三十四夏 どちらが先か
瑞々しく甘い、桃の香りがする。
美味しそうな香り。
――あ、涎出そう……。
私は口の中に溜まってきた唾液を飲み下しながら、寝返りを打った。
眠くて上手く目が開けられない。
お昼寝は駄目だ。一度寝入ると中々起きられない。私、朝は弱くないのにお昼寝だけは寝起きの悪いんだ。
それでもどうにか朦朧とする意識のまま薄っすらと目を開けた。
首振りにしてあった扇風機の前を遮る影がある。
まあ予想はしていたけど、美味そうな香りを漂わせるのはアシュールだった。皮を剥いた桃のように白いあの腕はアシュール以外にいない。……じゅる。
というか、箱ごと置き去りにしていたシート、使ってくれてたのか……。
やっぱり変なところで律儀だなあ、とか思ってしまう。
扇風機の前でしゃがみ込み、こちらを見下ろしているらしいアシュールは微動だにせず、ただそこにいる。
私の様子を窺うような気配がある。起こしていいのか、起こさないべきなのか迷っているみたいだった。
たぶん、
――謝りに、来たんだろうなあ……。
ぼんやりする頭でもそれはすぐにわかった。
大半は私が悪いのに。
丸二日近くも避けてしまったのに。
日本語喋れないアシュールじゃなくて、私が行かなきゃいけなかったのに。
ゆっくりと瞬きをしながら、あまり働かない脳と身体を叱咤する。
結局、アシュールの方が私なんかより何倍も大人で、喧嘩なんだか何なんだかわからないこの状況でも、言葉だって自由じゃないのに、先に謝りに来てくれた。
お昼寝をしているときの私が脳も態度も色々無防備になることを見計らって来た感じがするのは、なんとなく引っかかったけど……。
たぶん、孝太あたりがまた入れ知恵したんだろう。
あいつは私が怒ると、怒りが治まりかけた頃のお昼寝タイムを見計らって謝りに来る。そうすると寝惚けているのも手伝って、私も素直に孝太を許すし、孝太も面と向かって謝りにくいこともぼんやりしている私が相手ならすんなり謝れるという寸法だ。
一瞬、アシュールに弱点を知られってしまったようで焦りが湧いたけど、それでもアシュールが自分から謝りに来てくれたのを突っ撥ねるつもりはなかった。
なかなか持ち上がらない瞼を必死に押し上げながら、てんてんと目の前の床を叩く。
アシュールが視界の端で小さく首を傾げている。
それでも何度か同じ動作を繰り返すと、アシュールは躊躇いがちにゆっくりと私の前に横になった。
意図した通り視線の高さが同じになって満足する。
流石に寝転がったまま謝るのじゃ格好がつかない。でも相手も横になっていれば問題ないよね、とか自分に都合よく解釈しておく。
けど、あー、眠い……。
必死に意識を保ちつつアシュールを見るけど、ぼやけていてヤツがどんな顔をしているのかよくわからない。
……遠すぎるのか。
そう思った私はアシュールの胸元を引っ掴み、寝惚けた私が出せる渾身の力で引き寄せた。
「……!」
うん、近くなった。
でもなんか……やっぱりぼやけて見えない。
というか、視界いっぱいに群青が広がっているような……。
まあいいや、このまま話そう。
アシュールの表情を確認できないのは、この二日散々考えていたことを口にしようと思っている私には心許無かったけど、引き寄せても駄目なら仕方ないから諦めた。眠気を我慢することで精一杯だ。
「……あのさ」
「……」
随分掠れた声が出た。
まあ、寝起きだから仕方ない。……というかまだ起きれてないから許して。
「最初は、アシュールがわたしのことずっと……笑っておもしろがってたんだと思って、……だから腹が立ったの」
口調がすごくゆっくりになってしまっているのには気づいていたけどどうしようもなく。
アシュールが根気良く聞いてくれているだろうと信じて続けることにする。
「なんか変なふんいきになったのも、くやしくて恥ずかしかったし……」
怒りが湧いた瞬間は、この二つに対する感情が前面に出ていた。
でも一晩置いて考えてたらわかったんだよね。
「だけど、本当にいやだったのは、あしゅ……アシュールが、わたしを押し倒して触ったことだった」
ああ、これだと誤解を与えそうだなあ……。
実際、掴みっぱなしだったアシュールの胸元から、アシュールの身体が少し強張ったのが伝わってきた。
ちょっと傷つけちゃっただろうか。
アシュールに触られて気持ち悪かったとかではないんだけど……。
私は必死に微睡みに沈みそうになる頭を回転させる。
少しもごもごしてから、また口を開いた。
「……えーとさ、冗談で、ああいう……ことをしちゃ、だめだとおもう」
