四十三夏 ホームシックな異世界男児?
何やらいつもと様子の違うアシュールの背中を全身で押しやりながら家の中へ向かう。
私の強引な行動にアシュールは困惑したように眉を寄せてこちらを振り返りながら、でも抵抗せずにずるずると廊下を進んでいった。うんうん、何事だ、って言いたいんだろうね、わかってる。でも今は黙って前へ進め、だ。
完全に孝太と壱樹が見えなくなったあたりで私はこそこそとアシュールの耳に口を寄せた。
「あのね、私と壱樹が出かける前のことを思い出してみて。このパターンは、絶対、巻き込まれるから! 孝太のお守りは壱樹に任せておけばいいよ」
慣れてるし、と玄関の二人に聞こえないように小さな声で言うと、私に耳を寄せるように頭を下げていたアシュールが口元を緩めて頷いた。ご納得いただけたようで。
アシュールは笑いながら玄関の方をちらりと見て、また私に視線を戻してから首を傾げた。その何かを聞きたそうな表情に、私はしばし考える。
「――ああ、もしかして、壱樹を休ませるとか言ってなかったか、って?」
アシュールがこっくりと頷いたのを見て、我ながら物凄い洞察力だと自画自賛してしまう。今のでアシュールの聞きたいことを当てるとか、そろそろ読心術士にでもなれるんじゃないの、私。ふふん。
「大丈夫、大丈夫。さっきああ言っといたから、孝太もそのうちちゃんと壱樹のこと解放するだろうし」
なるほど、と再度頷くアシュールを見ながら、だけど私は思わず溜め息を吐いた。あ、もちろんアシュールに対してじゃないよ?
「壱樹はさー、もうちょっと孝太に厳しくして、自分には甘くすればいいのにね。孝太よりも断然、壱樹の方が息抜き必要そうだっていうのに……」
「…………」
本当、誰かのためとなると妥協をしないんだよな、壱樹って。
勉強もそう。進路だって、結局はおばさん……壱樹のお母さんを楽させるためってのが大きいだろうし、帰省したらしたで遠慮を知らない孝太の相手も手は抜かない。散々孝太の相手をした日も、夜にお父さんにお酒を注いで話し込んだり……。
もちろん帰省している間はうちの家族の相手だけじゃなく、自分の家で母親の手の届かなそうなところの点検をして回って、余裕があればどこかに連れ出して……、って。改めて考えると、全然気が休まらないんじゃないの、あいつ?
あいつに言わせると、それらは全部自分がしたいからしているだけで、何も苦だとは思っていないらしいけど……。
でも、法学の勉強は違うんだろうなあ。あれは、好きじゃないと頑張れない分野だと思うんだけど。
「なんかさ、思うんだけど、あいつは何でもかんでもきっちりやろうとするから疲れが溜まるんだよね。適度に力を抜くってあんまり上手くないし。だけどそうやって無理するから、疲れすぎておかしくなっちゃうんだよ。さっきだって――」
「…………」
言い掛けて、でもアシュールの顔を見たまま言葉を途切れさせた。
私はいったい何をアシュールに愚痴っているんだろう、と我に返った所為だ。
アシュールは特に嫌がっている様子はないけど、この人に愚痴を言うのはあんまり褒められたことじゃないと、すんでのところで気づいた。あ、いや、微妙に手遅れかもだけど。ぎりぎりセー……ウト?
アシュールは私が話す言葉は理解できても、アシュール自身は喋れない。
それは、何か伝えたいことがあってもうまく伝えられない、ってことだ。
私がアシュールに愚痴を言っても、アシュールはそれに対して自分の意見は言えないし、ただ飲み込むしかない。愚痴を聞かされるだけ聞かされて何も言えない、って、結構つらいことだよね。
「うん、ごめん、なんでもないや」
「……?」
話を途中でやめられるのも気持ち悪いだろうけど、そもそもアシュールに聞かせる話でもなかったし仕方ない。壱樹に今度は私が「嫁に来るか?」って言われた、なんて聞かされても、アシュールにしてみれば「ふーん」くらいにしか反応のしようがないよね。
アシュールは私が先を濁したことに訝しげに眉を寄せて、でも私がそれ以上何も言わないとわかると諦めたように眉尻を下げた。ここで無理に追究してこないところが、どことなくアシュールの育ちの良さを感じさせる。気になるだろうにね。
「ところでさ、アシュールは玄関で何してたの?」
下手な話の逸らし方だ。自分で自分にがっかりしたけど、気になっていたのも事実なので聞いてみる。すると、おかしな質問でもないのに何故かアシュールは視線を彷徨わせた。
――あやしい。何か後ろめたいことでもあるんだろうか、などと勘繰りつつも黙っていると、アシュールは何かを言いたそうに口を開いて、でも結局言葉にならなかったのかそのまま口を閉じた。
……なんだろう、これはいよいよやましいことでもしてらっしゃったのかしら? ここは突っ込まないであげるべき? それともこれ幸いにからかってあげるのが正解?
