捕まえてくるなんて方法はとれません。第一、見つけても触ることすらできないでしょう。
彼女は考えました。もっと奥山くんと話したい。もっと奥山くんを知りたい。そのためには、奥山くんと仲良くならなければいけません。でも、彼女には告白する勇気も、ましてやそれが成功する勝算すらありません。ならな、手っ取り早く、魔法の薬を使うしかないでしょう。
もし仮に、このノートに書いてあることがデタラメだとしても、誰に迷惑をかけるわけではありません。黒こげにしたイモリはかわいそうかもしれませんが、誰も傷つかないし、彼女もほんのちょっぴりの期待を裏切られるだけなのですから。
試してみてダメでもともとです。この世に魔法なんかなくても生きてはいけます。
彼女はそう思い立ち、材料集めにとりかかりました。
17種類のうちの7品までが家の中で調達でき、9品が店で買えばなんとかなる代物でした。
「イモリはどうしよう?」
悩んだあげくに、商店街をぶらぶらと歩きます。ぴんと閃き、それと同時に看板が目に映ります。なんてグッドタイミングなんでしょう。
ちょっとあやしげな扉を開けて中に入ります。
「あの……」
恥ずかしいので声のトーンは落とします。
「いらっしゃい、なんでしょう?」
元気な対応の店の人の声。ここは、古びたペットショップです。
「あのー、爬虫類とかいますか?」
「いますよ、いますよ。ヘビからイグアナまでだいたいは揃っています。えー、何かお探しですか? もしかしてお友達にプレゼントかな?」
両手をこすり合わせながら店員が恵理に近づいてきます。そのあまりの迫力に、彼女は少し後ずさりしてしまいました。
「イ……モリなんですけど」
「イモリですか、今どき珍しいですね。家で買うならヤモリの方は人気はありますが」
本当かどうかわからない説明を店員は彼女にします。
「イモリを頂けますか」
「イモリでしたらこの入れ物にいっぱい入っていますが」
店員の指さす方向には、透明ケースに入ったイモリが何十匹とその中を蠢いていました。恵理は、貧血になりそうな頭を抑えながらこう言いました。
「どれでもいいです。一匹いただけますか?」
思わず目を背けてしまった恵理を訝しげに見つめながら、店員は無言でその中の一匹をとってくれました。
「お客さん。餌はどうしますか?」
そう訊かれて、恵理は返答に困りました。だって、飼うわけじゃないのですから餌などいらないはずです。でも、黒焼きにするなんて言えるはずがありません。
「それもつけていただけますか」
彼女はそう言うしかありませんでした。
こうして、17種の材料を手に入れた恵理は、籠の中でかさかさと動き回るイモリに目眩をおぼえながら、なんとか帰路につきました。
情が移らないうちにイモリの処理をしたいのですが、どうすればいいのでしょうか?
恵理の魔法の薬へ本格的な試みは、大きな問題を残して座礁してしまいました。
あれから何日かたち、イモリはすくすくと育っています。恵理もようやくその姿になれ、触れる程度にまでなりました。それはいいのですが、今度はペットとしての情が移ってしまい殺すことを躊躇ってしまうようになりました。
材料はそろってます。あとはイモリのペロちゃんをどう処理するか? え? あきらめるんですか? もったいない。ここまで用意をしておいて、それを試さないのはもったいないというものです。恵理はやはり優しすぎるのか、それとも勇気がないだけなのか、それは彼女自身にもわからないことなのです。
そんなある日、学校から帰った恵理が籠の中を見ると、ペロちゃんがいないことに気づきます。よく見ると、フタが少し開いているじゃありませんか。たぶん、彼女が昨日餌をやった時にきちんと閉めるのを忘れたからでしょう。
「ペロちゃーん」
呼んだところで返事の返ってくるような生き物ではありません。でも、彼女は愛おしげに呼びながら部屋中を探し回りました。ふと床を見ると、机に積まれていた辞書の一冊が落ちていることに気づきました。何かの拍子で落ちたのだろうか? そう思い辞書を手に取ると、その下には哀れにも潰れかけたイモリの亡骸がありました。
こぼれ落ちる涙、そして胸の痛み。あんなにも嫌っていたイモリ。でもやっと好きになれたかもしれなかったのに。そんな想いが恵理の中で沸き上がり、泣かずにはいられなかったのでしょう。
「かわいそう……わたしに飼われなければ、こんなことになることもなかったのに。わたしが欲を出したばかりに」
泣きながらイモリをハンカチの上に乗せ、このまま土に埋めてお墓でも作ってやろうかと彼女は考えました。
でも、火葬の方がいいのかな? そんな考えが心を過ぎり、再び邪な考えが浮かび上がります。
黒焼き。
かわいそうかもしれない。でも、死んだことを悔やんでもしょうがないのです。運命は早まるか遅まるか二つに一つなのですから。
棺はハンカチからアルミホイルへと変わりました。そしてペロちゃんの胸にはセージの葉がのせられます。これは香り付けだとノートに書いてありました。
火葬場はオーブントースターです。親に気づかれないように、自分の部屋へと持っていき、コンセントを探します。
トレイにのせると「ペロちゃん、安らかに眠ってね」などと弔いの言葉を述べて、スイッチタイマーを最大までひねりました。
ほどよくしてヒーターは加熱して、じりじりと肉が焦げる音が響いてきます。
