二十八夏 やっぱりインポッシブル
アシュールが目を瞑ったのを確認して、Tシャツを脱がす。
相手の意識がある分、深夜のときよりもずっと脱がし易かった。
現れた肌は夏の日差しを反射して白く煌く。なんて美白。こいつは今、美白に励む全日本女性を敵に回したな。
……いやそれは無いか。
むしろ日本人女性のほとんどが味方につくに決まってる。なんたってこの顔だ。日に透ける白金の髪に同色の長い睫毛。トラブル知らずの理想の肌と絶妙に配置される顔のパーツ。どうやったって奇麗としか言いようがない。
小癪な。
あ。もちろん私は“ほとんど”には入らないからね? 男なら小麦色に焼けたくらいが健康的でよろしいと思いますよ。はい。
いやうん、私の好みなんてどうでもいいね。机の奥深くに追いやられた元カレの写真よりもどうでもいい。……あれ? もう既に燃やして捨てたんだったっけ? まあいっか。どうでも。
私はまずアシュールの露わになった腕に汗拭きシートを添わせた。
言いたくないけど最初はちょっと緊張していたみたいだ。妙にゆっくりと撫でるように汗を拭き取っていた。だけど途中からもどかしくなった。というか、ゆっくり丁寧に拭いている自分が居た堪れなくなってしまった。これじゃあまるで私がアシュールに仕えるメイドさんか何かのよう。
そうだよ、ここはパパッと終わらせる場面じゃないか! 何をやっているんだ私は! むしろ垢すりのごとくガシガシやってやってもかまわんくらいだよ!
我に返ってちらりとアシュールの顔を窺ったけど、俯き加減のヤツは大人しく目を閉じて身を任せている。……かと思いきや、薄っすらと目が開いていた!
「ちょっ……!」
おいコラ、歯ぁ食いしばれ! じゃなかった、目ぇ閉じろ! と言おうとして、慌てて言葉を呑む。
声を発したことでアシュールがこちらを向こうとしたから、慌ててアシュールの肩に手を乗せた。ベシッとか結構な音がしたけどどうでもいい。たぶんあとで赤くなるだろうくらいには勢い余っちゃったけど、孝太が今何処で何をしているかよりもどうでもいい。……あれ? あいつ朝ご飯のとき居たっけ? まあいいか、どうd(略
それよりも本当に、危なかった!
私が何でアシュールの肩を叩い…触ったかっていうと、もちろんその下に昨夜つけてしまった歯型があるからだ。
悔しいことにアシュールの肩あたりまでしか身長のない私なので、アシュールがこちらを見下ろしたら、肩の噛み痕が視界に映ってしまう! 間一髪、隠せたからいいけど。
アシュールは私の暴挙を怒るでもなく、愛想笑いを浮かべる私を暫く見つめた後、ほんの一瞬だけ自分の肩に置かれた私の手を見て、直ぐに無表情かつ無言で顔を正面に戻した。
無表情かつ、無言で。
もう一度言おう。
無表情、
かつ、
無言で。
……。
何でしょう? この沸々と胸に湧き上がる怒りは。
もう少しリアクションをとって頂きたい! と思うのは私の我儘ですか。
というか、そおそもなんで無表情よ?
物凄く感情の抜け落ちた顔は怖くすらあった。
見たことのないアシュールの様子に眉を顰めつつ、物凄く腹立たしく思いつつ、こんな状態(アシュール半裸)で詰問するわけにもいかなくて、私はヤツの身体を拭くのに集中することにした。決してアシュールの無表情が怖かったわけじゃないよ? ツッコム勇気が無かったとかじゃないからねっ?
