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一方その頃狭間の界の少年も、玄関まで応対に出てきたスティールの母親の言葉にショックを受けていた。
「ごめんなさいね、あの子ったら最近毎週出掛けているのよ。前は探し物って言っていたけど、今はシャールに会いに行っているみたいでねぇ」
頬に手を添えて溜め息をついている優しそうな母親。面差しはスティールとそっくりだ。
携帯端末にいくら連絡しても応答がないので直接来てみたら不在で。
「端末まで置いていくなんて……」
本当にシャールに会いに行っているんですかと尋ねたかったが、ぐっと飲み込んだ。家族に無用な心配をかけさせてはいけない。
「本当に僻地なのよ~。電波も届かないから持って行くだけ無駄なんですって」
それにしてもそんなにしょっちゅうだとあちらさんもご迷惑じゃないかと思うんだけど、いつまでも犬離れできなくて困った子ね、と母親は続ける。
「わかりました。いえ、約束していたわけじゃないんで、また学校で」
ぎくしゃくと笑みを作ると、スティングは回れ右した。
「あ、待って待って」
ちょっとここで待っていてと言い置き母親は一旦家の中に戻ると、深鉢を持って出て来た。
「これ昨夜から仕込んでいるポトフなの。晩御飯にでもどうぞ」
ドール家とレスター家ではよくある光景だった。
料理の苦手なスティングの母親は、スティールの母親の手料理が大好物なのである。
「味付けしてシチューやカレーにしてもいいから」
「いえ、そんなことさせたら台無しになるんでこのままで是非!」
「いやぁねー、スティングったら」
コロコロと笑いながら、深鉢を抱えて家路に着くスティングに手を振り見送ってくれた。
ゆっくり歩いても五分とかからない距離なので、考え事をする間もなく自宅に着いてしまった。そのままキッチンに向かうと、朝食後の珈琲を飲んでいた母親は目を輝かせて深鉢を奪い取り、早速味見をしていた。
晩御飯まで残ってないような気がする……。
嫌な予感がしたが、今日はもうそんなことはどうでもいい気になり、とぼとぼと自室に戻った。
二階の自室に入るなり、お気に入りの曲を壁に埋め込まれたスピーカーから流すようにスイッチを入れ、ベッドにもたれるようにして床に座り込んだ。
「シャール、何処にいるんだよ……?」
幼い時からずっと共にある存在だった純白の大きな犬。スティールがそのシャールを兄弟のように慕い「好き」の基準がそこになるのは解らないでもない。勿論、生まれた時から兄弟のように遊んでいたスティングにとっても、家族のような存在だった。
で、〈シャールと同じくらい好き〉な存在がディーンとやらで、〈シャールの次に好き〉なのがオレってどういうことよ?
確かに高等部に上がってからは、そんなに頻繁に行き来していないし、休日も一緒に遊んだりはしていないけど、男の影なんてこれっぽっちも感じなかったというのに。
「納得いかねぇ……!」
一体いつ何処で知り合ったというのか。
まして、そこまで好きになるならそれなりに深い付き合いな筈。
そして、いきなり引き取られてしまったシャールの存在。
気が付いたときにはもう姿が消えていて、自分は別れの言葉も言えず。何処か分からない僻地――どっかの離島か? ――にいるらしい飼い主の下へ足繁く通っているスティール。
更に言うならば、シャールが引き取られた頃からぐんとスティールが綺麗になった……ような気がする。これは自分が好きだからその欲目でそう見えているわけでもなく、学校でもたまに話題になることがあるのだ。
ただ、今まではその一風変わった性格から、恋愛対象としては男子生徒の噂話に上らなかったので安心していたのだけれど、これからはそうもいかないかもしれない。
今までは母親に「あなたの取り得は私譲りのサラサラストレートヘアーしかないんだから絶対伸ばすべきよ!」と主張されてしぶしぶ脇辺りまで伸ばしていたスティールだったが、それ以上は邪魔になるからと伸ばしたり切ったりを繰り返していたのに、最近はずっと伸ばしていて、その心境の変化もまた気になっている。
もしかしたらシャールの飼い主がディーンとやらなのかもしれない。
そうならば一度是非付いていかねばと、焦り始めたスティングだった。
「うなー」
かりかりと扉を引っかく音がして、ぼーっと考え事をしたままスティングはドアを少し開けた。するりと隙間から三毛猫が入ってくる。
にゃおお~と訴えながら、ぐいぐいと頭をスティングの腕に押し付け、抱き上げられると満足げに喉を鳴らし始めた。
「なぁ姫。女同士、スティールの気持ちわかんねぇ?」
ぐるるるるる。目を細め、姫はぺろりと飼い主の頬を舐めた。ざらざらが当たらないように、舌先の滑らかな部分だけでそっと。
「にゃうあー。なぅ」
何か話しかけてくれるのだが、内容は分からない。
「こんだけ科学が発達していて、なんで動物の言葉翻訳機はねぇんだろうなー。やっぱりオレが作るしか!」
ははは、と笑うスティングに微笑みかけるかのように姫は大きな目をぱちぱちと瞬きして、チュッとその鼻先にキスをした。
意中の少女が姫と同じくらい自分にラブラブだったらどんなに嬉しいことだろうと、少年は猫を抱いたまま嘆息した。
それから少し経ちお茶の時間になった頃、センサーが来訪者を告げた。母親は何処かに出掛けたらしく、自動的にスティングの部屋のモニターに映像が映る。
ボディコンシャスな真紅のスーツが目に飛び込んできて、少年はあたふたと玄関に向かった。
「先日は私共の不手際でご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
