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丁度食事が済んでスティールが自室に戻ったとき、携帯端末が鳴った。スティングからの着信だった。
『おう。連絡あったぞ』
スティングの端末から自宅に連絡があったのだそうだ。
全て片付いたので、ご心配なくと。翌日にでも端末は返却しますと伝えてきたのは、あの時の秘書だったという。
『良かった~これで安心して寝られるな』
「う、うん。そうだね」
へたへたと床に座り込みながら、スティールは画面のスティングに頷いてみせた。
『で、さぁ』
スティングからそれまでの溌剌とした雰囲気が消えて、何故か視線が宙を彷徨った。
「どうかした?」
首を傾げるスティールにもう一度視線を合わせると、
『ディーンって誰だよ?』
と尋ねた。
夕方尋ねても答えが得られなかったのをまだ覚えていたらしい。本人にとっては知らない男性の名前は重大な問題なのだろう。
『間違えるほどローレンスさんにそっくりなのか?』
あれだけの美男子はそうそう存在しないはずだと思いながらも、もしもそうならば自分では勝てないと思ってしまう。
「あ、えと……うん……なんていったらいいか」
助けを求めるようにスティールの視線がリルフィに注がれたが、
『適当に誤魔化しときなさいよ』
仔細なアドバイスは得られず、嘘をつくのが苦手な少女は言葉に窮した。
「シャールとあたしの命の恩人……ていうか……」
こんななんでもない普通の女の子のあたしを好きって言ってくれた人。
などとは口が裂けても言えなかったが、思い出したら恥ずかしげな様子が顔に現れてしまったらしく。
『それ、お前の好きなやつ?』
ショックを隠しきれない様子でスティングが言い募った。
近所に住んでいて、スティールの行動も好みも趣味も大抵は把握していると自負していただけに、それら全てが衝撃だったのだろう。
「好きっていうか……まだわかんないよ。でもシャールと同じくらい好きだよ?」
犬と同レベルかよ! と心の中では突っ込みを入れながらも(裏事情を知っているリルフィとジルファですらこっそり突っ込まずに入られなかった)、スティールの「好き」のレベルは全てシャールを基準に測られているのだと知っているが故にその愛情の深さに思い至ってしまうのだった。
『あのな、俺もお前のことが……好きなんだけどっ』
ありったけの勇気を振り絞って口に出した言葉に返された答えは。
「うん? あたしも好きだよ? シャールの次くらいかなー」
にっこりと、そしてあははと照れ笑いするスティールに、流石のリルフィとジルファも止まり木から滑り落ちそうになり、ジルファはその後抱腹絶倒で床を転げまわっていたのだが。
『な、なんと愉快な娘だ……笑い死にしそうだよ』
『頼むからそのまま死んでもらいたいものね』
その姿に冷たい視線と言葉を投げかけつつも、リルフィもスティールの天然ボケっぷりには嘆息するしかなかった。
流石に付き合いの長いスティングは、立ち直りも早かった。
『そんなの知ってるよ』
と笑顔に戻り、それより後ろで鳥の鳴き声がなんか変じゃねえか?と続けた。
翌日、今度は失敗しないで出来上がった手製のマフィンをバスケットに入れて、スティールは〈銀の界〉へと渡った。本来はその都度道を繋がねばならないのだが、接点が決められた場所に設置されており、そこに決められた時間に行けば〈銀の界〉側からシャールが開いてくれることになっているのだ。
いつも週末はそうなのだが、空は快晴である。無意識のうちにシャールの意思が反映されているらしい。
草原に腰を下ろしてぼーっと空を見上げていたところに現れて、今度はすぐには飛びつかずにバスケットを草の上に下ろし、体を起こしたところを見計らって首っ玉にかじりついた。
「シャールぅ~っ! 逢えたよっディーンにっ」
瞳の奥に僅かに寂しさを宿しながらも、シャールは声を弾ませているスティールの背中をギュッと抱きしめた。
「早かったね。良かったぁ」
