6
二人にとってはじりじりと長い平日が過ぎて行き、ようやく待ちに待った週末が訪れた。
それまでには予定通りスティールの母親が注文した服やハンドバッグなどの小物も届き、昼休みにサンドラに髪を結ってもらったり放課後にリニアの中で私服に着替えたりして準備万端で待ち合わせ場所のオープンカフェに向かった。リニアカーは制服や荷物と共に有料の駐車場に停めて来ている。
ローレンスは元々午後は講座を受講していないため、自宅から直接来ることになっていた。
そう、今まではスティールに会うためだけにもう一度学園に行っていたわけである。何とも涙ぐましい努力にも、実はまだ当の少女は気付いていなかったりする。勿論仄めかすような態度もとってはいなかったけれど。
近付いていくと、カフェの前の道で足を止めている女性がちらほらと目に入る。少し距離をおいて、連れと会話しながらチラチラと盗み見ている様子だった。
ああ~……もしかしてもうバレてたりして……。
冷や汗を垂らしながら、そっとその先に少女は視線を向けた。
道に面した席の隅で、ぐるりと鍔のある帽子を目深に被り、よく見れば目の大きさが判る程度に色の付いたサングラスを掛けた青年が、優雅に足を組んで新聞を広げながら紅茶を飲んでいた。ハイネックのボタンのないシャツとスラックスは黒。前を留めずに羽織っただけのコートは柔らかそうな素材のオフホワイト。
はっきりと顔が判るわけではないが、一目でローレンスだと判った。
どうやら盗み見ている女性たちも、誰か判ってというのではなくただ格好良いから声を掛けようか迷っている様子だった。互いに牽制し合っているかのような雰囲気だったのが返って都合が良い。今のうちにさっさとここから退散しなければ。
すう、と息を吸って覚悟を決めると、スティールは早足でローレンスの席に向かい、一人用のランチセットでも広げればいっぱいになってしまうような小さな丸テーブルのもう一つの座席に腰掛けた。
「お待たせ」
約束の時間には十分早目に着いたものの、実際後から来たのだからとそう挨拶した。
ふっと顔を上げた青年が、満面の笑顔で迎えてくれる。
「やあ。僕が勝手に時間を潰していただけだから」
気にしないでと言いながら、嬉しそうにしげしげと見つめられて、スティールは両手をテーブルの下の膝頭に載せて突っ張りもじもじと頬を染めた。
通りから視線を遮るように背を向けて座ったので、背後から先程の女性たちの声らしきものがボソボソと聞こえて来る。
なんだー、やっぱりオンナと待ち合わせしてたんじゃない。いこいこ。
ざわめきが遠退いていき、ほっと肩を下ろす。どうやら少しはここにいても良さそうだった。
ローレンスは広げていた紙媒体の読み物を畳むと、オーダーを取りに寄って来た店員に渡した。家庭で新聞を取っている人は少ないが、まだまだ紙に印刷された新聞も人気が有るので、このような飲食店では扱っているのである。
白いシャツに黒いスラックスの制服を着た若いウェイターは、腰に巻いた黒いエプロンのポケットからこれまた紙のオーダー票を取り出して「いらっしゃいませ」とスティールにお辞儀した。
「あ、ミルクティーを下さい。ブレンドはお任せします」
「かしこまりました。お水はよろしいですか?」
「要らないです、ありがとう」
短い遣り取りの間にも、ローレンスは微笑ましげに少女を見つめていた。
今日のスティールは、真新しくて女の子らしい服装に身を包んでいる。制服とパジャマしか見た事のない青年にはとても新鮮に見えるらしい。髪も結っているところは初めてだろう。
オフホワイトのタートルネックは、織り方で縦のラインが入って見えるようになっていて襟元と袖口と裾はフリルのようになっている。膝上丈のスカートはたっぷりとギャザーの入ったマーメイドスタイルで、淡い花柄が全体に織り込まれているのだが、注意しないとわからない程度に柔らかく光沢を放っている。膝から下はタイトなロングブーツでシャツと同系色のオフホワイト。ヒールは五センチほどで歩きやすそうだ。そしてAラインの淡いピンクのコートが、母親が奮発してかなり質の良いものだった。全体的に可愛らしく、しかし幼くは見えないコーディネイトだった。
「あのぅ……変かな?」
未だもじもじと膝の上で手を動かしていたスティールは、所在無げにハンドバッグを膝から背中に回した。それからまだ会計が有ると思い直して膝に戻す。
「とんでもない。可愛すぎて言葉を失っていたところ」
ゆっくりと微笑むと、やや前屈みになり囁いた。
「僕の為に……?」
途端にスティールはかあっと赤面する。
