五十三夏 セクハラ強盗誘拐犯
今回からアシュールの台詞を「****」にしています。
ビクッと広い背中が震えて、ハッとした。
なんということでしょう、私の人差し指が勝手に。いつの間にか。アシュールの背骨をつつっとなぞってしまっていた。なぞ。
でもほら、アシュールの背中が主張してたから。この溝はなぞるための溝ですって。どうぞ人差し指を流してくださいって。え、違うって? じゃあ逆になぞるための溝でなければ何のための溝なの? 筋肉自慢のための溝? つまり喧嘩を売ってる溝ってこと?
「…………」
「…………」
視線を上げたら、さっきまで焦りと必死さを浮かべていた銀河の瞳がそこはかとなく非難がましい色を乗せて肩越しにこちらを見ていた。うん、すまん。
でもアレを蒸し返すのは恥ずかしいのだ。ただの接触事故として処理したはずだというのに、本気で謝られると……ねぇ? いやさっさとこの話題は終わらせよう、うん。それに限る。
私は溝に向かって言った。
「えーと、アシュールが何に頭を下げたかはわかってるつもりだよ。気にしてくれてありがとう。
前に女の子が嫌だと思うことをしてほしくない、みたいなこと言ったの、覚えててくれたんでしょ? それは嬉しいしありがとう。……でも聞いてほしい」
「……」
静かにこくりと上下した後ろ頭が見える。大人しいな。そんな神妙な態度で聞いてもらうのは少しばかり心苦しいんだけども……。私が言いたいことは一つ!
「あのね、あんな事故を、私が気にすると思ってるなんて心外なんですけど!」
「!」
言うと同時にアシュールの背中をベシッと叩いたら、また肩がビクッとした。今度は謝りません。あ、さっきの溝の件も別に謝ってなかったね、謝ったのは心の中でだけだった。あはは。
「アレは誰も悪くなかったし、……いや壱樹が悪いけどそれは置いておいて、ただのハプニングだから! 流石に何も悪くないアシュールを責めるほど心狭くないよ、私」
だから一人でシリアスな場面にしないでよね。
あんまりシリアスにされると、『飲み過ぎた翌朝起きたら自分は全裸でさらに隣に誰かが裸で寝てました、全然覚えてません』みたいな一夜の過ち的展開のようではないか!
そうだよ、あんなの、そんな深刻なものじゃない。『物を取ろうと同時に手を伸ばしたら額がごっつんしちゃった』とか、『前後で歩いてたら相手が急に止まって背中に鼻から突っ込んじゃった』くらいの展開だよ。よくあるよくある!
心の中で自分にうんうん頷く。なんという的確で在り来たりで長めな例え!
誰もが納得な例えに満足した私はいまだ背を向けるアシュールの前にまわる。溝よ、バイバイ。
浜茶屋の裏の砂はあまり深くないから歩きやすくていいよね。でも海に近いところの、あの足がずるって沈む感じも私は好き。サンダル履いていると足の裏とサンダルの間に砂が入って擦れてちょっと痛いのが困るけど。あとサンダルが砂に持っていかれて脱げるっていう現象。よくあるよくある!
どうでもいいことも考えながら正面からアシュールの顔を覗いて見ると、急に回り込んで来た私に 驚いたのか瞠目してるけど、さっきよりは表情から力が抜けてる気がしなくもない。よかった。
「だから本当に気にしなくていいし、頭下げるなんてしなくていいの。
……でもさ、なんて言うか。えーと、そういうアシュールの、律儀というか人のことよく見て考えてくれるとこは、えー、……いいトコと思ってるよ」
「!」
「……少しだけねっ。
わかったらさっさとお昼買いに行こ! ちびっ子たちが待ってるんだから!」
くるり。私は背中を向け、ザカザカと砂を蹴散らしながら歩き出した。
ほんと歩きやすくていい。逃走にもってこいだ! ――あっ、全然、決して逃げてるわけじゃない! 私がアシュールの前からしっぽ巻いて逃げるなんてそんなむしろ向かっていくのが私ですからぁっ。残念!
