四十九夏 絵描きの悪戯
あれから必死の懇願の末、なんとかアシュールの腕から脱出を果たし、簀巻きからも解放された。
一人楽しげに笑っているアシュールにイラッときたので、後で使おうと思っていたワサビをアシュールの口に突っ込んでおいた。ざまあみろのびーなす。
あ、ワサビを何に使おうと思っていたか、って?
それはあれです。
ロシアンかき氷。
孝太たちはきっと途中でかき氷が食べたいと言い出すだろうと思って、でもただ食べさせるのも面白くないから、ワサビを混入したものを一つ作ってロシアンルーレットをするつもりだったの。
そのワサビチューブを、アシュールの口に挿して一押ししてやったのだ。ははははは、素晴らしい悶絶であった。
次からはあまり乙女をからかうんじゃないよ、と言ったら、涙目で睨まれたけど、全然怖くなかった。涙目だからね。ははははは。
「お昼まで本当に寝ようかな」
一頻り笑わせてもらった後、一息つくと急に眠気が襲ってきた。心労による疲れだね、きっと。
私はいまバスタオルを一枚身体に巻いて、さらにもう一枚を肩から掛けた状態でパラソルの下、うつ伏せている状態だ。
これはこれでどーなの、って思ったけど、着替え用のTシャツを着るにはまだ水着が濡れていたし、かと言って水着だけでいるとアシュールがうるさいから、この格好で落ち着いた。
本当に私、海に何をしに来たんだか。
せっかく着てきた水着も活かせず、海にも入れないとは……。いくらアッシー要員として駆り出されたとは言え、流石にこの仕打ちは予想外でしたよ。
(お気に入りの水着だったのにー)
諦め悪く心中でぼやく。
別に誰かに見せたくて着てきたわけじゃないけど、どうせなら活用したかったのに。
ちなみに、私が今着ているのは甘さ少なめのマリンボーダーのビキニだ。カップの片方は白地に紺のカモメや錨が描かれていて、アシンメトリー感が可愛いな、って思った。胸元のVラインには赤の縁取りがされていて、首の後ろと背中の紐が赤色なのもちょっとポイントになっていて好き。ちなみにこの赤い紐は下にもついている。腰の両脇でリボン結びになっているから、一見、紐パンにも見えちゃったりして。もちろん、ただの飾りだから、引っ張っても脱げたりしないけどね。
パレオもあるから、子守のための海水浴でも張り切り過ぎにならなくていいんじゃないかなー、とか思っていたのに、まさかの出番無しとは。
「…………」
ちょっとだけ不貞腐れながら腕を枕にうつ伏せていると、不意に大判のバスタオルが背中に掛けられた。
「……暑いよ」
既に体に一枚、肩に一枚、バスタオルを身に着けているというのに、この上さらにはちょっと暑い。そう思って、視線だけ隣に座るアシュールに向ける。
アシュールは困ったように眉尻を下げてこちらを見下ろしていた。
海から浜に上がるまで私を俵担ぎしていた勢いが無いのは、少しはやり過ぎた自覚があるからだろうか。
「-------」
じっと眺めていると、アシュールの大きな手で頭をひと撫でされて何か言われた。
なんだろう、「我慢しろ」とか?
そうあたりをつけながら、私は伏せていた身体をアシュールの方へ向け直し、さらにじぃっと眺めてみる。
相変わらず崩れない美形っぷりに、焼けない白い肌だ。私なんて、ウォータープルーフの日焼け止めをガンガン塗っているというのに……というのはどうでもよくて。
「……アシュールの世界ってさあ、もしかして女の人は夏でも長袖に長いスカートとかなの?」
海に出る前、Tシャツを着ろとか着ないとかの一戦を交えたときに、アシュールの世界では女性はあまり肌を出さないものだということを壱樹がアシュールから聞き出していた。私がアシュールにTシャツを着せたがっていた理由は直ぐに判明したというかバレたけど、アシュール側の理由はわからなかったからね。
それでよくよく聞いてみれば、本当はTシャツにショートパンツなんて格好も、向こうの世界の人からするとはしたない格好とされるんだって。アシュールは今まで私の格好には秘かに目を瞑っていたらしい。……むしろ言って欲しかったような気もするけど。
まあとにかくその基準からいくと、アシュールの目に水着はドえらい破廉恥な格好に映っていたことになる。
そりゃあ、あんな暴挙にも出るか、とちょっと納得した。
海に着いたときのアシュールが呆然としていた理由もこれだったんだろう。アシュールにしてみれば、浜に出たときの光景はさぞ衝撃的だったに違いない。自分の世界ではありえないほどの露出をした女性が山ほどいたんだから。
でも、そんな刺激的な女性たちを見ても、アシュールが呆然とするだけでよかったと思った。他に反応を見せていたら、大変なことになっていたかもしれない。ナニがとは言わないけど。……待て、何考えているんだ、私は。
いやでもね、本当にすごいと思うんだよ。
ある程度耐性のあるこっちの男の人たちだって、女性の水着を見ればやっぱり少なからず興奮すると思うのに、アシュールは興奮している様子は微塵もなかった。それどころか、私に対しては怒ってさえいたし。
根が真面目なのかな?
普通はこんな右を向いても左を向いても肌を見せた女の人ばかりな状況、ラッキー、くらいに思っても不思議じゃないと思うんだけど。
そこまで考えて、ふと一つの可能性に行き当る。
――もしかして、女の人の肌を見ること自体には慣れている、とか?