「そ……そう、です。でもあの、こんな服初めて着たからなんか変な感じでっ、」
青年の顔を直視することが出来ずテーブルに視線を落とし、サイドに少し残していた髪を指で梳いた。
「ありがとう、本当に嬉しいよ?」
そっと伸ばされた手が、髪をいじる指先に触れた。そのまま指先だけを握りテーブルの上に下ろされると、丁度注文の品が届き音を立てずに茶器が並べられて金額を告げられた。
スティールがハンドバッグを開くより先に、ローレンスが空いているほうの手でウェイターに携帯端末を示した。心得て料金はそちらから即時に引き落とされる。
「あ、」と一瞬固まってから少し考えて、スティールは素直に「ご馳走になります」と礼を述べた。
緊張しているのか、まだ表情も仕草もぎこちない。
こちらも律儀に「どういたしまして」と返しながら、ローレンスは指を絡めた。
何処からどう見てもラブラブ空間が出来上がっている。それなのにまたしても予期せぬ闖入者の声が、店外から聞こえた。
「おー、いたいた。やっと見つけたー!」
聞き慣れたその声に、ぎょっとしてスティールが振り返ると……私服姿のスティングと、その後ろには両の手の平を顔の前で合わせて申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げているサンドラがいた。
タイミング良く、二人の隣のテーブルは空いていた。当然のようにそこに陣取りオーダーするスティングをあっけに取られて眺めていると、後ろから控えめに袖を引かれてサンドラが声を掛けてきた。
「ごめん! ほんっとーにごめんねっ! スティングに問い詰められて誤魔化しきれなかったの~っ!」
大きな青い瞳にうっすらと涙を浮かべて、サンドラは屈みこんで謝った。
「う……スティングめ~っ! 一体どういうつもりなのよぅ」
眦が釣りあがりかけた少女の手を、宥めるようにローレンスが握りこんだ。一気に緊張がほぐれた様子に、少し嫉妬すら感じているのだが、勿論そんなことは億尾にも示さない。
少女が目を向けると、ローレンスは軽く頷いて、
「一緒にお茶するくらい、いいんじゃない?」
と言った。
おお、大人の余裕だ~と少女二人はさざめいて、サンドラはもう一度青年にもお辞儀してから椅子に腰掛けた。
すっかり落ちきってしまった砂時計に気付き、ローレンスがスティールのティーカップに茶漉しを載せた。片手を握られたままのスティールは、戸惑いながらも給仕を任せる。片手でポットから注げる自信がなかったのだ。
ミルクの分余裕を見てから紅茶を注いでくれたので、蓋のない小ぶりのミルクサーバーからは自分の好みで注ぐ。少し甘いような独特の茶葉の香りにうっとりしながら、軽くかき混ぜてからカップを口に運んだ。
その共同作業を見るともなしに見てしまった隣のテーブルの二人は、はああと大きな溜め息をついた。
「なんだかなぁ……」「凄く独特の雰囲気っていうか」
スティングのは落胆交じりの、サンドラのは驚嘆の溜め息だったのだけれど、ん? とスティールは不思議そうに首を傾げた。
無言で「何か変?」と訊いているのだが、敢えて二人とも微苦笑するに留める。 普通そこは一旦手を離して自分でするでしょう、とは突っ込まない。
スティールも頓着せずに、紅茶をゆっくりと味わっている様子だ。口内から鼻に抜ける香りにうっとり身を任せて、またその様子を向かいの青年が幸せそうに見つめているのがスティングには居たたまれない。会える時間や回数は限られているはずなのに、どうしてこうも馴染んでいるのかが不思議だったし、見た事のないような服装でいそいそとデートしている姿も心外だった。
とにかくスティングにとっては、「有り得ない」ことばかり目の前に突きつけられて驚きの連続なのだけれど、それで自分が傷付いたとしてもやはり二人きりの時間はなるべく邪魔してやろうという魂胆なのだった。
スティールにしてみたら、ディーンにもお茶を淹れてもらった経験があるので、さほど違和感を感じず自然に受け入れてしまっているのだけれど、それを本人も気付いていない。相手に負担を感じさせずに当たり前に振舞うあたりが、ローレンスの魅力なのかもしれない。
そうしている間にもスティングの頼んだ品々が並べられた。自分用に珈琲とホットサンドのセット。サンドラには勝手に選んだらしい紅茶とシフォンケーキ。どうやら奢るらしく一人で勘定している。
ふーん、と横目で見守りながら、既に落ち着きを取り戻したスティールは、心の中でサンディがんばれ! とか、一応これでもデートっぽいしいいんじゃないかとか、二人のことを考えていた。