深夜に行燈の頼りない明かりのもとで見たアシュールの身体だけど、窓から燦々《さんさん》と差し込む夏の太陽のもとだと、無数の傷がやけに目についた。
深夜のときだって爪痕以外の傷には気づいていたけど、今は薄暗がりよりもよく見える。改めて見たらその多さに少し驚いた。
均整の取れた奇麗な身体には間違いないし、隆起し無駄を省いて筋すら浮かぶ筋肉も美しさの見本みたいで、それはいたるところに散らばる傷にだって侵されない。傷がどれだけあってもアシュールの身体を醜いなんて思わない、思えないってことだ。
だけど、私は思った。
ああ、この人はこの世界の人じゃないんだなあ。って。
こんなところで実感してしまった。
身体に出来た傷はたぶん、ほとんどが刃物による切り傷だ。桜色に浮き上がるそれらは小さいものから私の掌ほどの長さのものまでたくさんある。目を瞠るほどに大きな傷はないけど、それでもこの数は異常だった。
今はきれいに塞がり、か細い筋のような名残しかない。でも負った当時はきっと結構な血が流れたはずだ。
私も一人暮らしを始めた頃、自炊のために包丁を使っていて手を切ったことは何度もある。ほんの一センチほどの傷でも痛かったのに、アシュールの身体にはそれを超える大きさの傷がいくつもあるんだ。
私が想像もつかないような危険を潜り抜けて来たに違い無い、って思って、少しだけアシュールを遠く感じた。
なんとも言えない不思議な気分になりながら、今は考えないようにして次々とアシュールの身体を拭いていく。
両腕が終わって、正面に回ってからハッとした。
さっきまでは平気だったのに、急激に顔が熱くなるのを感じる。
あああああ、これって何? いま私、何してんの!?
全っ然、いけないことをしているわけでもないのに、妙に胸の奥がむずむずする。
さ、触っちゃっていいんだろうか? いやいや、アシュールがよくても私は触る勇気がない!
夜のときよりも明るい日差しの中の方が羞恥心が増すのはなんでだろう?
ああそれにしてもこんな間近で見ているのもいいものなのか。カレシでもないのに。……いや駄目でしょう、何か色々と。と散々葛藤した挙句、正面はあとでアシュールに自分で拭いてもらうことにした。
何処の誰だろうね? 『全部私がしてあげるから』とか言ったお嬢さんは。どうせ私は口だけですよ、けっ。
顔に集まる熱をおさめられないままやさぐれた気分に陥りつつ、アシュールの背後に回る。
そこには紛うことなき昨夜の爪痕。比喩なんかではなく。
奇麗に四本の赤い線が平行に走っている。血が滲んだらしく、濃い赤茶の瘡蓋が薄っすら出来ているところがあって、羞恥心に代わって申し訳ない気持ちが浮上する。
そういえば最近、爪切りをサボっていたから私の爪は凶器なんだった、と今さらながらに思ってしまった。
シートを新しいものに替えて広い背中を拭き始める。爪痕の部分は特に慎重に、傷に触れないように気を配りながらシートを滑らせた。
そこで、ふと気づく。
――あれ? なんか……揺れてる?
せっかく傷を避けているというのに、手元がブレてやり辛い。
なんでだ? とか思いながら視線を上げたら、アシュールの肩がふるふると震えていた。
――え。な、何?
もしかして痛かったの? いやでも、こんなにたくさん傷をこさえている人が、爪痕に触れるか触れないかくらいの些細な痛みに肩まで震わせる?
疑問だらけでアシュールの正面に回ると、
――ちょ、笑ってる!
アシュールは思い切り笑いを堪えていた。
――何よ、もしかして脇弱かったとか?
呆然とアシュールを見ていたら、一頻り笑ったアシュールがいまだに込み上げる笑いを振り切るかのように俯けていた顔をあげた。
銀河の瞳に笑みの余韻を宿したまま、一歩踏み出す。
正面にいた私は思わず仰け反った。
「ちょ、な――」
何よ、と混乱のまま叫ぼうとしたけど、その先は言えなくなった。
「――!!」
踏み込まれて重心を踵に乗せていたのに、その足を思いっきり払われた。それはもう、スパンッ、と小気味いい音がするほど遠慮なく。
気づいたときには仰向けに転がっていて、私の上にはイイ笑顔のアシュールがいた。