扉を開けると、女性は深々と腰を折った。胸の谷間が露わになり、赤面しながらもお辞儀を返すスティング。
「いえ、オレらは別に……」
「ご両親にもご挨拶をしたいのですが」
「すみません、それが出掛けていて」
改めて丁寧な礼を言われ、携帯端末を受け取りながら恐縮してしまう。これほどまでに官能的な女性を傍に置いて、あのローレンス青年は平気なのかと妙な心配をしてみたりも。
「この休日で学園内のセキュリティーを強化するために工事をしています。もうあのような事はないとは思いますが、また何かあればローレンス様のことよろしくお願いいたしますね。何分にも私共は学園内までは警護出来ませんので……。そしてなるべくあの方にも、普通のご学友たちとの生活を楽しんでいただきたいのです。」
スティングと視線を絡めて、アンジェラはにこりと微笑んだ。
「生体埋め込み型のチップとあなたのチップとの相乗効果で、位置確認がとてもスムーズに出来て本当に助かりましたわ。ありがとう」
「あ、あのチップは……その」
戯れに作ってはみたものの、実際に使うことは違法行為である。冷や汗をかきながらどうしようと思っていると、その手を取りそっと件のチップを握りこませ、アンジェラは滑らかにウインクしてみせた。
「その才能を伸ばすといいわね。それから、主がまた学園内で会いましょうと。自分の口からも直接礼が言いたいそうです」
「はい!」
我知らず鼓動が早まり、勢いのある返答をしてしまう。
くすりと口元を綻ばせ、アンジェラの顔が近付いた。
「では、私個人からのお礼を」
そっと囁き声。それから音を立てて唇を吸われ、スティングは直立したまま放心状態に陥った。
流石のアンジェラも、ティーンエイジゃーと遊ぶ機会は持っておらず、ついついからかってみたくなったのだ。
可愛いわぁ。なんて遊び甲斐がありそうな子!
しかし、仕事の一環でここを訪れたものの、本来は主の警護をしていなければならない時間帯だ。早急に戻る必要があり、まさかこのまま家に上がりこむわけにもいかない。
少し残念に思いながらも、少年の頬から首筋に指を這わせてから名残惜しそうに瞬きで訴えて体を離した。
アンジェラの乗り込んだリニアカーが出発してたっぷり五分ほど経過してから、ようやくスティングの石化が解けた。へなへなとその場にしゃがみこみながら、「うわー」と呟く。
「やっべー……」
赤面したまま、ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回す。
たったあれだけのことで、若い体は反応していた。治まるまでしばらくしゃがんでいようと思った。
空が茜色に染まる頃、ようやくスティールの携帯端末と繋がり、パネルにほんわかした笑顔が映りなんとはなしに癒された気分になる。
『どしたのー? 課題のことなら、あたしもこれからやるところだから何も聞かないでっ』
顔の前で手をぶんぶんと振りながら少女が眉根を寄せた。
「あー。課題のことじゃなくて……今日何処行ってたんだ? 探しものは見つかったのか?」
既に母親から聞いているという事は伏せて尋ねてみる。
『探しものは、一応見つかった、かな?』
「なんだよそれ。見つかったんならいいじゃんか」
『そうだね』
一瞬何か考えてから笑顔に戻る。
「なんか納得いかねーようなことでもあんのか?」
『ああ、いやー、うん。確かにスティングの言うとおり、見つかったからいいよ。うん、素直に喜ぶことにする』
「わけわかんねー」
何を探していたのかは、まだ教えてくれそうにもなくて。信頼されていないと不満が募る。
『今日はシャールのところに行ってたんだ。いつも二人で草原で遊んでるの』
「二人で? 飼い主は?」
『あたしが会いたいのはシャールだよ? 近くに住んでいる人たちとも話はしたりするけども』
飼い主なんていないのだから、なんとも答えようのないスティール。少女にしては無難に質問をかわしたつもりだった。
「で、結局それって何処なんだ? 今度オレも一緒に行くよ」
昔はよく一緒に遊んでたじゃないかというと、スティングが驚くほどの勢いで少女が拒絶した。
『だだだだだ駄目なの! あの、ほんとにあそこってば僻地だしっ。ホントはよそものは行っちゃいけないとこだしっ。あたしだって、あっちの許可がないと勝手には入れないんだしっ』
「は?」
なんだその取ってつけたような理由は。
というか、この世界にそんな場所が存在するのだろうかとまずは疑ってしまう。確かにスティングはセントラルからは出たことがないけれど、今時そんな閉鎖的なところがあるのだろうか? 居住区ですらないんじゃないかと思ってしまう。
明らかに疑っている様子なのが伝わったのか、嘘じゃないからね! と少女が真剣な顔で言った。
『ありがとう、スティングもシャールのこと心配してくれてるんだよね。大丈夫、あっちでも元気にやっているから』
花のような笑みでそう礼を言われ、オレが心配してるのはお前のことだとは言えなくて。
「そっか?ならいいんだけどさ」
いやほんとはそうじゃなくて。よくない、ちっともよくないんだけど。
結局自分でも何が言いたかったのか分からなくなり、適当に通話を終了した。
「ああー……なにやってんだろ、オレ」
ベッドに上半身だけうつ伏せてうだうだやっていると、いつの間にか傍に寄ってきていた姫が背中に乗り柔らかな肉球で肩甲骨の間を踏み踏みとマッサージしてくれる。
猫の体重は三kgほどだけれど、それが小さな足の裏だけに分散されるとなかなか良い感じの踏まれ心地なのだ。
踏んでいる猫の方も至極ご満悦で喉を鳴らしている。
「姫、風呂でも入るか」
なー、と返事をして、猫は背中から下りた。
2012/11/25 改稿