十八夏 第四ラウンド、客間!
深夜、フッと意識が浮上した。寝苦しい熱帯夜の所為か、散々飲んだお酒の所為か。たぶんどっちもだけど。お父さんとアシュールに飲ませることに集中していたから私自身はそんなに飲んだ気がしていなかったけど、それでもやっぱり独特の倦怠感が身体を包んでいた。
喉の乾きを覚えて、仕方なく起き上がる。部屋を出て、薄っすらとした月明かりが差し込む静かな廊下をぼんやり進んだ。家族を起こさないように忍び足で。
蛇口を捻りコップに一杯水を飲むと、喉の乾きは十分癒えた。湿気を含んだ空気の息苦しさも、どことなく和らいだような気がする。
気分もすっきりしたし、さあ朝の全力ラジオ体操に向けてもっかい眠ろうか、と居間を抜けようとしたときだった。
「……?」
薄っすらと客間から洩れる明かりが目について、何気なく襖の隙間を覗く。そこにはアシュールが眠っているはずだった。……いやいや、覗いたのはもちろん断じてアシュールの寝姿に興味があったとかではないよ? あくまでも明かりが洩れているのが気になったから。
隙間から中を覗くと行燈が点けっぱなしで、それが襖から洩れる明かりの正体だった。酔い潰れた所為で消し忘れたのかもしれない。私は一瞬迷ってから、そっと襖を開けて室内へと身を滑り込ませた。
別に行燈ひとつが点けっぱなしなだけで電気代がどうのと目くじらを立てるつもりはないけど。でも橙色の温かみは夏には少し暑苦しく感じるものだし、実際枕元で煌々と光っていたら電球が熱を持って暑いと思う。なので親切な私は僭越ながら消して差し上げようと思ったのだ。ええ、私ってばマリアs(略。
アシュールはよく眠っているみたいだし、気づかれるのも面倒なので、細心の注意を払って足音を忍ばせた。
「…………」
アシュールの枕元の行燈までもう少し。
しゃがんで、あとは手を伸ばせばスイッチに届くかというくらいまで近づいたとき。
行燈の明かりに煌くものが視界の端に映った。引かれるように視線をやると、アシュールの米神や首筋に玉のような汗が浮かんで、それが行燈の明かりを弾いてオレンジ色に光っているんだとわかった。
魘されているというほどではないけれど、夏の寝苦しさだけではここまでにならないだろうというくらいの汗。一体何の夢を見てるんだろ。もしかして、故郷に帰れそうなのに帰れない、なんていう切ない夢でも見ているんじゃないかと、ちょっとだけ可哀相に思ったりもした。
それにしても、これだけ汗を掻いているとさぞ気持ち悪いだろうと思う。起こしてあげるべきか迷いつつ、無意識に額に張り付く髪の毛を払ってやろうとしたときだった。
「――ッ!!!」
「…………」
それは一瞬のことだった。
額に触れた途端、突然飛び起きたアシュールに押し倒された。大きな左手で私の左肩は押さえつけられ、まるで刃を突きつけるように首筋にぴたりとアシュールの右の拳が当てられている。ちょうど、ナイフを握っているような形の拳が。
ナイフなんて危ないものウチの客間にあるはずもないから、完全に体勢というか仕種だけなんだけど。
つまり、これって
エ ア 威 嚇 ?
いやエア威嚇って何?
そんな面白くなさそうな競技ありましたっけ?
そもそも威嚇は全部エアだよね?
って、今はそんな冗談言っている場合でもない。
今私に覆い被さるアシュールの眼光は鋭く、その目は私が出会ってから初めて見る剣呑さを含んでいた。
街で身体が重くなるほどの威圧感を放っていたときでさえ、目が合えばそこに怒りの気配はなくて、だからあんまり恐怖は感じなかったのに。今は射抜くような銀河の瞳に感情の火は点らずただ物騒な光がちらついていて、正直に、怖い。実際に刃物を持っているわけでもないのに、首筋が冷やりとする気がした。
だがしかし。
だからといって素直に恐怖に震えるのは癪である。それが私。六花様。
「…………」
「…………」
行燈に照らされて、ぎらぎらとより深く、濃く輝く銀河の瞳を見つめ、私はおもむろに両手を持ち上げた。
そして、
――むにぃっ。
何の音かって? 何の音だと思う? ――うんたぶん、想像通りだと思う。
「アシュール、痛い」
「…………」
押し付けられた左肩が痛い。だけどアシュールも同じくらい痛いだろうと思う。
何故なら私が全力でヤツの両頬を抓り上げているから。
そう、むにぃっという音は、その効果音だったのだ。
あはは、流石の美形もこれをすると顔が面白いことになるね。いい眺めである。まいったか!