あとは待つだけ、これでペロちゃんは本来の材料となり、魔法の薬の成分の一つとなるのです。ああ、どうかこの罪のなき魂が救われますように、などと彼女はそこまでは考えなかったのでした。
チン! と音がして、なんだか香ばしい臭いが部屋に充満します。さて、これでこの黒焼きのペロちゃんを粉にすれば、第一段階の準備は終了です。
いざ、魔法の薬よ。もし本当に効き目があるのなら、わたしは他に何も願うことはないのです。だから、少しだけ期待をさせて。恵理のそんな想いが通じるのかはわかりません。が、一つだけはっきり言えるとすれば、それは彼女が少しだけ欲張りになったということです。
あれだけの材料で、できた分量は50ccあるかないかです。でも、問題は分量ではありません。効き目なのですから。
ノートによれば、この薬を相手の体内に入れればそれでいいそうです。飲ませるか、吸わせるか、皮膚からの吸収はかなり効果が薄いらしいとのことでした。
恵理は考えます。せっかく苦労して作ったはいいのだけど、問題はまだまだあります。飲ませるにしろ、吸わせるにしろ、直接行ったのでは不信がられてしまいます。なにせ彼女と奥山くんはそれほど親しい間柄ではないのですから。だったら、人に頼みましょうか? それもダメです。頼んだ人間が今度は不信がります。それよりも、恵理の知り合いに奥山くんとそれほど親しい人がいないことの方がネックでしょう。
水風船に入れて投げつけるとか? それもダメです。皮膚からの吸収は効果が薄いらしく、第一そんな子供っぽいことして、もし外れたりしたら薬を失うばかりか彼に嫌われてしまいます。
さて、どうしたものかと恵理は再び頭を悩まします。
何かヒントはないかと、ノートを再び読み返すことにしました。
項目「副効能:心ばかりでなく肉体の傷口をも回復する力があります。ただし使いすぎに注意」
惚れ薬が傷薬? なんだか妙な副効能に頬を緩める恵理でした。でも、試してみる価値はあるかもしれない。それが効き目を確かめる確実な方法なのだから。彼女はそう思い立って、裁縫箱からまち針を取り出します。そしてそれを小指に刺しました。
「痛!」
ぷつんという感覚とともに赤い点がじわじわを広がり、刺したところから血が盛り上がって出てきます。
「もし本当に効き目があるのなら」
スポイトで魔法の薬を吸い取り、血が出た指先へとぽとりと落とします。するとどうでしょう。痛みがすぅーっと引いていき、ぴたりと血が止まりました。ティッシュでふき取ると、そこには刺された後がありません。
「嘘?」
思わず声にだしてしまう恵理でしたが、小さな傷では気のせいという可能性も強いのです。今度は思い切って手のひらに、カッターで1センチくらいの傷をつけました。
これなら見た目にもわかりやすいです。もしこの傷がきれいさっぱり消えたのなら、薬の効果は本当だということでしょう。
再びスポイトで傷口に数滴たらします。まるで、麻酔のようにすぅーっと痛みが消えていき、傷口も嘘のようにふさがってしまいました。
「あとは本当に惚れ薬としての効果があるかね」
次の日恵理は、コンビニで猫用の缶詰を買います。もちろんポケットには小瓶にいれた数ccの薬が入っています。
近所にいる野良猫は人見知りが激しく、いくら優しく話しかけても寄ってきたりなんかしません。それは単に恵理が、猫をあまり好きじゃないからかもしれませんが。
でも、今日は魔法の薬があります。もし、この薬の入った餌を食べたのなら期待通りの効果が持てましょう。しかし、人間以外に効くのかな? そんな疑問も浮かびあがります。人間で実験できない以上、猫で試すしか手はないのですから、それもしょうがないのでしょう。効果がなかった時は別な方法を考えればいいのですから。
猫缶のフタを開けます。缶切り不要なので、そのまま引っ張るだけの簡単なものです。その中に魔法の薬を小瓶から数滴垂らします。
恵理の嗅覚にはとても甘く心地よい感じが伝わります。猫にはどうなのでしょう。かえって警戒してしまうのかもしれません。そんなことを考えながら、彼女は缶詰を猫のよく通りそうな建物と建物の間の狭い通路部分に置きます。
明日再び来て、餌がなくなっていればどこかの猫が食べた証拠です。もしその猫が恵理になついてきたのなら成功なのかもしれません。食べてなかった場合は猫が臭いに警戒してしまったということ、食べていても猫が寄ってこなかった場合は、人間以外の動物には効かないのか、それともそんな効果なんて初めからなかったのかのどちらかになります。ほんとは人体実験をやりたいのですが、親を試すわけにはいきません。もちろん親友の美咲なんかにこの薬を飲ませたら大変なことになるのです。
あくまでも、あせらずじっくり様子を見ましょう。そう心の中で落ち着けて家に戻ることにします。
真夜中。
何かの音で恵理は目覚めます。時計の針は2時16分。なんだかうるさいなぁ、と思いながら眠い眼を擦ります。
マャーオ。
なんとも甘ったるい猫の鳴き声とともに、彼女の部屋の外壁をがりがりと引っ掻くような音も聞こえてきます。
「なんだろなぁ」
寝ぼけた頭には、夕方に仕掛けた猫の餌のことなど思い出せるはずがありません。仕方なく恵理は、部屋の窓を静かに開けます。
窓から顔を出した途端、鳴き声の主であろうと思われる猫と目が合います。猫のほうはというと、何かを訴えかけるようにミャーミャーと鳴いています。
