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しばらくそうしてお茶の時間を楽しんでから、ふとスティールは真顔になった。
「あたしね、こないだシャールにも、ローレンスとお付き合いしていること話したの。黙ってるの良くないし、あたしはシャールに嘘なんかつきたくないし」
足に凭れるのをやめて背筋を伸ばした表情は、先刻までの寛いだものとは別人のように強張っていて。付き合いの短いローレンスにも、そして同じ年月を生きてきたスティングにも、それは何かを耐えているときのものだと判った。
軽く頷いて青年が先を促すのを確認し、また口を開く。
「そうしたら、シャールが凄くショックを受けちゃって……その様子が、なんていうか本当にこの世の終わりみたいな、そんな受け止め方なの。あたしの説明もそれ以外の言葉も何一つ届いていなくて……。その時あたし、生まれて初めて……シャールのこと怖いって思っちゃって……」
思い出してぶるりと肩を震わせ、ローレンスがそっと手を添えた。
「……あんなに大好きだったのに」
ふるりと首を振る。
「ううん、今でも大好きな気持ちに変わりはないよ。だけど、その好きはシャールが求めているものとは違っていて……そのことを伝えても受け入れてもらえなくて……。怖くて。
でもあたし、シャールになら殺されてもいいって、仕方ないって思う」
「スティール」
眉を顰めて、肩に置かれた手の平に力がこもる。
「うん、勿論死にたくなんかないよ。けど、あたしにはシャールの願いは叶えてあげられないって……なんとなく解ってるんだ。不可能か可能かってことなら可能なんだけど……あたしは、こっちの暮らしを捨てられない。あたし、こっちで生きていく。今までみたいに定期的に会いに行くよ、シャールが望んでくれる限り。何かあったら飛んでいって、シャールを助けたいと思う。でももうきっと……絶対とは言えないけど……シャールが望んでいるような想いは返せない、ような気がするの」
言いたいことは全て言えたかどうかわからないけれど、今の時点での気付きを告げて、それぞれに黙して聴いていた二人を見遣った。
「はー、シャール真面目すぎっ。付き合ったって別れることもあるって知らねぇのかよ?」
パタンと本を閉じて、スティングがスティールに目を合わせた。
「別れないかもしれないでしょっ。そんな始まったばかりのときに不吉な言葉使わないでよ~! デリカシーないなぁもうっ」
いつものように軽口で返しながら、それでも想いを籠めた瞳は真剣なまま。
「ローレンス、ついでにスティングも、」
「ついでにって、」
「あたしを好きになってくれて、ありがとう」
泣きそうなくらい本気の言葉が、空気を震わせた。
束の間動きを止めたスティングは、困ったように顔を歪めてそれから笑顔になった。
「……なんだよ、それ」
ローレンスは口元を綻ばせて、無言のままこつんと軽く頭をぶつけてきた。
「あーもうなんだかなぁっ」
左手でくしゃくしゃと自分の髪を掻き回しながら、どうしていいか判らない様子のスティングに対して、本当はローレンスはキスの嵐を降らせたくて、取り敢えずは我慢している様子だ。
閉館の音楽が流れ始めて、スティングも本日のノルマは達したとばかりに腰を上げた。
はあ、と溜め息をついて、手にした本の背表紙でトントンと自分の肩を叩きながら、片付けを始めたスティールを見下ろす。
「あのさ、オレはシャールと違ってんなに深刻に悩むタチじゃねえし。ついでに多分気も長いから……。お前がローレンスさんに振られて泣いて縋りついて来るまで待ってるから」
「はぁあ!?」
驚いて目を見張る少女の後ろから、
「そんな日は永久に来ないよ」
とローレンスが不敵に微笑んだ。
「未来は誰にもわからない、てね」
スティングも精一杯意地悪く微笑んで見せると、靴を履いて鞄と本を脇に抱えて出口に向かっていった。
「なんだか変な感じになっちゃったね……」
申し訳なさそうにスティールはローレンスを振り返った。
「いや、これはこれで楽しいというか」