「シャールのお陰だね、きっと」
興奮気味のスティールは、ありがと、と言いながらシャールの頬に軽く口付けた。勿論、人型に戻ってから初めてのことだったので、シャールの方は驚いて目を見開いた。
「お礼だよ?」
ちょっぴり照れながらも、至近距離で小首を傾げられ……一瞬そのまま抱き寄せて唇にもっと深く口付けたい衝動に駆られたが、なんとか堪えた。
どくどくと、血液の流れる音が妙に大きく聞こえる。
ああ、僕の鼓動なのか……。
冷静に分析して、自分を失わないようにと、深呼吸する。
「あれ、ごめん。い、嫌だったかな……溜め息、ついた?」
そうしたら今度は少女の方が慌ててしまった。へにゃっと眉毛が下がり、なんとも言えない可愛らしさに見えるのは、最近の自分の目がどうにかなってしまったのかと思うほどだ。
「ち、違うっ! ……そうじゃなくて……っ」
ああ、なんて言ったらいいんだろう。
本当に困ってしまう。
今までみたいなスキンシップをしていたら、いつか本当に我を忘れて〈雄〉の本能の赴くまま行動してしまいそうな自分が怖い。
でもそんなにくっつかないで欲しいなんて言えないし、言いたくはない。
ちゃんとしたキスがしたいなんて、今はまだ言えない。
「それで、ディーンはどうだった?」
仕方なく話題を変えてみた。
「あー、そうそう、それなんだよねぇ」
何の疑問もなく乗ってきてくれて、ほっと安堵する。
それでも、かくかくしかじかスティールが説明するのを聞きながら、またも心の中にもやもやが広がっていくのを止められなかった。
「というわけで、目下どうやったら記憶が戻るのか思案中なの~」
はぁ、と息をつくスティールに頷いて見せながら、心の片隅ではこのままずっと記憶なんて戻らなくていいとさえ考えてしまう。
新しい命と新しい名前を得て、裕福でそれなりに幸せな人生を送っているであろう元義兄。命を助けてもらって本当に感謝しているけれど……。
頼むから。僕にはもうスティールしかいないんだから。
僕からスティールを奪わないで……。
こんなことを僕が少しでも願っている限り、本当に記憶は戻らないかもしれないというのに。
それでも僕は思わずにはいられない。
ここまででもういいでしょう?
このまま〈狭間の界〉で、スティールとは学友のままで、卒業したら接点も無くなって。
そのまま僕の知らない誰かと結婚して家庭を持ってくれたらいい。
僕の願いは昔からたったひとつだけ。
スティールと一緒にいたい。ただ、それだけなのに。
「あ、そういえばユキさん、先週会った時には少しお腹が出てきたみたいだったね。もう、ヤツカさんったら、ユキさんがちょっとでもテーブルにぶつかったら飛んできて抱き上げて連れて行っちゃうもんだからおかしくって。最後にはユキさんも『コレくらいで仕事休めないわよっ』て怒り出しちゃってさあ」
おめでたのユキとその亭主の様子が余程おかしかったのか、スティールはクスクスと思い出し笑いをした。ヤツカは幼い頃のシャールの恩人の息子であり、ユキはその妻だ。二人で小さな食堂と宿屋を営んでおり、シャールにも何くれとなく世話を焼いてくれている。
「あかちゃん、か」
生まれたらさぞかし可愛いだろうな、と二人ともほんわかした空気に包まれる。
女の子だったらヤツカが下にも置かない可愛がりようだろう。生まれてすぐから、この子は嫁にはやらない、とか言うかもしれない。
「僕も子供欲しいかも……」
ぼそりと呟いた声をちゃんと聞き止めたらしく、
「いいねぇ、シャールの子供なら男の子でも女の子でも美人さん間違いなしだねっ」
想像するだけで嬉しいのか、満面の笑みでスティールが頷く。
「いつか生まれたら、あたしにも抱っこさせてね?」
と。
返す言葉が、見つからなかった。
自分が産むかもしれないっていう選択肢はないみたいで。
勿論そこまで深くスティールは考えもしていないのだろうけれど。
天然ボケの恋愛下手もここまでくると最早犯罪である。
気の毒な二人の少年だった。
2012/11/25 改稿