「あなた、もしかしてあの餌食べたの?」
恵理はやっとそのことに気が付きました。でも、そんな質問をしたところで伝わるわけがなく、猫はただミャーミャーと鳴いているだけです。
彼女は窓から身を乗り出して、庭に迷い込んだ猫を抱き上げました。
猫の瞳はどこか焦点の合っていない感じです。部屋の中にそっと置くと、猫は彼女の方へとすり寄ってきました。
「本当にわたしに惚れちゃったのね?」
恵理は微笑みながら猫を見つめます。惚れさせちゃった責任もあるのだから一緒に寝てもいいかな、そんなことを考えながら自分のベッドに猫を招き入れました。
今はまだ少し肌寒い季節。なんにせよ、ぬくもりはありがたいものです。
彼女は薬の効果に喜びながら、その日は奥山くんのことを想いながら眠りにつきました。
『料理は愛情!』
だらだらとテレビを見ていると、いつもの料理番組が始まります。
恵理は学校から帰ると、頭を抱えながら部屋に戻り、悩み疲れていつしかリビングでソファーに寝転がりながらテレビを見ていました。
薬の効果があることは証明されました。あとは方法です。学校で、奥山くんに接触する方法をいくつか考えました。でも、それほど親しくない間柄です。もっとも接近できてもせいぜい2、3メートル、無理矢理薬を口に押し込むことなんてできません。人目も気になりますし、そんな態度に出た時点で警戒されてしまいます。そうなったら二度とチャンスはないのですから。
紙飛行機の先に薬をつけて……なんてことも考えましたが、うまくいくわけがない。頭からどぼどぼと薬をかけるなんてのは問題外。彼女は、考えに詰まってしまい気分転換にとテレビをつけたのでした。
『今日は鯉を使った中華料理です。中華は火力が勝負ですからね』
たわいもない説明を出演者の一人がしています。
「恋も料理みたいに誰でも簡単に作れればねぇ」
恵理は自分では気づいていないようですが、ギャグではないのでしょう。思い詰めた頭にはそんなユーモアなんか欠片も残っていないのですから。
さてさて、テレビでの気分転換もうまくいかず、恵理は再び外へ出かけることにします。外をぶらぶらと散歩する。人間の頭というのは、身体を適度に動かしてリラックスしている時の方が良いアイデアが浮かぶことが多いのです。
もう日も暮れかけて、長い時間は散歩できないな、と思いながら空を見上げます。夕焼けの茜が空を染めかけています。
茜色はとても寂しい色だけど、なんだか暖かみも感じる。そんな詩的なことを考えて上を向いていたものだから、何かがぶつかってきても、それを避けることはできませんでした。
「痛!」
衝撃で尻餅をついて、おもわず恵理は軽く悲鳴をあげます。
「気をつけろ!」
我に返って前を見るとヤクザ風の男の人も同じように尻餅をついて倒れています。
「ごめんなさい」
たしかに前を向いていなかった恵理も悪いのですが、この男の人だって同じことでしょう。でも彼女は、それを追及する気にはなれませんでした。
男は無言で立ち上がると、焦ったように走り出していきます。
恵理はあっけにとられて倒れたままの状態なのです。なんだか、嵐が過ぎ去っていったような気分でした。
お尻の埃を払い落とすと、恵理は何事もなかったかのように歩き始めました。今、考えなければいけないのは、いかに効率よく薬の効果を引き出すかなのです。
考えに考えながら歩いていたので、思った以上に遠出をしてしまいました。気が付くと工場跡地の寂れたところにまで来てしまっていました。
ここは、ひとけがないので気をつけなさいと学校からも親からも注意されていた場所です。早く帰らなくちゃいけないと思い、どうせなら近道をと思ったのでしょう。恵理はそのまま工場跡地内に入り、反対側にある道路まで突っ切って行こうと走り出しました。
何かの突起物で、彼女の足が引っかかります。倒れそうになりましたが、なんとか持ちこたえます。
「なに?」
好奇心にかられて、恵理はその場所を調べてみることにしました。
地面からわずかに出たその突起物は、布袋のようなものに包まれています。しかも、ここだけ埋め直したような後がある。幸い、工場のその部分は砂地だったためか、物体を掘り起こすのにそれほど手間はかかりませんでした。
恵理と同じくらいの丈はあるだろう長い布袋に棒状の物が2、3本、それから底の方に箱に入った何かが触った感じからわかります。重さはけっこうなものなので、持ち帰るわけにもいきません。
彼女はますます好奇心にかられて、袋の中を出してみることにしました。
最初に冷たい金属の感触。それが棒状のものの正体でした。まさか、鉄でできたほうきなんてことはありませんよ。棒と言うより筒状のものと言ったほうが正確なのでしょう。
恵理は恐る恐る袋からその物体を出してみます。それはどこかで見たような物でした。彼女は記憶をたどります。この前、美咲と行ったアクション映画に似たような物が出てきたよね? そう自問する彼女です。
もし彼女の見間違いでないのなら、それは銃の類のものでした。この大きさはライフルって言うんだっけ? 正確な名称を知らない彼女は首を傾げます。
「でも、本物じゃないよね?」
恵理は試しに構えてみます。と、言っても映画の見よう見まねなのでした。引き金に指をかけ「ばん!」とまるで悪戯好きの子供のように言ってみました。
バン!