くすりと口元を緩める青年を不思議そうに眺める。てっきり気分を害したと思ったので、それならそれでいいかと思うけれども。
そして保冷袋をそのまま彼の手に渡した。
「良かったら、おうちで食べてくれるといいなぁ。頭使うお仕事だし、たまには甘いものも必要だよ?」
「じゃあ頂くね」
受け取って、二人も腰を上げた。
名残惜しげに靴を履きながら、あのぅ、とスティールが口を開いた。
「もし、この後時間があれば……でいいんだけど、」
「うん?」
「い、一緒に日没でも眺めたりなんか……しない、かな?」
上目遣いに恥ずかしそうにしている様子が可愛くて仕方なくて、ローレンスは思わずその場で抱きしめてしまった。
「勿論!」
選んだのはあのシャールとのお気に入りの場所。そう、転生前のディーンがシャールの体を借りて座っていたあの土手だった。
夏の初め、一緒に夜明けを眺めたのと同じ場所で、今度は転生後のローレンスと日没を見ようと昨晩不意に思い立った。
五十メートルほどの緩やかな傾斜の下に広がる草地と川を眼下に、整備された道路から体が隠れる程度に下りた場所に二人並んで腰を下ろす。
乗ってきたリニアは道端に寄せて停めたけれど、元々交通量の少ない道路なので問題はなさそうだった。
もうじき本格的な冬がやってくる。とはいえ、セントラルは比較的温暖な都市なので、たまに雪が降る程度で過ごしやすいのだけれど、日没の時間はもうかなり早くなっていた。
真っ赤に焼けた空は川面にも映り、反射してとても美しい。大きな太陽の上に行くに連れて青い空と夕焼けが混じり紫のグラデーションを作っている。そして更にその上には、輝きの強い星が瞬いていた。
いろいろな要素が交じり合うこの時間が好きで、ついつい足を運んでしまうのだけれど。
「誰かと二人で眺めるのはいいね……」
丈の短い草の上に膝を抱いて座り、スティールは傍らの青年にそっと頭を凭せ掛けた。
「綺麗だね、本当に……なかなか自分一人ではこんな機会は持てないよ。ありがとう、誘ってくれて」
その肩に腕を回して、ローレンスが応じた。
何故だろう。ずっと昔にも、同じような光景を見たような気がするのは。
イーストエンドはこちらより更に自然が豊富で、シュバルツ家はかなりの面積を有する庭のある邸宅なので、過去にこのような土手に日没を眺めに出向いたことなど無い筈なのに。
「どうしてっ!」
大粒の涙を零して、自分の胸に縋り付いて来た少女は。
確かにスティールだった。
「僕は……此処に来るのは初めての筈なのに……?」
幻視のように脳をちらりとよぎった顔は、今隣にいる少女のもので。
「どうかした?」
きょとんと見上げてくる少女は泣いてなんかいないのに、また一瞬泣き顔が重なって見えて、瞬きで振り払う。
指先で軽くこめかみを押しながら、もしかしてこれが、と呟いた。
過去の記憶……なのか?
「スティール、以前ここにディーンと来たことが……?」
肩に置いた手を滑らせて、紅茶色の髪に指を絡めて弄ぶ。
「あるよ、一度だけだけど」
あ、もしかしてよくなかったかなあ? ごめんなさいあたしそういうこと、良く判ってなくて……。答えてから途端に謝罪してしゅんとしてしまった少女に、ローレンスは頭を預けた。
「そういうのじゃないんだ……大丈夫だよ、ごめんね。なんだかそんな気がして、訊いてみたくなっただけだから」
「そうなの」
ほっと息をついて、そういうことなら……と続ける。
「えーと、だったらね、週末一時限授業が少ないから、良かったら映画でも観に行かない? 」
「え」
襟元で動いていた指先が止まり、ローレンスは頭を上げるとまじまじとスティールを見つめた。
「確か父も出張だったし……夕食でもいいけど……。あ、やっぱり街中はまずいかな? バレたら大騒ぎでデートどころじゃないもんねぇ……」
膝を両腕で抱えたまま、その指先は戸惑いがちにもじもじと動いている。頬が赤いのは、半分沈んだ夕日のせいばかりではなさそうだ。
「行く! 絶対行くっ!」
ごにょごにょと続けそうな言葉を遮り、ローレンスは両手でスティールの肩を掴んでその上半身を自分の方に向けさせた。
