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涙が後から後から溢れてきた。もう夕食の時間だ。父親は今日は出張で不在だけれど、母親はきっと手料理を並べたテーブルの前で娘の心配をしている頃だろう。
そう思っても、どうしてか涙が止まらない。
一番傍にいて、同じ体験をしてきた自分が気付かなかったシャールの想い。一緒に暮らそうとずっと一緒にいたいと言われて、安易に返事が出来なくて、結局は断ったも同然の返答をしてしまった自分にも腹が立つし、サンドラと付き合いながら、そしてスティールがローレンスと付き合っているのを知りながら強引にキスしてきたスティングにも腹が立つ。
あたしがここでこうして普通の生活を送れるのも……全てシャールのお陰で。そんなことすら、あたしは考えもしないで、ただ毎日が楽しくて。
シャールの好意を『家族』っていう言葉で誤魔化して、あたしはシャールの本気から逃げているだけかもしれない……。
それでも先日シャールに伝えたことがスティールにとってはこれ以上にないくらい真実で。
自分の立っている場所がガラガラと崩れ去っていくような、危うい感覚に嵌って行く。
一人きりになってみて、夜風の寒さに体が震えた。いつまでもここに座っていても仕方がない。腰を上げてスカートに付いた草を払うと、鞄を両手で胸に抱き締めて、スティールは家路に着いた。
涙は乾いていても、くしゃくしゃになった顔は隠しようもない。出迎えて心配そうに尋ねる母親に、スティングと喧嘩しただけだから心配しないでと告げると、
「高校生になっても喧嘩するほど仲がいいなんてねぇ……。まぁほどほどにね? どっちが悪くてもちゃんと仲直りしなさいよ。」
と自分と同じくらいの背の娘の頭を優しく撫でた。
仲直りなんて、出来るだろうか。
他のことならともかく、キスについてはすぐに許してはいけない気がする。
一旦自室に上がり、物問いたげなリルフィに「話は後で」と告げて一緒に夕食を取った。
入浴も済ませてさあいつでも寝られるぞという態勢にまで持ってきて、うずうずと落ち着きのない様子だったリルフィに、ようやくスティールは今日の出来事を語った。いつもなら同席しているはずのジルファは、シャールの訓練のため〈銀の界〉に行ったきりである。
案の定リルフィはすんなり伸びた鶏冠を逆立てて、目を吊り上げて怒りを露わにした。
『あんのクソガキーっ! 今度見掛けたら絶対髪の毛むしってやるから!!』
あはは、と乾いた笑いで、そうされてもも文句は言えないだろうと暗に同意する。
ぷりぷりと様々な悪態をつきながらも、リルフィはスティールの心配がやはり先に立ってしまうらしく。
『でも、それで泣いてたんじゃないでしょ? あんな自己中心的な猪突猛進な男の言葉なんて気にしちゃ駄目よ。シャールは自分で望んであちらに残ったの。あんたのことも護りたいだろうけど、他の沢山の人や生き物を護るためにね。それは確かに人一人の肩には重過ぎる枷かもしれない。でもね、シャールだけじゃない、同じ理を抱える世界で同じ責を負った人がいる。誰かがしなくちゃいけないことなのよ。感情だけでは世界は治められないの。治めたくなんてなくても、それを全て捨て去って逃げて隠れたって、そんな自分を本人が許せない。たとえ周りが許してくれても、許せるはずがない。そういう生まれなのよ。不公平だと思うかもしれない。けれど世界はそんなに公平には出来ていないのよ。』
〈金の界〉の〈君〉は、悠久ともいえる長い年月、一つの世界をずっと一人で治め支えてきた。その事を考えるならば、シャールの役目は今始まったばかりと言ってもいいだろう。
誰もが望んで得たわけではない〈ちから〉そして〈役目〉。
誰か一人が世界の命運を決めなくても良いように、現在の〈狭間〉ほどに血が薄れるまでは、あとどれくらいの時を必要とするのだろうか。
そして全ての世界がそうなったときに、それが本当に公平で安全な世界を作るのだろうか。それとも〈銀〉のように崩壊への道を進むのだろうか。
「でも、シャールが可哀相だよ。何かもっとあたしに出来ることないのかな」
思案気にスティールが問うた。
『同情なら何もしちゃ駄目よ。今まで通り毎週末には二人でピクニック。日頃のストレスを発散させてあげる、それだけで十分なの』
大きく羽を広げて、リルフィが答えた。
「でも」
『じゃああんた、シャールが願うこと叶えてあげられるの? こっちの生活捨ててあっちの世界に住んでシャールと結婚して、子供沢山産んであげるの?』