もの凄い爆音が彼女の耳を劈きます。しばらく耳鳴りがして呆気にとられる彼女でした。
「本物なの?」
彼女はびっくり仰天、目をまんまるくさせながらライフルを見つめます。
けーさつに届けなくちゃ。彼女は素直に考え、暴発しないようにそっと地面にライフルを置くと、すかさず駆け出します。
ふと何か嫌な予感が頭をよぎります。痛々しい鳴き声が僅かながらに聞こえてきます。
「まさか」と思い、目を凝らして辺りを見回します。
クゥーンと、こちらを見つめる瞳を見つけました。そこに倒れていたのは野良犬です。
血?
はっきりとは見えませんが、お腹の部分が黒く濡れたように見えます。
「まさか……わたしが撃ったから?」
手で触るとべとりと血液がつきました。
「なんで? わたしが好奇心なんか持ったりしたから?」
彼女は自分を責めます。それが彼女に出来る唯一の償いなのかもしれないのですから。
「ごめんなさい。謝ってすまないかもしれない……でも、わざとじゃなかったの」
恵理の瞳から涙がぽろぽろこぼれ落ちます。いくら言い訳しても野良犬は助かるわけではないのです。彼女はどうしようもなくなり、身体から力が抜けていきます。
膝をつき、途方に暮れます。そんな彼女のポケットから、小瓶がぽとりと落ちて転がっていきます。
最初は、虚ろな瞳でそれを追いかけるだけでしたが、薬の効力を思い出しはっとする彼女でした。
「まだ、助けられるかもしれない」
急いでその小瓶を拾い上げると、蓋をとって中の液体を野良犬の傷口部分へと垂らします。
「お願い」
祈りは通じるはずです。なんといっても魔法の薬なんですから。
薬を垂らしてほんのしばらくして、何事もなかったかのように犬が立ち上がります。 そして「ワン」と軽く吠えると、尻尾を振りながら恵理のところへとすり寄ってきました。
「よかった」
犬の頭を撫でながら恵理は考えます。猫についで犬まで飼うなんていったら、ママはなんて顔するのだろうな。
結局、恵理は警察には届けずに袋ごと家に持ち帰ってしまいました。もちろん重いので何回かに分けてです。もしかしたら、あのヤクザ屋さんが隠したんじゃないかと思われるんですけど、そんな事は彼女には関係ないようですね。いざとなったら、魔法の薬という武器もあるのですから、心配は無用でしょう。
さて、肝心の彼女はどうしたかというと、あれから本屋や図書館に通う毎日を送っています。え? 何を調べているのかって? もちろん、拾って来た物に関する事に決まっているじゃないですか。マニアックな銃器の雑誌から、専門書まで、武器の取り扱いのことを勉強しています。たぶん、試験前でもあんなに夢中になったことはないのでは、と思うくらい本人も一生懸命になっています。しかし、いったい彼女は何を企んでいるのでしょう?