ちょっとばかり悩んだけど、結局私は無難に対応することにした。うん、追究しないでくれたことへのお礼です。
「何か買ってきてほしいものでもあった?」
買い物に出た私たちを待ち構えるように玄関にいたんだから、一番ありえそうかな、って思ったんだけど、アシュールが小さく首を振ったところを見ると違うらしい。読心術士にはまだまだなれないか。残念。
アシュールが玄関に居た理由って他に何が考えられるだろう? そういえば出がけにも私たちのことを相当気にしていたみたいだけど。
「もしかして何か気にしてる? 買い物は確かに最初はアシュールが頼まれた仕事だけど、アシュールが出かけ損ねたのは私たち――というか主に壱樹と孝太が騒いだ所為なんだし、気にしなくていいんだよ?」
うん、これは可能性ありじゃない?
一応、今のアシュールは居候という立場で、私たちは気にしていなくてもアシュール自身は肩身の狭い思いをしているのかもしれない。それを家の手伝いをすることで軽減しているのかも。
だけどそんなのは本当に気にしなくていいことだ。もともとアシュールはやりすぎなくらいやってくれているし。それに何より、アシュールはもうほとんど家族みたいなものだ。……と、私でも思えるようになりましたよ。
「たまには私だって家のことくらいするから、アシュールはもっとのんびりすればいいんだよ。慣れない場所なんだからさ」
まったく律儀なんだから、と腕をポンポン叩いたら、アシュールは微妙に沈黙してから苦笑した。――うん? 何かね、そのおかしな沈黙と曖昧な苦笑は。また外れか?
私はちょっとだけ困って首を傾げた。
なんだろうなあ、帰ってきてからずっと、どことなく元気がないような気がする。
ついにホームシックにでもなっちゃったかな、なんて思いながら眺めていると、アシュールの手がするりと伸びてきた。
「――?」
身構えるほどの警戒心はもうなくなっている。劇的な何かがあったわけじゃないのに、それだけ私はアシュールを信用し始めていた。
アシュールの手を視線で追うと、その手は私のこめかみ辺りに到達して、髪の毛をそっと耳に流すような仕種をした。いくら自転車を漕いだのが壱樹だとはいえ、外は暑かったから汗で髪の毛が張り付いていたのかもしれない。
少し硬い指なのに、あんまり優しい手つきでくすぐったくなった。
「あり――」
「…………」
首を竦めながら笑ってお礼を言おうとしたけど、髪を払い終わってもアシュールの手は離れていかなくて、何か空気が変わったような気がした私は思わず言葉を飲み込んだ。
こめかみの髪を払った指が耳の輪郭をくるりと辿るようにして頬へと戻る。触れるか触れないかの動きはやっぱり優しくて、でも逆にその微妙な感触に背筋がぞくりとした。
――駄目だ。
この触り方には覚えがある。
でもあのときとは何かが違う気もした。
動けない私を後目に、アシュールは指先を丸め、指の背で私の頬をゆっくり撫でていく。
顎まで下りた指先は、首筋に張り付いた髪の毛も首をなぞるようにして払ってくれた。
――いや、払ってくれたんだろうか?
見えないからわからない。
わかるのは、アシュールの大きな手が私の首を包むようにして止まったということだけ。
ああまた、背筋が刺激される。
胃のあたりがきゅうと引き絞られるような妙な感覚がした。
今度こそ離れると思ったアシュールの大きな手。だけどそれはそのまま首筋でとどまって、親指が顎先から耳の下あたりまでを辿るように静かに何度も撫で上げていく。
たったそれだけ。
別に抱きつかれたわけでも、押し倒されたわけでもない。
いつかのように際どい場所に触れられたわけでも。
なのに、私は思わず身を退いた。
だって、なんか、アシュールの目が違う……。
薄暗い廊下で、やけに鮮明に銀河の瞳が煌めいて見えた。
深く、吸い込まれそう。
――熱い。
「――ッ!」
私は何故かカッとなって、気が付くと反射的にアシュールの脛を蹴り上げてしまっていた。
いや、そういう『カッ』じゃなかったんだけど、奔放な私の足が無意識に……。
「ご、ごめん――!」
顔に思い切り熱が集中するのを感じて、正直全力で逃げ出したい。でも、小さく呻きながら蹲るアシュールを放っておくのも流石に申し訳なくて思いとどまった。
アシュールと同じようにしゃがんで、脛とは関係ないけど背中を擦ってみる。素足だし、そんなに痛くなかったと思うんだけど……。
っていうか私、どうしたんだろう。
これくらいで動揺するなんて。おかしい。
このときの私の頭の中は、少しの間真っ白になっていた。