「結婚? 子供??」
ひええーっとスティールは両手を頬に当てた。
『そうよ、だってそれがシャールの願いでしょ。ああホントこんなこと私の口から言いたくはなかったんだけど仕方ないわっ』
怒ったように、呆れたように……リルフィは言った。
「なんでそんなこと解るのよぅ」
『解るわよ、あんな眼で全て語ってますって純粋な子供、他にそうそういるもんですか。体全体であんたのこと大好きって表現してるわよ。気付いてなかっのたはあんだだけかもね』
「あうー。リルがいつになく厳しい気がするんですけど」
『私はあんたが一番大事だから、変なことぐちゃぐちゃ考えてドツボにはまって欲しくないだけよ! とにかくね、出来る事と出来ない事があるの。出来もしないこと延々と悩んで考えて自分に嘘ついて実行なんてされたくないし、普通に楽しく生活していればいいのっ』
「えぇ~っ。そうなのかなぁ。それって変じゃない?」
『変じゃない! 何処が変なのか指摘してみなさいよ。』
「うう……」
『出来ないでしょ? だから私の方が正しいんだから、もう悩まないっ。はいおしまい!』
そういうと、早く寝なさいと言わんばかりに勝手に明かりを消してしまった。
きっとリルフィの言っていることも正しいのだろう。そう感じはしても、それで納得して忘れてしまってはいけないことのような気がする。
知らなかった気付かずにいた今までのスティールではなく、もっときちんと受け止めて理解したうえで幸せを掴まなければならない。出来れば皆が幸せになればいい。願いが全ては叶わなくても、いつか幸せになれたらいい。
勉強机の上に置いてある携帯端末が振動した。木目のある机上で僅かに跳ねるように、ブブブブブブと音が響く。
深夜とまではいかないが、健康的な生活を送るものならばそろそろ就寝する時間だ。
何か緊急の用だろうかと手に取ると、パネルにローレンスの心配そうな顔が映った。
『遅くなってごめん』
「あ、あたしこそ、何だか忙しいときに電話しちゃって」
『そんなのいいんだよ。それより、窓開けてくれる?』
「窓?」
もう夜風はかなり冷たい。当然のごとく、最近閉めっぱなしにしたままのベッド脇の大きな窓に寄って行くと、鍵を開けてよいしょとガラス戸をスライドさせた。
一番に薄い月が目に入り、目線を下にやると家の脇の路上で黒いコート姿の男性が手を振っていた。
「えっ」
『ちょっと窓から離れててね』
端末から再びローレンスの声が聞こえ、言われた通りに身を引いた途端にふわりと風が動いてベッドの上にどさりと青年が腰を着いた。
「こんばんは」
いそいそと革靴を脱ぎながら、青年はにこりと笑顔を向けて、床に靴を置くと入ってきた窓を慎重に閉めた。
「あ、あの……ここ、二階……」
いつの間にやらリルフィは定位置の止まり木に戻って、愉快そうに二人を眺めていた。そんなことにも気付く余裕はなく、スティールは自分のベッドに腰掛けているローレンスを凝視していた。
「驚かせてごめんね。反重力装置の応用でね、ちょっとだけ靴に細工してあるんだ」
脱いだコートを軽く畳みながら、唇の端を綻ばせて、ローレンスもスティールの表情を窺っている。暗がりの中でもまだうっすらと残る涙の名残に気付かれてしまったかもしれない。反射的に手で顔を隠そうとしたときにぐいと腰を手繰り寄せられて、スティールはローレンスの胸に倒れこんだ。
僅かにあがる悲鳴も全て胸に抱きこんで、ローレンスの長い腕が細い腰に巻きついたままその大きな手の平は脇腹を撫で上げている。
薄い布切れ一枚の夜着を通して体温が伝わってきて、緩やかな愛撫にスティールは安心したように体を預けた。
『不法侵入の上に何だかいかがわしいことしようとしてるのかしら』
後ろではリルフィが呟いているが、勿論青年には普通の鳥のさえずりにしか聞こえていないはずだ。
ちらりとそちらを見遣ると流れるようなウインクをして、
「えーと、リルフィ? 寝ていていいからね。」
とのたまうローレンスには流石に降参したようで。リルフィはそれきり口を噤んでしまった。
「スティール、訊いてもいい?」
その胸に抱かれることに随分慣らされてしまった少女は、おどおどと顔を上げた。
「何があったの? どうしてそんな跡が残るくらい泣いてたんだい」
先程の強引な論法で半分くらいは納得していたスティールだったけれど、そう言われてまた顔が崩れそうになる。
「ごめんなさい、ローレンス。ごめんなさい…」
「どうして? 僕は何も謝るようなことはされていないよ」
「だってきっとあたし、ローレンスに酷いことしてるんだ……」