弾は4発。弾頭に薬を塗り込めたのはこれだけです。ピーノ(犬に付けた名前)の怪我を治すのと、自分の傷を治す練習に随分使ってしまったので、残り分すべてでこれが精一杯です。ノートをよく見たら、惚れ薬としての最低限の分量が書いてありました。
ライフルは、パパに内緒で借りた釣り竿のケースに入れて、商店街の一番高いビルの屋上へと登ります。
今日はサッカー部の朝練があるので、彼はこの通りを歩くはずです。
まだ、日も昇っていませんが、恵理の心はウキウキでした。ここから狙って奥山くんのハートを撃ち抜きます。大丈夫、弾の先にはなんといっても薬が付いているのです。 本当に大丈夫、だって彼女は自分で試してみたんですよ。痛みもなく、傷口はみるみる塞がっていったようです。怖くなかったんでしょうか? いえ、恋は何ものにも強いものです。ひとまず彼女の勇気を讃えましょう。
で、すっかり用意の整った恵理は、体勢を低くしてライフルを構えています。奥山くんが来るまでまだ数時間はあるのですが、彼女にとっては待つ時間も楽しみなのでしょう。なんといっても、彼女は恋をしているのですから。
恋のスナイパー。なんてぴったりな名前なんでしょう。彼女は、頬を緩めます。
でも、かのじょー、誰かがあんたの今の姿を見たら……。
ターゲットスコープに彼の姿が映ります。そうです、待ちかねたあの人がやってきたのです。恵理は高鳴る鼓動を抑えながら、慎重に引き金に指をかけます。
彼のハートハートハート。目標は、奥山くんのハートです。
弾は四発しかありません。外さないようにと、神様に祈ります。
-バン!
大音響とともに奥山くんの右側にあったゴミ箱の蓋が吹っ飛びました。あっけにとられる彼の元へもう一発。
-バン!
今度は左側の自動販売機の見本の並んだ部分に当たります。その衝撃でガタンガタンと取り出し口にジュースが溢れ出てきました。
さすがの奥山くんも何が起こったのかに気が付いたのでしょう。血相を変えて走り出しました。
「だめ! 走ったら狙いが定まらない」
-バン!
「逃げられたらチャンスがなくなる」と、焦っての一発。
-バン!
「もう! 狙いが定められないじゃない」と、自棄になっての一発。
これで弾はなくなりました。ついでに奥山くんもいなくなりました。
さあ、落ち込んでいる場合ではありません。彼女も逃げなくては、もう二度と彼に会えなくなってしまいます。
急いでケースにライフルをしまい込むと、恵理は一目散に逃げ出しました。
でも、そんな彼女を見ても誰も疑うことはないでしょう。中学生の女の子がライフルをぶっ放すなんて、この治安国家の日本じゃ考えられないことなんですから。ほんと、よかったですね。
薬はもうないのです。だけど、どうすればいいかは考えるまでもありません。
さっそく恵理は買い物に行きます。今度は大量に作ろうと、材料も多めに買い込みます。最後はペットショップ。イモリはペロちゃんのことで慣れましたから、怖くはありません。気持ち悪くもないのです。
「いらっしゃいませ!」
あの元気な店員さんの声が聞こえてきます。
「すいません。イモリを百匹ほどもらえますか? 今度は買うんじゃないんですよ。うちのペットの餌ですから」
少し知恵をつけた彼女はそう言って誤魔化しました。百匹分の餌を買わされては予算をオーバーしてしまいますから、彼女も必死なのでしょう。でも、なんだか声は明るいですね。
店を出た彼女は、近くのビルが警察によって封鎖されていることに気が付きます。ちょっと悪びれた感じを受けながらもさりげなく歩く彼女を、警察どころか誰も気にとめようとしません。それは当然といえば当然のことなのでしょう。
でも、いいのかな?
家に帰ると彼女は薬作りに取り掛かりました。明日は日曜日、いくら夜更かししても大丈夫です。
恋は時に人を変えてしまうことがあります。人を強くすることもあります。でもでもぉ、最近の彼女ってなんか変じゃない? なんて噂を耳にすることもあるのですが、恵理にとってはそれは些細なことなんです。
彼女にとっては奥山くんがすべてなんですから。
さて、部屋には数十匹分のイモリの黒焼きが出来上がりつつあります。このペースで行けば明日の朝までには完成するでしょう。イモリを焼いている間ちょっと暇になるし、クッキーでも作っちゃおうかな、とピンクのかわいいエプロンをしたにわか魔女さんは呟きました。
朝から戦闘準備開始です。オーバオールの胸ポケットには拳銃を、背中の赤い小さめのリュックにはクッキーと換えの弾倉を、釣り竿ケースにはライフルではなくLMG(軽機関銃)が入っています。これは最後の手段、「数撃ちゃ当たる」の論法です。
さあ、いざ出発です。お目当ての奥山くんは、今日は隣町までサッカーの練習試合に行ったらしくお昼過ぎには帰ってくるでしょう。今度は慣れない狙撃なんて真似はやめたのです。至近距離からの一発、2、3メートルもあればいくら拳銃の扱いに不慣れな恵理でも当たるでしょう。ライフルよりも全然短いから、こっちの方がかわいくて好きだな、と訳のわからない感情を拳銃に抱いている彼女です。
