三十二夏 思考はめぐり
一晩明ければ、嫌な気持ちは残っていても思考は冷静さを取り戻す。
というよりも、このままじゃ駄目だよなあ、という漠然とした思いに冷静さも加わって、大人になりかけの心が考えることを促すんだ。
……本当は、考えることで何処かにアシュールを許せる切っ掛けを見つけたかったのかもしれない。
私だって嫌な雰囲気を長引かせるなんて本意じゃないから。
許せる要素を無理に探そうとするくらいなら、さっさと気持ちを入れ替えてしまえばいい。
そうは思っても、簡単にそれが出来ないんだから仕方がない。
我ながらホント、大人にも子供にもなり切れないなんて面倒なことこの上ないとは思うけど……。
ラジオ体操には出られなかったけどそれなりの時間に目覚めた私は、ぼんやりと昨日のことを考えていた。
改めて思い出してみると、自分の行動がいかに馬鹿げたものだったかがわかる。
朝からアシュールのお風呂を邪魔して、朝食後には客間の前で待ち伏せしていきなり髪の毛を切ってあげると親切の押し売りのようなことをした。
カットが終わってもまだ擬似美容院体験だなんだと下手な言い訳でアシュールの髪を洗って、終いにはアシュールの身体を制汗シートで拭き出して。
アシュールにつけてしまった傷を隠すのが目的だったにしても、そこまでやる必要がどこにあったのか、という話だ。
実際、アシュールだってそう思ったから、最終的に笑いを堪えきれなくなったんだろうと思う。
私の馬鹿な行動に付き合いながら、必死に込み上げる笑いに耐えていただろうアシュールを思い出す。
でも、ふとそこで違和感を感じた。
昨日……アシュールは最初に私が洗面所に乱入したとき、不思議そうな顔をしていたよね。
客間の前で待ち伏せしていたときもそう。切れ長の目を丸くしてぱちぱちと瞬いていた。戸惑いとか困惑まではいかないけど、その瞳には私に対する純粋な疑問が浮かんでいた気がする。
そういえば、洗面所を使うという私のついたその場しのぎの嘘も信じていたっけ。
……うん?
あれ、どう考えても笑いを堪えているようには見えなかったんだけど……。
私は首を捻りながら、もう一度昨日のアシュールの様子をきちんと思い出してみることにした。
昨日の私は朝からずっとアシュールに笑いものにされていたと思っていたけど、何か違うんじゃないかと思い始めていた。
冷静に思い返してみれば、昨日の朝のアシュールはどこまでも普通の態度だった。
さっき思い出したとおり、少なくとも洗面所に乱入したときのアシュールは無理矢理笑いを堪えているとかではなく、一人慌てる私に不思議そうな視線を寄越しているだけだった。
ということは、もしかしてこのときアシュールはまだ、私がいつもより自分に構ってくる理由をわかっていなかったんじゃないの?
確証があるわけじゃないけど、でも私の行動を面白がっている素振りはなかったように思う。
髪の毛を切ると言い出したときも同じだ。
笑いを堪えているというよりも、警戒している感じだった。
明らかに私の技術を疑っていたみたいだったし、最初は拒否していたよね。
最終的には私が押し切る形でアシュールも了承したけど、あんまり乗り気とは言い切れなかったような……。
その状況を楽しんでいるような気配は感じなかったんだ。
実際、髪を散切りにされたら堪った物じゃないと思ったのかもしれないけど、それでも心の中で笑っているなら、もう少し違った態度になったんじゃないのかなあ?