「…………」
「…………」
まいったならいい加減離せコルァ!という叫びを飲み込んで、押し倒されたまま、かつ頬を抓ったままアシュールの反応を待つこと数秒。アシュールは数度瞬きを繰り返したあと、フッと視線の険を消した。……うん? 正気に戻ったか?
観察していたら、アシュールは私の肩から手を離し、さっき私がそうしようとしていたのと同じように、私の額に掛かる前髪をするりと払った。……えーっと、これって謝罪? それにしては何だか、目が今にも閉じそうだけど。起きてます? おーい、アシュールさーん?
様子見でじっと見上げていたら、視線に気づいたらしいアシュールがフッと微笑んだ。……まだ頬っぺた抓ってるんで微笑んだと言い切れるかは定かじゃないけどね。はは、おもしろっ。ついでに何かもごもご言ったけど、……うん。抓ってるんで。意味不明です、アシュールさんよ。もっとはっきり喋りたまえ。ぷふっ。
さっきまで結構な緊迫感があったというのに、アシュールは既に意識がぼんやりし始めているようで、瞬きの速度が遅くなっている。寝惚けた人を抓り上げたままって、私ってひどい子ですね。はい。
でもこれも連日された仕打ちの腹癒せです。
しばらくアシュールの面白い顔を楽しんでいた私だけど、さっきの緊迫感など嘘のように無防備になったアシュールをいつまでも抓っているわけにもいかないので、渋々ヤツの頬から手を離した。
とりあえずたった今得た教訓。
余計な行動(行燈消してあげようとしたり、額の髪の毛払ってあげようとしたり)はとるもんじゃない。これからは気をつけよう。
そんなことを心の中で呟いて、アシュールの下から這い出す。……這い出そうと、した。したんです。したんですよ。――なのに。
「ぐぇっ!」
カエルが潰れたよう、とはまさにこのことを言うんでしょうかッ。
アシュールのエア威嚇からやっと解放されたと思ったら、今度はアシュール自体が降って来た。もちろん私は下敷きになりました。重っ!
ついでに軽く後頭部も強打した。……本日二度目だぞ私の脳みそ大丈夫か?いやさっき押し倒されたときも打った気がするなんだ三度目じゃないかヤバイ私の脳みそ半死滅!?とか思いながら、この状況に呆然とする。突然の圧死フラグ。注)エア威嚇よりも危険です。ご注意ください。って本気で苦しいよ!
アシュールの肩口が丁度私の顎下あたりにあって、ヤツの上半身に完全に押さえ込まれているから全然身動きが取れません。
男の身体は筋肉質なので重い。さらにアシュールはかなりの高身長で筋肉も一般の日本人男性よりもついている。――うん。あれだね。この人やっぱり私を殺す気なんだね。あははは。……ってふざけるな!
心中で一人必死に叫ぶ私になど気づかず、アシュールはというと、――完全に寝ております。健やかな寝息を立てて。
コイツ……本気でどうしてくれよう。
私の耳元には断続的にアシュールの寝息が送り込まれてちょーくすぐったい! 背筋がぞわぞわする! だが逃げられない! 何コレほんと何て拷問? 下手なくすぐりよりも性質悪いよ!
すぐそこにあるアシュールの首筋からは、お酒と汗と石けんの匂いがした。
ぴったりと隙間なく全体重を掛けられ、本気で重い。苦しい。そして暑い。おいこら今が夏だと知っての狼藉か! って何コレ自分で言ってて恥ずかしいっ!
とにかく冷や汗だけじゃなく普通に暑さの所為で汗を掻いて来た。ちゃんとお風呂入ったのに……。
肺が圧迫されていい加減息も出来なくて、このままじゃいかん、と必死で対策を練る。
この状態を打破する方法は一つしか思い浮かばなかった。
ので、即実行。
問題ない。
どんな結果になってもアシュールが悪いのである。
ということで、
「いただきます、じゃなかった、失礼します」
最後の情けで一応声を掛け、私は遠慮なく口を開けた。
――ガブゥッ!!!
…………。
ええ、噛み付きましたが何か問題でも?
……なんかちょっと口の中がしょっぱいんだけど、アシュール。
飛んで火に入る夏の虫。違うか。
アシュールも寝惚けてますが、実は六花も若干寝惚けてます。なのでテンションがちょっと低い。しかも一人問答なので。
アシュール復活とか言っといて寝ててすいませんorz
……そういえば『仮面大公』でも主人公が噛み付いてたな。首じゃないけど。(ネタ被ってる!/愕然/いやいつものことだ気にしない!/開直