隣駅の改札の近くで恵理は待つことにします。お昼過ぎに試合が終わるというだけで、ここに来るの正確な時間なんてわかりません。でも、家に帰るためには確実にここを通るはずです。その点においては、すっぽかされることもないので彼女は安心して待っていられます。
なんだか初デートのような感覚ですね。恵理は嬉しくて頬を染めてしまいます。
待つこと数時間、奥山くんはクラブの仲間たちと騒ぎながらやってきます。もちろん恵理のことなんかに気づくはずはありません。
彼女は、そっと後を付けます。彼が一人になったところを狙おうと考えているのです。でもでもぉー、それってストーカー行為っていいません? か弱い女の子なら許されるってわけでもないでしょう。
彼女は相変わらず心をときめかせながら、彼の後を追います。次の駅で彼は降りません。どこか寄る所があると、仲間たちと別れます。これは、チャンスとしかいえないでしょう。恵理は彼との間合いを詰めます。
目の前には彼の背中が2、3メートル近くまで迫っています。今は電車の中、こんなところで拳銃を取り出すわけにはいきません。必死に気持ちを抑えます。
しばらく電車に揺られ、大きなターミナル駅に着きました。そこで彼は下車して行きます。
すかさず、恵理は彼を追いかけて距離を離さないように、また近づきすぎないように気をつけながら歩きます。
駅前の大通りを渡って少し行くと、緑地公園が見えてきました。大きな公園ですので、もしかしたら二人っきりになれるかもしれません。
期待が高まり、それと同時に胸の鼓動も早くなります。とうとう薬を使うことができるんだ、そんな想いが今までの苦労の記憶を引き出します。
突然降ってきたノート。あれはやっぱり神様の仕業だったのかもしれない。そして、初めて試したおまじない。その次の日、初めて名前を呼んでもらえた。とても嬉しくて眠れなくて、また同じおまじないをやったりしたものでした。それから、忘れられないのがペロちゃんの尊い犠牲です。あのコがいなければ、恵理もこの薬を作る事ができなかったに違いありません。あとは、猫のジャックや犬のピーノの協力。今ではこのにわか魔女の、まるで使い魔のような忠実なる下僕です。これも怪我の功名?
武器を拾った時は、恵理はどうしようかと思ったけど、こんな使い方があるなんて考えもしなかった。あの時の閃きはわたしの一生分の能力を使ってしまったのかもしれない。
物思いに耽りながらも、足はしっかりと奥山くんを追いかけています。
公園の手前を曲がられたらどうしようかと思いましたが、彼はそこを突っ切っていくようです。それとも公園自体に用事があるのでしょうか?
今日は、なんだか人通りが少ないようです。これはかなりチャンス、今日の恵理はかなりツイてます。魚座のA型、よく当たる占い雑誌の通り、赤いものを身につけてきて正解でした。彼女は単純に喜びます。
ポケットから静かに拳銃を抜きます。安全装置を外して、目の前の彼の背中へと銃口を向けます。この距離なら当たる、そう思って引き金を引いた瞬間に、彼はしゃがみ込みます。靴ひもがほどけたのでしょうか?
-バン!
銃声だけが響きわたります。
奥山くんは驚いて後ろを振り返りました。
目が合ってしまいます。恵理は照れ隠しにと、微笑みを浮かべました。
「水谷さん? なにかの冗談?」
彼がひきつった顔で言いました。
「ううん。本気」
わたしは本気であなたのことが好きなの。そう言いたかったのでしょう。でも、恵理が持っているのはまぎれもなく拳銃です。それも本物なんですよ。
「それ、モデルガンだよね?」
早くしないと、また逃げられちゃう。そんな思いが、彼女の行動を焦らせます。
-バン!
弾は地面に当たって凄い音をしながら跳ねてどこかへ飛んでいきます。
「ちょっ、ちょっと水谷さん。俺、なんかキミに恨みを持たれるようなことしたっけ?」
両手のひらをこちらへ向けて、奥山くんは後ずさりします。
「ううん。恨みなんかないよ」
-バン!
また外れます。こんな至近距離でなぜ当たらないんだろう。そんな思いがますます彼女を焦らせます。
「人殺し!」
怯えたように彼は駆け出していきます。
「あ、待ってよ。奥山くん」
彼女はすぐにその背中を追いかけます。もちろん、拳銃を撃ちながら。待ってといったって止まってくれるわけがありません。彼女はそれに気づいているんでしょうか?
走りながら何発か撃つと、すぐに弾切れになりました。本で勉強した通りにグリップ部分にある弾倉を交換し、バレルを引っ張って再装填します。
-バン!
-バン!
-バン!
彼との距離はだんだんと離れていきます。恵理は一生懸命撃ち続けます。そのうちまた弾切れになりました。弾倉を交換し、また撃ちます。彼女はもう半ば自棄になってきています。
「なんで当たらないの?」
遠くの方からパトカーのサイレンの音が聞こえてきました。もう時間がありません。こうなったら最後の手段です。彼女は、拳銃をしまい込むと、釣り竿のケースからLMGを出しました。彼女の背丈ほどはある機関銃です。ちょっと重いですが、両手で扱えるのでなんとかなるでしょう。
彼女は遠くの方で奥山くんの姿を見つけると、そちらへ銃口を向けました。後は引き金を引けば、一分間に何十発という弾が自動的に撃ちだされるのです。これならば、いくら下手くそでも一発くらいは当たるでしょう。
-ダダダダダダダッ!