だって、私の行動理由をしっていて、それでも髪を守りたいならさっさとあの時点で種明かしをしてしまっても良かったくらいだ。肩や背中の傷は知ってるから、そんなことはしなくていい!みたいなのを表せば、私だって無理にアシュールの髪をカットしようなんて思わなかったと思うし。
つまり、このときまではアシュールは私の行動を笑っていたわけじゃないのかもしれない。
じゃあどこかでアシュールの態度に変化があったか、って考えてみると、――あった。
あのときだ。カット後にお母さんが登場したあたり。
お母さんがシャワーの話を持ち出して、慌てた私が下手な言い訳を口にした。
あのとき初めてアシュールの唇の端に笑いを堪えるような引き攣りが現れたんじゃなかったっけ。
うん、そうだ。
それまではどこか私の行動に押され気味だったのに、そのあたりでアシュールが態度を変えた気がする。
あのときに私の奇行の意味に気づいて、笑い出しそうになったのかもしれない。
アシュールは察しがいい方だと思う。
私が朝、アシュールがお風呂へ入ろうとしているところを邪魔したことと、カット後お母さんがアシュールに『シャワーを浴びるといいわ』と言ったことに私が変に反応したこととを合わせれば、私がアシュールがお風呂へ行くのを阻止したいのだと気づいてもおかしくない。
うん、たぶんきっと、……確実にそうだ。
お風呂に入らせないようにしていることと、その直前である夜中の出来事の記憶を結びつければ、どうしてお風呂に入って欲しくないのかは割と簡単に導き出せる答えだよね。
……自分で言ってて自分の行動の単純さに呆れる。
でもアシュールに記憶があるなんてこれっぽっちも思っていなかったんだから、これは仕方の無いことだ。私は悪くない。
――私は、悪くない。
とにかく、あのとき初めてアシュールは私の行動に協力的になったのは確か。
順を追えば、アシュールが私のおかしな行動の理由を知ったのがお母さんが出現したときだとして、じゃあアシュールがその時点で私をからかおうと思いついたのか、ってことだけど。
落ち着いて考えてみるとそれも違うような気がしてくる。
洗髪のために椅子やら何やらを準備しているときも実際に頭を洗い始めてからも、アシュールの態度は別にそれまでと特別変わったようには見えなかった。
なんとなくそれまでの怪訝そうな雰囲気は払拭されて晴れやかな感じになった気はしたけど、だからといってニヤニヤと嫌な笑い方をすることもなかったし。
洗い終わってからだって、さっぱりした顔をしているだけだった。
次はどうするつもりだ、みたいな期待に満ちた視線なんて感じなかったし、ただ髪を拭いているだけで自分からお風呂に入る素振りを見せて私をからかってやろう、なんてこともする気配はなかった。
あ、そういえば、何か恨みがましい目で睨まれたっけ? でもあれは意味がわからなかったから置いておこう。
とにかく、私が洗面所にそのまま置き去りにしたときだって私の勢いに押されてポカンとしていたくらいだ。
こうして考えていくと、やっぱり客間での一件以外、アシュールは私をわらいものにしていたわけじゃないのかもしれない、と思えてくる。
昨日ぶち切れてしまったとき私は、アシュールが最初からずっと私の馬鹿な行動の理由を把握しながら私がどこまで可笑しな行動をとるのか見て面白がるために大人しくしていたんだと思っていた。
洗面所でのことも、お母さんをかわしてくれたことも、身体を素直に拭かせたことも。
身体を触られたことに加えて、それまでずっと従順な振りをしながらその実心の中で私を笑っていたのかと思ってすごく腹が立ったし、趣味が悪いとも思った。
実際、身体を拭いているときアシュールは明らかに笑いを堪えていたから、確信的にそう思い込んでたんだよね。
でも、違ったんだ。
アシュールは洗面所でも客間の前でも、一人慌てる私を不思議がりながらも普通に接していた。
髪を切ると言い出したときは、不安がりつつ押し切る私を諦めの気持ちで受け入れていたような気がするし、カット後は出来上がりを気に入って素直に喜んでいたと思う。
洗髪をしているときも気持ち良さそうにしていた。そこに嘘はなかったと思う。
だったら何を切っ掛けにアシュールが笑いを堪えきれなくなったのかと言えば、
……結局原因は私、なんだろうなあ……。
という考えに行き着いてしまう。
身体を拭いているとき、私は上手くやっているつもりだったけど、アシュールからしてみれば横を向けば慌てて噛み痕を隠すし、背中を拭き始めたかと思えばあからさまに爪痕を避けて拭く、なんていう行動をとる私は阿呆みたいに面白かったに違いない。だって全部覚えているアシュールからすれば、全然隠せてないんだもんね。むしろあからさま過ぎて、もう我慢なんて出来なかったに違いない。
それまでは私の奇行の目的に気づいても、まあ好きにさせてやろう、くらいに思っていたのに、あまりに下手な隠し方をするから、黙っていようと思ったアシュールも限界だったのかも。
ただ、アシュールが全部覚えてるって知ってたら、私だってあんなことしなかった。
今にして思えば、私だってああしているのが自分じゃなかったら、私がアシュールの立場だったら、笑ってしまっていたと思う。
誰だって非の無いことを必死に隠そうとしてどんどん墓穴を掘っていっている人間を見たら、笑うつもりがなくても笑っちゃうよね。
冷静に思い返してみて、そう認めることができた。
恥ずかしいけど。
物凄く、恥ずかしい結論だけどもね!!
頭に血が上って思い込んでいた状況が、冷静になってみて少しずつ把握できてきたようです。