「嬉しいよ、まさかこんなに早くデートに誘ってくれるなんて……此処に連れてきてくれただけでも十分満足していたのに。夢みたいだ……」
長い睫毛の奥の黒曜石のような瞳が、揺らめきながらスティールを映している。川面に反射した光が僅かに差し込み、闇の色と深紫と紅の混じった世にも美しい瞳が、ただ一人の少女にまっすぐに向けられていて。恥ずかしい気持ちも何処かに忘れてしまったかのように、スティールはうっとりと魅入られていた。
こんなに喜んでくれるのなら、もっと早く誘っておけば良かった……。
あたし、変な心配ばっかりして、ディーンの時には人目なんか全然気にならないほど、彼を楽しませたいってそれだけに一所懸命になっていたのに。どうしてローレンスのこと、もっと気遣えなかったんだろ……。
ローレンスはきっとそんなあたしの迷いも気付いてて……それで待っててくれたんだろうな……。シャールの話とかされて、イヤにならないわけが無いのに。
そのまま、どちらからともなく顔を寄せ合い、唇が重なった。静かに互いの熱を感じながら、スティールも無意識に青年の首筋に手を這わせ求めていることを伝える。
自分に自信がないのはどうしようもなく。すぐにどうにか出来るものでもないから。
目の前の彼が求めてくれているものが全てで、あとは自分が納得できるまでがんばって自己研鑽するしかなくて。
それでもきっと、相手をどれだけ幸せな気分に出来るか、そっちの方が大事なんだと思う。
大事な人が、どんどん増えていって、もしかしてそれが相手を不安にさせることもあるかもしれない。
あたしが出来る精一杯のことは、その人に対して誠実にすること。
お父さんもお母さんも大事で、そしてシャールが、リルが、大事で。スティングも好きだけど、ちょっと違うかな? そしてディーンと出会って、ローレンスにも惹かれていて。
ようやく、少しだけど解ってきた気がするよ。皆が言っている「好きな人」の意味が。
こうして体のぬくもりを分かち合って、心も体も繋がっていたいと感じることが、そういう意味の「好き」なのかなって。
そんな気持ちは今まで誰にも感じたことが無くて、あたし知らなかったんだ。
どきどきして胸が高鳴っているのに、安心してしまって。あなたのちょっとした 指先の動きや瞬きなんかが、気になってしまうだなんて。
触れそうなほどの距離のまま唇を僅かに離してローレンスが囁いた。
「こんなに誰かを愛しいと感じたことはないよ……」
柔らかく見つめる眼差しが、これ以上はないくらいに優しくて。
「……ローレンス、あたし、」
声が、掠れた。
「あたしだって、___のこと、ちゃんと好きだからね!」
精一杯伸ばした腕で指を絡めて、必死で自分を見つめていた少女が、今目の前にいる。
ローレンスは、はっと息を呑んで、また瞬きで幻影を振り払った。
まだはっきりと自分の気持ちに名前を付けられないまま、スティールは大きな瞳を揺らめかせて青年を見つめた。
「あたしは……」
これが本当に恋愛感情なのか、まだはっきり決まっているわけじゃなくて。そんな曖昧なもので彼をぬか喜びさせてもいいのかと逡巡する。
それを正確に受け取ったローレンスは、もう一度軽く唇を啄み言葉も摘み取った。
「いいんだ、言葉で気持ちにレッテルを貼らなくていい。僕は待っているから……」
なによりも、こうして瞳で多くを語ってくれて、態度で示してくれている。本人にどれほどの自覚があるのかは判らないけれど、それで十分満足だった。
急がなくていい。ゆっくり歩もう。
そう感じられる幸せが愛おしい。
まだ時間ならたっぷりあるから、焦らなくていいんだと、言葉でも態度でも伝えてくれて……それがとても安心させてくれる。
あああたし、この腕の中が好き。
シャールのふかふかの毛皮に埋もれて日向ぼっこしているのとは、また違った安堵感があるの。
つるべ落としのように夕日は急速に沈んでいった。
結局殆どは互いに視線を絡ませていたため、視界の隅にしかその様子は映らなかったけれど、二人にとってはこれ以上ないくらい充実した時間だった。
2012/11/29 改稿