人を殺すために生まれた、――――。
大量のデータと言葉と人間が行き交う。けれども生活感のない空間。
そんな無機質な研究室を、『彼』はただ眺めているようだった。
彼は、人を殺すために生まれたクローン人間だ。
製造番号はあるが、名前はない。ただ、呼び名はある。
――出来損ない、だ。
感情を持たない殺人鬼を作る。所長はそう言った。
「感情があるとどうしても、同類殺しをためらう。私は過去、それを知らずに失敗したことがあってね。だから次は、感情のない殺人鬼を作る。倫理を排除する。それだけでいい」
人間は、ロボットにはできない判断や動きができる。
人間並みのロボットを作るよりも、ロボットのような人間を作る方がはるかに簡単だろうと、所長は言った。
ここに集まっている科学者達が、どうしてこの研究に参加したのかは知らない。
ほとんどは、興味本位だろう。あるいは、『自分の手で人間を作る』ことで優越感に浸っているのか。
――私はどうして、ここにいるんだろう。分からない。覚えていない。思い出す気もない。
ただ、『彼』は私が作った。
「いつになったら、その失敗作を捨てるんだい」
誰かの声。私は答えない。彼は何も言わない。
「いつか『スイッチが入る』と思ってるのか? そいつはどう見たって出来損ないだ。スイッチなんて入らない」
違う声。私は答えない。彼は何も言わず、ただ微笑んだ。
彼は、私が作った殺人鬼だ。けれどまだ、人を殺したことはない。
彼が殺人鬼になるためには、『スイッチを入れる』必要がある。
スイッチ。それは、「人間を一人、殺す」ことだ。
他の実験体達には簡単にできたそれが、彼にはできない。
殺すのは一人だけでいいのだ。そして、その対象は誰でもいい。
誰か一人でも殺せば、殺人鬼としてのスイッチが入る。そして、次々と人を殺すようになる。
自分が死ぬまで、何人でも。何も考えず、事務的に。
――そう、まるでロボットのように。
なのに彼は、いつまでたっても人間を殺そうとしない。
彼には、「人間を殺すのは悪い事」だと教えていない。むしろ「いい事」なのだと教えている。
彼の中には、道徳も何もないはずなのに。
「ね、ほら」
私は彼と同じ遺伝子で作られたクローンの赤ん坊を、彼に差し出した。それから、ナイフも。
「殺してみなよ。きっと楽しいよ」
殺すのは、クローン人間でもいいのだ。赤ん坊でも老人でもいい。とにかく一人でも殺してくれれば、スイッチが入るはずなのに。
ところが彼は、赤ん坊を見るなりふにゃりと笑い、抱きかかえてあやし始めた。ナイフなんて眼中にない。私の言葉も、耳に入っていないだろう。
「……できそこない、か」
私が呟くと、彼はぱっと顔をあげた。それから少しだけ、寂しそうな顔で笑った。
優しいクローンなんて、作る気はなかった。作っている気もなかった。
けれど彼は、「優しいクローン」としか表現できない。
実験用のモルモットが死んだら静かに泣いているし、私に対する悪口を言おうともしない。常に無言で部屋の隅に座り、モルモットが死ぬ時以外は笑顔を振りまいているのだ。
彼の身体・精神年齢は二十代のはずだけれど、世間一般の二十代とはかけ離れていると思う。
「出来損ない」
今日もまた、誰かにそう言われる。彼は笑う。私は笑わない。
――人を殺すクローンは成功で、殺さないクローンは失敗?
「……おかしいのかなあ」
私が首を傾げると彼は一瞬だけ無表情になり、ズボンのポケットから何かを取り出した。そしてそれを、こちらに振って見せた。チリン、と小さな音が鳴る。
彼が持っていたのは、モルモットの首輪につけていた小さな鈴だった。
無言の時間が続く。そこで私は、ようやく気付いた。
「……もしかしてこれ、くれるの?」
私が尋ねると、彼は無言で頷いた。
「――ありがとう」
私がほほ笑むと、彼はやはり少しだけ寂しそうに微笑んだ。
出来損ない、出来損ない、出来損ない。
今日もまた、同じことを言われる。
言われて傷ついているのは、彼なのだろうか。
それとも、私なのだろうか。
どうすればいい。どうすれば成功? どうなればハッピーエンド?
誰にとって? なんのための?
――彼が、彼の。
私は彼の首に手をかけて、ゆっくりと絞めはじめた。
歪む彼の顔と、手の中に感じる体温。
このまま生き続けても、出来損ないだと笑われるだけ。
ならいっそ、死んでしまった方が彼も楽になれる。
もしも彼が抵抗して、私を殺したなら。
それがスイッチになって、彼は出来損ないじゃなくなる。
ほら、どちらに転がってもハッピーエンド。
彼がゆっくりと、こちらに手を伸ばし始めた。
――そうだよ。その手で私を振り払って、そのまま殺してしまえばいいの。
簡単でしょう?
私が笑うと、彼も無言で微笑んだ。そしてその手を
その手を私の頭にのせて、そっと撫でてくれたんだ。
ずるりと床に落ちる彼の身体。
その顔はとても安らかで。
抵抗なんて、する素振りも見せなくて。
「……なんで」
なんで私は。
なんてことをしてしまったんだろう。
背後から聞こえる声。科学者達が笑いながら、こちらに集まってくる。
私は茫然と佇んだまま、その様子を眺めていた。
「殺したのか」
誰かの声に、私は頷く。皆が笑う声。おめでとう、おめでとう。
「これで君にも、スイッチが入ったね」
――……何言ってるの?
殺人鬼は彼で、私は科学者で、彼を作ったのは私で、
「でもまさか、自分の『生みの親』を最初に殺すとは思わなかったなあ」
私はゆっくりと、下を向く。床に横たわる彼。彼の服。
彼の、白衣。
私の服は製造番号の書かれた白いシャツで、それはクローンに着せる服で。
嘘だ、うそだ。だって私は、私は……?
私は彼に生み出された、出来損ないで。
彼は、私の事をいつも見守っていて。
彼は、私のために、――自分を。
「でもやっぱり、出来損ないは出来損ないだなあ」
誰かの笑う声。皆の笑う声。
「見ろよ。あの出来損ない、泣いてるじゃないか」
感情を持った殺人鬼は、必要ないんだよ。
ああ、分かった。私が生まれた理由。
スイッチはもう、入ったの。
人間を殺すのは簡単だって、彼が教えてくれた。
殺さなきゃ。殺さなきゃ。
この研究所にいる人間、すべて。
終わらせるんだ、こんな研究。
人を殺すために生まれる人間なんて、そんなの要らない。
私でいい。
私が『それ』の最後でいい。
スイッチは入った。あとは簡単だ。
殺すだけでいいの。ここにいる奴ら全て。
私は笑いながら、研究員の元へと近寄る。
いつか、彼に握らせようとしたナイフを手に持って。
ポケットの中の小さな鈴が、チリンと音を立てた。