公衆の場で露出をするのが駄目なだけで、周囲に人がいなければ平気……とか。
……だとしたら、なんかすごく嫌だ。
「夏くらい半袖になったりとかはしないの? そうじゃなくても、ヨーロッパの中世のドレスみたいに胸元とか背中はがっつり開いてたりして。……何かそっちの方があからさまじゃない?」
胸に広がる言いようのない気持ち悪さを振り払うように聞く。
少しだけ、口調に責めるような色が浮かんじゃったのは抑えようがなかった。
「…………」
アシュールは考えるように首を傾げてから、脇に置いてあった荷物を漁ってノートとペンを取り出した。絵に描いて説明してくれるらしい。
アシュールとの意思疎通は大体が身振り手振りとかだけど、何かをきちんと伝えようとするときには絵に描いてくれる。アシュールも身振りだけではもどかしいことがあるのか、最近では私のあげたノートとペンを自主的に持ち歩くようになっていた。
アシュールはノートをレジャーシートの上に置いて、小学生が床で夏休みの宿題をするような格好でさらさらと迷いなくペンを進めていく。
完成、という合図か、暫くするとアシュールはトン、とノートをペンで軽く叩いた。
いそいそとノートを覗き込むと、そこには三種類の風景と、そのそれぞれに女性の衣装らしきものが描かれていた。
「----、------」
アシュールが一つずつ指し示しながら、説明してくれる。もちろん私に言葉は理解できないけど、理解できないとわかっていてもきちんと説明してくれるのが、アシュールの律儀なところだと思う。
イラストに描かれている季節っぽいものは四つ。日本と同じく四季があるみたいだ。
それぞれの季節の風景画の下には女性の衣装らしきものが描かれている。
何故か二つずつ描かれているのは、身分的なもので衣装が違うからだろうか。
ドレスと言うのが相応しいものと、もっと質素で動きやすそうな衣装がある。
それで、肝心の露出度だけど。
(うーん、思ったより少ない)
ドレスはやっぱり西洋っぽい感じなんだけど、夏以外はあまり胸元を強調したものはなかった。袖は短いものもあるけど、スカートの長さは足首が隠れるくらいまである。
一方でもう一つの質素な衣装の方は、スカートの裾も短くなったりしている。でもその代わり、胸元は夏のドレスよりも開いていなかった。
「……なるほど」
ちょっと拍子抜けして呟いたら、頭の直ぐ上からくすりと息だけの笑いが降ってきた。
むっとして、アシュールを振り仰ぐ。
思いのほか近い位置に顔があってびっくりしたけど、今はそれよりも笑われたことが気に入らない。
「笑うことないでしょっ。だいたい、アシュールが動揺しないのがいけないんだよ。怒ってても、照れたりしないし! ……見慣れてるのかと思――」
最後にぽろりと本音がこぼれて、慌てて言葉を飲み込んだ。
アシュールを仰いでいた顔もさっと下へ向け、うわー、うわー、と内心で悶絶しながら、唇を噛む。
これじゃまるで拗ねているみたいだ。
アシュールが女の人の肌を見慣れていたからと言って、別に私には関係ないのに!
頑なに下を向いていたのに降りた沈黙に耐えられず、結局反応が気になって、私はちらりと目だけでアシュールの様子を窺った。
アシュールは私と目が合うとぱちぱちと数度瞬いて、それから唐突ににやりと嫌な感じの笑いを浮かべた。
その顔を見たら、出会った最初の頃のアシュールを思い出した。
最近ではとんと見かけなかったそれ。
(あああああ、そうだった! 私ってば何で忘れてたの! こいつはこーいう顔をするヤツだったよっ)
めちゃくちゃ底意地が悪そう!
余計なことを口走ってしまった自分とにやにやするアシュールにムカついて、叫びたくなった。ここで暴れたら、海からでも監視していると言った壱樹がすっ飛んで来そうだから我慢するけど!
ただ、行動は我慢できても表情は我慢できなかった。自分でもわかる。今の私はきっと、眉間に深い皺を寄せ、唇は不機嫌に突き出しているに違いない。むぅっ。
案の定、ぷっと噴き出す音のあと、唇をアシュールに摘ままれてしまった。
「んぅ!」
即行で力一杯叩き落としたけど、アシュールは楽しそうに笑うだけだ。……指を一本一本へし折ってやりたいと思った。
私が内心で物騒なことを考えていることに気づかず、アシュールは笑いながらノートのページを捲る。また何かを描くらしい。
しかしこの人、本当に絵がうまいな。
あっちの世界で絵描きをやっていたと言われても信じられる。剣を持つ絵描きなんて聞いたことがないから、たぶん違うんだろうけど。
でも絵描きじゃないとしたらなおさら、記憶の中にしか無いものをこれだけ写実的に描けるというのはすごい、と素直に感心して、ついでに怒りも忘れて思わず見入ってしまう。
そうしてあっという間に完成した絵を覗けば、
「わー、踊り子だー!」
腰をくねらせたセクスィなダンサーの姿がそこにあった。
踊り子の衣装はアラビアっぽい感じだ。
ただ、完全に露出している部分はお腹だけ。あとは腕も足も胸元ももちろん布で覆われている。一つ問題があるとすれば、肝心なところ以外の布が透け透けだということなんだけどね。……だからむしろエロいって! と思ったのは言うまでもない。
(あれ? っていうか、この顔――)
何か引っかかりを覚えて、ぐっと顔を近づける。
私は目を細めてじーっと観察した。
「――ちょ、これ、私!?」
クハッ、とさっきよりも激しく噴き出すアシュール。
私は気づけばそのお綺麗な顔に目の前のノートを叩きつけていた。