それからずっと繋いでいたままの左手のことを思い出し、ふと視線を戻すと、同じタイミングでローレンスも目を合わせてくる。スティールの考えそうなことを推測していたのかもしれないが、流石の間合いだった。
「僕は十分楽しいよ」
そっと、スティールにだけ聞こえる音量で告げられて。
こくりと頷きながらじわりと胸の中が温かくなる。
こんな風にさりげなく言葉にして伝えられて、気に病まなくていいんだと言外に感じさせてくれる。その優しさにずっと甘えたまま、自分はローレンスに何が出来るかと色々考えても見たけれど、まだはっきりとは掴めずにいる。
飲み干したカップにお代わりを注いでくれている手つきを眺めながら、スティールは絡めたままの手を持ち上げて、そっとそのまま自分の頬に当てた。テーブルが小さいので、そんな仕草すらも容易に出来てしまう。
思案している少女の頭からは、ここが何処だとか隣のテーブルの二人のことだとかは綺麗に消えてしまっていた。
まだ初冬とはいえ、軒下のテーブル席は当然外気温そのままで、重ねたままの手から伝わる体温の方が頬より高かった。
ポットから離れていくローレンスの左手からもう一度顔に目を移し、ゆっくりと瞬きした。
この手が好き。
こんな温もりを憶えてしまったら、もう離すことなんて出来ない……。
あたしは、きっと……もう。
自分でも何を伝えたいのか判らない。
ローレンスは、手を預けたままその視線を受け止めて柔らかく微笑んだ。そしてゆっくりと瞬きを返して、それで何かが伝わったように感じられる。
ホットサンドを頬張っていたスティングは硬直してサンドイッチを取り落としそうになり、サンドラが皿を差し出してそれを阻止した。
図書館でもそうだったけれど、この二人はお互いに片思いのまま何かを伝えようと、傍から見たら両思いの空間を構成しているらしい。
付き合っているから両思いとは限らないことは良く解っている。そして最初は多分興味半分でローレンスが申し込み、そして断る理由も無くスティールがそれを受けたことも。
もしもスティングが同じ時期にスティールに交際を申し込んだとしても、果たして今の二人のようになれたかというと……全く自信は無く、それ以前に申し込み自体を一蹴されている可能性の方が高い。
けれど、今目の前で繰り広げられている言葉のない遣り取りには愛情が溢れていて、ちょっとやそっとの心構えでは太刀打ちできそうにも無かった。
それでも気を取り直して、サンドラに礼を言って珈琲で口を湿らせてから再度食事を始める。
シフォンケーキを食べる合間に授業のことや課題のことなど、他愛ない話題を口にするサンドラに便乗して、スティングは隣の二人にも話しかけてみた。いつかのランチのようにそれなりに和やかな時間が過ぎて行き、ふと時計に目を遣ったスティールが「そろそろ行こう」と席を立つ気配を見せる。
「何処行くか決めてんの?」
スティングの問いに、あっけらかんと少女は答える。
「うん、今日は映画観るために誘ったんだもん」
「ふーん、じゃあ俺らも……」
「付いてきてもどうせ席は別だよ? カップルブース予約してあるし」
「マジで!? あれってホントに個室みたいなもんじゃんか!」
驚いているのか怒っているのか複雑な表情のスティングのジャンパーの裾をサンドラがくいくいと引っ張る。
「ね、ねぇ、スティング、じゃあさ、私たちも空いてたらカップルブースにしようよ」
「うんうん、それがいいよサンディ!」
ぱあっと笑顔になりスティールが大きく頷いた。
これ以上は妨害のしようもないと諦めたのか、スティングはサンドラの意見に従うことにしたらしく、四人はそれぞれに腰を上げた。
手を繋ぎ直して腕全体に自分の腕を絡めるようにしながら、スティールは青年の右側を先導して歩く。
なんだか無性に嬉しくて仕方なくて、ちらりと見上げれば口元を綻ばせたローレンスが目を合わせてくれてそれでまた浮き足立ってしまう。
ずっと一緒にいられないのがとても寂しいと思う。
けど、また次に会う約束をしたり電話をしたり、それからどんな服を着ていこうかとかどんな話をしようかとかいろいろ考える時間も楽しい。
シャールと会う前の日も、こんな風にわくわくするけど、シャールの目にもっと綺麗に可愛く映りたいとかそんなことは考えもしなかった。
そういう違いが……あたしが〈銀の界〉を選べない理由の一つなんだろうか。
もしもお父さんお母さんのことが心配要らなくて、ただシャールかローレンスか選べと言われたら、そうしたらやっぱりあたしはローレンスを選ぶんだろうか。
そんな選択肢はないほうがいい。
このままがいい。
だけど、そんなときが来たら……。
2012/11/29 改稿