あちこちで悲鳴が上がります。しかし、奥山くんの足は止まりません。
-ダダダダダダダッ!
とにかく撃ちまくります。それが彼女に今できる唯一の彼への想いなのですから。
-ダダダダダダダッ!
身体に伝わる振動がだんだん快感になってきます。頭の中がなんだか、真っ白になってきました。
-ダダダダダダダッ!
そうです。恋には勢いが肝心です。勇気が必要です。
-ダダダダダダダッ!
「待ってよ。奥山くーん!」
目を血走らせながら恵理は機関銃の引き金を引き続けます。
だって、恋には情熱が必要! 誰もわたしの邪魔はさせない。そんな想いが彼女を動かしているのでしょうか?
-ダダダダダダダッ!
「恋は火力で勝負よ!」
■エピローグ
「ねぇ、ブラッド。本当にここらへんで落としたの?」
地上から十数メートル辺りでマリーは魔法箒の速度を落とします。
「たぶん、そうだにゃ。ノートの気配はここらへんで消えてるにゃ」
黒猫のブラッドは下の方を見ながらそう呟きました。
「ああ、見つからなかったらどうしよう。お師匠さまに提出する期限は明日だっていうのに」
マリーは頭を抱え込みます。これでは、今月末にある魔法試験が受けられません。
「もう一回探すかにゃ?」
「うーん。もしかしたら誰かに拾われちゃったのかも……誰かがあのレポートの通り薬を作っていたら大変! なんとかしないと」
「それだったら魔法の薬の気配を探してみるかにゃ」
「お願い、ブラッド」
彼女は使い魔であるはずの黒猫にそう懇願します。
しばらくしてブラッドは、ひょいと顔をあげました。
「わずかだけど、魔法の効果が見えるにゃ」
「それを辿っていきましょう」
「なんだか下の様子が騒がしいにゃ」
ブラッドが何かに気づいたらしくマリーへとそう呟きました。
「なんか火薬の臭いがする。わたしの魔法薬に火薬なんか使ったのなんてあったかなぁ」
マリーは首を傾げながら下の様子を見ます。
パトカーらしい赤いランプが火薬の臭いのしてくる方角へと向かっていました。
「わたしとは無関係だよね」
何か嫌な予感がして彼女はブラッドの方を見ます。
「でも、火薬に混じって魔法薬の臭いも感じるにゃ」
「仕方がない。行ってみるしかないか」
なんかあったら、お師匠さまに怒られてしまう。そんな事を気にしながら、マリーは魔法箒の速度を上げます。
-ダダダダダダダッ!
銃声らしいものが聞こえてきます。彼女は念のためにと防御の魔法をかけました。
「ご主人さま! あの子の撃っている弾に魔法の気配がプンプンするにゃ」
「ということは、ノートを拾ったのはあの子ってわけか。ああ、なんかめまいがする」「ご主人さま! 回収するのが先にゃ」
「わかってるって。でも、この状況をなんとかしないと」
なぜかわからないけど機関銃を乱射している少女がいます。たぶん、魔法薬の副作用で彼女は麻薬中毒状態に陥っているのでしょう。大変なのは、その状況です。弾には魔法効果があるので、撃たれても死人が出ることはありません。でも、彼女の周りにはたくさんの警察官が彼女の様子を遠巻きに見張っています。
場合によっては狙撃される可能性もあるのかもしれません。
マリーは少女の元へと急降下します。それと同時に魔法の霧を発生させました。いわゆるアムネジアの霧というものです。霧によって記憶を奪われる効果があるのです。
そして彼女は、眠りの魔法を少女へとかけました。
ふらっと少女の身体が傾きます。すかさず、箒のフックを背中の赤いバッグにかけ、身体ごと空中へと持ち上げました。
「ふうー。これで最悪の状態にはならずに済んだね」
マリーは大きな溜息をつきます。そして、独り言のように呟きます。
「早くこの子からノートの在処を訊かないと」
「目覚めの気分は?」
少女は目をこすりながら起きあがります。
「ここはどこ? あなたは誰?」
それまでの記憶がないのでしょう。少女はそんなことを言いました。
「あなたのお家よ。わたしは……信じてくれないかもしれないけど、これでも見習い魔法使いなの」
「え?」
少女は短く声をあげます
「いきなり本題で悪いんだけど、ノート返してくれないかな? 明日までにお師匠さまに提出しないと試験が受けられないの」
「ノート? あ!」
少女は思い出したらしく、口に手を当てました。
「ごめんなさい。けーさつに届けようと思ったんだけど、つい……」
「いいの。かえって警察に届けられた方が面倒だったかもしれないから。それよりも」
マリーの口調はあくまでも優しくあり続けます。
「えっと、これです。すいませんでした」
少女は机の引き出しの中にしまってあったノートを取り出すと、マリーへと丁寧に頭を下げました。
「好きな人がいたんでしょ? あのノートに書いてあることがとても魅力的だったってのはわかる。だから、謝らなくてもいいよ。大事な物を落とした私が悪いんだから」