スティングには大きな啖呵を切ったものの、ときたま面影を追っていること、そしてディーンだったらと比べていることは否定できない事実だったから。
「きみは何も酷いことなんてしていない。僕がそう言うんだから……何も気に病む必要はない。誰かに何か言われた?」
誰かといっても、現在この関係を知っているのはスティングとアンジェラだけなので、自ずと犯人は判ってしまうのだったけれど。
びくりと少女の肩が反応して、やはりスティングと何かあったのだとローレンスは察した。
「ごめんなさい、あたし……あたし……あの、」
どうしても次の言葉が出てこない様子で、今にも涙が溢れそうな瞳が正視に耐えかねて逃げようとする。
「もう泣かないで」
降るように、ローレンスの唇がスティールの額に落ちた。
「何も言わなくていいから」
眦を。左にも、右にも。そして鼻先、両頬。宥めるように、静かにそっと優しく舞い降りて。
それから唇へと。
どうしてこんなに安心してしまうの。
何も不安なことなんてないって言ってくれているみたい。
真綿にくるまれて眠っているみたいに、安心できる腕の中で。
訳もわからずもやもやと蟠っていた気持ちが解されて、溶かされて、霧散していく。
しっとりとそして熱く求められて、重ねた唇の隙間から堪えきれない喘ぎが漏れる。
上衣の裾から進入した手の平が、素肌の上を撫でて。その時々に、僅かに声が上がってしまう。
「……あ……ぅ、やっ……んっ」
意味を成さない言葉が零れ落ちて、体の奥がじんと熱くなっていくのに頭の中は真っ白で。
キス。ローレンスのキスは、こんなに気持ちいい、のに。
スティングにされて、恐怖と怒りと嫌悪感と、そんなものしか感じられなかったのは……何故?
いつもより長い口付けもやがて啄むような軽いものに変わり、そっと顔が離れていく。
とろりと熱を含んだ瞳で見上げれば、深紫の奥にもちらちらと何かが潜んでいる。
「駄目だ……僕の抑えが効かなくなる。」
ましてやこんな暗い部屋で布団の上では。
よくぞここまできて手を止められたとリルフィは少し驚いていたりした。
ローレンスはそのままスティールを布団に入れると、自分はその手を握って床に座った。
「眠るまでここにいるから、ゆっくり休んで忘れるといい」
「うん……」
半ば閉じかけた目で、傍らの青年を見つめて、握っていない方の手でそっと頭を撫でてくることに安堵して、しばらくして目蓋が落ちた。
それでもローレンスはしばらく頭を撫で続けて、握った手から完全に力が抜けたのを確認してからその手を布団の中に入れてやった。
「おやすみ、良い夢を」
ちゅっともう一度軽くキスを残して、立ち上がる。
『子守させているみたいで悪いわね。あんたが前世とそんなに人格が違っていないって、ようく解ったわ』
チチチ、とリルフィが独り言のように鳴いた。
「ええと……流石に外からは窓が閉められない……よねぇ。さて、どうしたものか。」
コートに袖を通しながら、こちらも独り言のように呟くローレンス。さして困っているようでもなさそうだったけれど、ここは一つ助け舟を出すことにした。
止まり木から窓枠へとリルフィは舞い降りて、嘴と足を使って器用に窓を開けて見せる。気密性はかなり高いが、従来の樹脂サッシより開閉はアルミに近い容易さを持つガラス戸がすんなりとスライドするさまを見て、ローレンスは笑顔を見せた。
「もしかして、閉めるのは任せてくれってことかい?」
大きく頭を上下させ、リルフィは嘴を戸外へと向けた。
『早くしないと寒いじゃないの』
「じゃあお言葉に甘えて。さよなら、またね」
革靴を履いた青年が、ひらりと夜空に舞った。コートが翻り、その姿はまるで大きな黒い鳥のようだ。
感慨に浸ることもなく静かにそして素早く窓を閉めると、路上では青年がこちらに向けてひらひらと手を振っていた。
やがてその姿がリニアカーに乗り込み遠ざかるのを見守りながら、リルフィも不思議な安堵感に包まれていた。
愛しくて大切な少女を、同じように大切にしてくれている青年が、前世と姿は同じでも記憶がなければ別人だと思っていて、それがリルフィにとっては不安の種だった。
けれどやはり根本では同じなのかと、成長過程で多少は違ってくるだろうけれど、以前の記憶などなくても大事なものを大切に扱うところは変わっていなくて。
取り敢えず一安心、といったところですか。
あー、こんな日にあいつがいなくて本当に良かった!
ジルファが知れば悔しがるであろう事を想像しては悦に入り、リルフィはそのまま少女の枕元で眠りに落ちた。
2012/11/27 改稿