しかし私としたことが、アシュールを認めるようなことを面と向かって言っちゃうなんて……。
なんかジワジワくるな。おかしい、さっきの事故より恥ずかしくなってきたぞ。きっとアシュールは今、得意げな顔をしているに違いない。『ついにこの女も落ちたか』みたいな! なんという嫌なやつ! 想像だけど!
足場がよいのをいいことに私は速やかに浜茶屋の裏から脱出する。
脱出した瞬間、太陽はギラギラ、足下の砂浜は熱々、すぐそこのカップルはイチャイチャ――ってコラ、こんな公衆の場で何してるんだあの人たち! いくら浜茶屋の隅とはいえ、真夏の海で人が溢れているというのに、死角はないと思え莫迦っ。
ああだめだ、いちゃつくカップルなんて気にしてる場合じゃない。とにかくお昼を買いに行こうそうしよう。
そう思って、ふと思い出す。さっさか歩いて来ちゃったけど、アシュールはどうなった? 後ろからついて来ているだろうと思い込んでいたけど、いつかの迷子事件を思い出した私はヒヤリとして、慌てて振り返った。
「――ゔっ」
むぎゅっ。
効果音をつけるなら、まさにこんな感じ。
振り返ってすぐ硬いような柔らかいような熱いものに締め上げられて、思わず『う』にも濁点がついちゃう。環境依存文字なんですけど。
乙女になんて声を出させるんだ! という抗議の声すら出せないほど抱きしめられている、……らしい。もちろんアシュールに。視界の端に白金が見える。
ぎゃーっ、暑い苦しい、なにすんだ――!
覆い被さるように抱きついてきたアシュールの勢いに負けて、海老ぞりというか、膝がカクンと崩れて、巻き付くアシュールの腕だけで支えられている状態。腕を離されたら地面に後頭部を強打するじゃないか!
「***、*****、***!」
アシュールの胸元で物理的に口を塞がれているから、心の中でぎゃあぎゃあ騒いでいたけど、アシュールは直ぐに離れた。乙女をしっかり立たせるのも忘れないところがアシュールだ。でも私は気づいたぞ! アシュールめ、どさくさに紛れて私の頭に口をくっつけたでしょ!
むちゅ。
効果音にするならそんな感じで。
褒めたそばからなんてことするんだ! これは事故じゃない、事故とは認めない、絶対にーっ!
「――アッ!?」
アシュール何すんの! と声を上げようとしたところ、驚きの声に取って代わられた。持っていた財布をスリ並みに素早く奪われたからだ。
強盗! もともと財布をここまで持ってきたのはアシュールだけど、これは私のだから奪うということは強盗に違いない!
セクハラに強盗、さっきの私のフォローを返せ!
次は何をしでかすのかと身構え、犯罪者を見る目を向ける私。だけどアシュールはニッコリ。笑ったかと思ったら、財布を失った私の右手を握ってご機嫌に歩き出した。いつの間にご機嫌に? 意味不m……あぁぁあ! 誘拐犯、誘拐犯ですよー!
アシュールに手を握られることにはトラウマしかない、離せー! と腕を力の限り振るも、離れない。前もそうだったけど何なの? 吸盤でもついてるの? タコなの? タコ型火星人なの?
「うぅ、離せぇ!」
散歩を嫌がる犬……もしくは家具の角に引っかかった掃除機のごとく進むのを拒む。
が、摩擦力に乏しい海の砂が恨めしい。
ずる、ずる、と引きずられながらも抵抗していたら、くるりとアシュールが振り返った。めちゃくちゃ笑顔だ。怖っ。
「**、********?」
ひらひらと財布を振った後、目の前に腕を伸ばしてかがんだ白金の頭を見て、咄嗟に飛びのいた私はえらい!
お前の考えはお見通しだ!
「抱き上げたら叩くよ!」
子供のようなことを言いつつ、大きな溜息を吐く。――なんか疲れた。
私に睨まれても無駄にニコニコしているアシュールが立ち上がってまた歩き出す。私はもう抵抗することなくついていくことにしたのだった。
巨大ブーメラン。