「あ! わたし……わたし、どうしよう。奥山くんにひどいことしちゃった。……どうしよう……」
記憶が戻ってきたのだろうか、少女の瞳からふいに大粒の涙がこぼれ出ます。
「大丈夫。あなたの魔法に関わったすべての出来事にはちゃんと私が後始末をつけてきから。奥山くんもあなたがやった事は覚えていないよ」
「あ、ありがとうございます」
少女は安堵の吐息をしました。
「でもね、そのかわりというか、あなたが魔法で行ったすべての事柄について消し去ってしまったから」
「どういういことです?」
再び不安げに少女は訊いてきます。
「魔法のおかげであなたと彼との間は少しずつ進展したかもしれない。でも、それをすべて消してしまったから」
「最初の頃と同じってことですか? わたしと奥山くんは話もしていないって状況ですか?」
「そういうことかな」
「……」
しばらく沈黙が続きます。マリーはこれ以上何も言ってやれないなと思い、そろそろおいとましようかと考えていた時、少女の口から言葉がこぼれました。
「惚れ薬とまでは言いません。なにか、わたしの性格を変えられるような薬はないでしょうか? 奥山くんの事はどうしても忘れられそうもないんです。かといって、気軽に話しかけられるほどの勇気がないんです。魔法の薬があったから、あれだけ積極的になれたと思うんです。さんざん迷惑をかけといてこんな事を願うなんて、虫のいい話かもしれません。でも、もしあるならば欲しいんです」
「うーん……」
マリーは考え込みます。この子の気持ちは痛いほどよくわかるのですから。
「もちろんただでとは言いません。わたしに出来ることならなんでもします。なんなら新しい薬の実験台になったって構いません」
少女の想いがまっすぐに伝わってきます。マリーだって好きな人に告白できずにうじうじと悩んでいた時期だってありました。
「彼の事が忘れられない?」
マリーは何かを思い立ってそう訊きます。
「はい」
「あきらめられないくらい好き?」
「はい」
いくつかの質問ののちに、彼女はポケットから小瓶を取り出します。
「これは勇気の出る薬。誰かに告白するときに飲むと効果が出るの。でも、告白する相手の前に立たないと完全に効果は表れないの」
「それを頂けるんですか?」
「うん。ま、迷惑料ってとこかな」
「いいんですか? わたしは何かお礼をしなくて」
「構わないって、ただし、注意があるの。飲んだら24時間以内に告白しないと大変なことになるの」
「大変なことってなんですか?」
少女は目をまんまるくさせて驚きます。
「もう二度と彼の前で口がきけなくなってしまうの」
「そ、それは大変ですぅ!」
「そういうわけだから、注意してね。あ、私そろそろ行くね」
マリーは立ち上がります。
「いろいろと本当にありがとうございました」
「ま、気にすることじゃないから。じゃあね」
「はい。お気をつけて」
少女に背を向けると、マリーは窓の外に待たしておいた魔法箒によいしょっとのっかります。
「グッドラック」
ウインクをして一気に上空へと加速します。
「人間に魔法薬をあげるのは御法度じゃなかったにゃ?」
雲の上に抜けると、ブラッドがそう訊いてきました。
「私は魔法薬なんかあげてないよ」
マリーは涼しい顔でそう答えます。
「でも魔法の小瓶を渡してたにゃ」
納得の行かないブラッドが不信な顔で見つめてきます。
「あれは、セージから作ったハーブタブよ。精神安定剤みたいなもの。人間だって作ってるじゃない」
「にゃー! それだったらなんで渡したにゃ? 嘘をつくのはよくないにゃ」
「あの子には勇気が必要だった。それは私も経験があるからよくわかるの。放っておけなかったんだ」
「という事はにゃ、ご主人様は彼の方にも気があることを知ってたにゃか。さすがだにゃー」
ブラッドは感心したかのように呟きました。
「誰が知ってるなんて言った?」
「にゃ?」
「わたしは背中を押しただけ、後のことは知らないよ」
「そんにゃー! それじゃあの子がフラれたにゃどうするにゃー?」
「それはあの子の人生よ。恋を始めるのも終わらせるのもあの子が決めること。もしフラれたとしても、このままずっと片想いを続けているよりはマシなの。いつまでも中途半端な恋をしていてはあの子はかわいそうなだけ」
「そんなものなのかにゃー」
「魔女も人間も恋に違いはないはずよ。そうやってみんな大人になるんだから」
「にゃー……なんだか、面倒だにゃー」
「そんなことより、早くしないと日付が変わっちゃう。お師匠さまに情けは通じないんだから」
マリーは、魔法で異次元へと続くゲートを開くと、その中へ向かって加速していきました。
さてさて、その後、恵理と奥山くんがどうなったかは内緒です。ただ、マリーのレポートが間に合った事だけは確かのようでした。
(了)