「……」
我ながらもっとはっきりはきはき喋れないもんかとは思う。
しかし眠すぎて……。これはある意味拷問だよ。頑張ってるよ私。
「女の子のからだを……同意なしにさわるのは、こっちではせくしゃるはや……セクハラって、言うの」
「……」
「……男の人にしたら冗談でも、女の子がいやだとかんじたら、それは犯罪になるんだよ」
言えば、目の前の群青が少し大きくなった気がした。
驚いているのかもしれない。アシュールの世界では、そういうのを犯罪とすることはないのかもしれないな。
でも。
「私がどうとかじゃなく、犯罪というのを別にしても、あしゅには……」
まずい、うまく口が回らなくなってきたかも。
だけどちゃんと伝えなくちゃいけない。
「あしゅーるには、女の子をいたずらに傷つける可能性があることを、してほしくない……」
ああもう、伝わってるんだろうか。
脈絡とか、大丈夫なんだろうか。
こんな真面目な話、本当はきちんと目が覚めているときにすべきなのもわかってるのに、でも意識がはっきりしているときに話すのもどことなく気恥ずかしくて、だからできればこの場で理解してくれたらいいと思う。
「アシュールはもう身内みたいなものだと、わたしはおもってるから……、だから勝手だけど、冗談ですまないかもしれないことをアシュが不用意にしたことがショックだったの……。アシュ……アシュールはちゃんと女の子の弱さをわかってると思うけど、女の子に恥をかかせるようなこともしてほしくないよ……」
「……」
言い終えてホッとしつつ目の前を見ると、今度は群青がぎゅっと凝縮した気がする。
何だろうな、よく見えないけど、喜んでる……のかな?
でもそんな要素のある言葉じゃなかった気がするんだけど……。
それとも渋い顔?
迷惑がってるとか。
うーん、よく見えない……。
まあ、いいか。悪い反応じゃないことを祈ろう。だって、眠すぎて目が閉じそう……。
だけどまだまだ言わなくちゃいけないことはあるから、私はもう一度意識を引っ張り上げる。
素直になれない私に先に歩み寄ってくれたのはアシュールだから、謝罪だけは私がしっかり口にしなくちゃ駄目だよね。
「でもね、わたしも不用意だったから、それに気づかせようともしてくれたんだよね、ごめんね……」
「……! ――」
群青が広がって、それから少ししてふっと口元に風がくる。次いで、ゆっくり鼻先を縦に何かが擦っていった。
あれだ。アシュールの鼻、だと思う。
今私、さり気なく鼻の高さを自慢されたよね?
いや頷いてくれたのはわかったけど、いちいち鼻の高さなんて自慢しなくてもいいのに! どうせ私の鼻は低いですよっ。
ムッとしたけど、ここでまたキレるわけにもいかない。
私は眉を寄せつつ続けた。
「あとね、……、あー……、冷たい態度とって、ごめんね」
これは一番大人気なかったというか、丸っきり子供の態度で申し訳なかったと思う。
できれば忘れてほしいけど、……根に持たれたらどうしよう。って自業自得か、うん……。甘んじて受けます。
「それと、おととい、朝からばかみたいにまとわりついて、ごめん。うっとうしかったでしょ……?」
今度は私の鼻先を横に掠っていく、アシュールの鼻。
だからいちいち返事の途中で鼻の高さを自慢しないでよ、まったく。
でもそんなことよりまだ私が謝らなくちゃいけないことがあるんだよね……。
「……あの、かみ付いたり引っかいたりしたのも、ごめんなさい……」
必死に隠そうとしていた事実だけど、もうバレているのはわかっているし、実際ちょっとやり過ぎなくらいに強くしてしまったのも事実だから、謝っておく。
うん、この際、謝れるものは全部謝って、帳消しにしてもらおう。なんて、都合のいいことを思った。
ああでも、眠気が半端ない……。
もうそろそろ駄目かも……。
そうだ、あれだけは謝っておこう、結構気になっていたんだよね。というか、今も気になってるし。
「……あとその匂い、全然合ってないのにつかわせて、……ごめん……」
でもおいしそう……。
心の中で思ったはずなんだけど、声に出ていたのか、プッと至近距離で笑われた。……ちょっと唾かかったけど!とか悔し紛れに思ってみる。実際はかかってないけど。
もう限界だ。
もういいかな。
結構ちゃんと言いたいことは言えたからいいよね……。
襲いくる睡魔に抵抗できず眠りに落ちる瞬間、鼻先を何か柔らかいものが掠めた気がした。
――こいつ、今度は何を自慢したんだ……?
確かめる余裕もなく、私の意識は夢の中へと沈んでいった。