誘惑
なんとはなしに、図書館の閲覧コーナーで逢瀬を楽しむようになってしまった二人。
この日のスティールは、前回会った時のシャールの不可思議な言動について、ローレンスに相談めいた話をしていた。
「ね、なんか変だよねぇ~」
ずっと一緒にいたい。そういう気持ちはスティールにだってないわけではない。
けれど、あんなに切羽詰った様子で急に具体的な話になるなんて困ってしまう。
「へぇ」
さて、相談されたローレンスの方はといえば。シャールという少年がスティールのことを好きなんだなということが判りはしても、自分もそのような感情を抱いた経験がないためあまり軽はずみなことを言うのは控えている。
今日も図書館の中は二人の貸し切り状態。何の気兼ねもなくカーペットの上に座り込んでおしゃべりに興じる二人は、二面の壁に背を預けて正面からではなく斜めにお互いの顔を視界に納めている状態だった。
「ところで、スティールはいつもシャールとはどんな風にスキンシップしているの?」
接し方といってもピンとこないだろうと、より具体的な言葉で質問するローレンス。
「スキンシップ? っていうと?」
それでも青年が何を尋ねたいのか判らなかったらしく首を傾げる少女。
「例えば……そう、スティングとだったら多分抱きついたりはしないよね? バイクの後ろから腰に手を回すのは別として」
「ああ、そういうことかぁ。うん、それだったらね……ええと」
しばらく考えていたけれど、言葉にするのが上手くいかなかったらしく。
「こんな感じ」
にこっと笑って両手を床について這うようにしてローレンスに近寄ると、そのままガバッと首に手を回した。
「えーと……じゃあ、シャールはその時こんな感じ?」
流石のローレンスも少々意表をつかれたものの、すぐに気を取り直して腰に手を回した。
「そうかもー。よく分かるね、ローレンス」
おいおい、と思いながらも曖昧に相槌を打つと、「それからねぇ」と少女が頬に口付けしてきた。チュッと音を立てて瑞々しい唇が離れ、至近距離から瞳を覗き込むように見上げてくる。ローレンスは笑顔のまま微動だにしていないけれど、内心またしてもやられた感で溢れていた。
「こうしたらシャールが変な顔して、あたし嫌われたのかと思っちゃったんだけど、何だか違ったみたいで。でもその後シャールの様子変なんだよね~。ローレンスは? やっぱり嫌だった? だったらごめんね?」
嫌なはずがないだろう?
こうして二人きりで会っている状態で、大抵の男ならば下心ありありな筈だ。
そんな時にそう、スティールに判断できない複雑な表情をしたということは。
「その時に本当はシャールがしたかったことならわかるけど」
そっと囁く。
「え? それも分かるの!? なんで? どうして? シャールは一体……」
「いいの? それを僕から知らされても」
深い紫の瞳の奥では、この状況を目一杯楽しもうとしている色がちらほらと見え隠れしている。それはアンジェラでないと気付かない色であったので、スティールはただじっと長い睫毛の奥の魅惑的な瞳を魅入られたように見つめていた。
ごくりと喉が鳴った。
「うぅ……ホントはよくないんだろうけど……知りたい……」
「いいの?」
こくりと少女が頷いて。
「じゃあ、僕も実技で」
ごく自然な動作で、ローレンスの唇がスティールの下唇に触れた。ふわりと、掠めるように。
嫌がる様子はなくただ目を見開いた少女に、今度はやや首を傾けて瞳を閉じながらきっちりと唇を重ねる。
何かいいたげに開いた隙間から舌を滑り込ませて、歯列に沿って口内を探索し、出会った柔らかな肉に絡めて吸うと、首に回された手がギュッと髪の毛ごと頭を掻き抱いてきた。
「ん、ふっ……」
拒否したいのか離れたくないのか自分でも判らないスティール。
ただ、生まれて初めての丹念な口付けに頭の芯まで蕩けたようになり、何も考えられなくなっていた。
いつの間にかシャツの裾からローレンスの長い指先が中に入り、女の子のものとは異なるやや硬めの骨ばった手の感触が脇腹から背中を撫で上げる。
ぞくぞくとえも言われぬ快感が体を這い上がってきたが、「待って」と息も絶え絶えにようやく言葉が漏れた。かなり小さくて掠れてはいたけれど。
ローレンスの手がぴたりと止まり、最後にもう一度唇を吸ってから顔が離れていった。スティールの両腕がするりとほどけて両脇に垂れる
「嫌だった?」
経験上そうではないと知りながら、少し申し訳なさそうにローレンスが尋ねた。黒くて長い睫毛が揺れている。
「う……ううん。いやじゃない、よ……」
今更ながらにカーッと赤面するスティール。
嫌じゃあないけど、でも。
ディーンの記憶がなくて、どうしてローレンスは会って間もないあたしにこんなこと出来るの?
それを口にして良いものかどうか逡巡していると。
ああ、そうか。はたと思い出したように、ローレンスがスティールの手を取った。
「そっか、カフェテリアで言ってたものね。うん、順番が逆になってごめん」
わけも分からず、ほけっとなすがままのスティール。
「僕と付き合ってください」
自分の膝の上に乗った少女の両手をそれぞれの手に乗せ、真剣な表情で言の葉を紡ぐ。
「あ……あの、あたし」
未だに自分でもどうしたいのかわからないままに、それでも自然と出てきた言葉は。
「実はまだちゃんとお付き合いってしたことなくって、だからあの、ローレンスにとっては付き合うって……どういうことなのかな、と……」
お互いに相手の言動には驚かされる日だった。
ローレンスの方も、スティールの意外な言葉に驚いているのだけれどそれは表面化していないだけで。
「このあいだスティングに言ってたじゃない。そういうことはちゃんと付き合っている状態でするべきだって」
だからつまり。
そういう方向で。
「で……」
「で……?」
「でもあのあたしじゃあ、その、釣り合わないっていうか、ローレンスの周りにはもっと素敵な女性がいっぱいいて。あたし本当はディーンに再会するまでにもっとちゃんと女を磨いとく予定だったのに、まだこんなだし、それに記憶ないのにどうしてローレンスがあたしとなんか」
「なんかなんて言わないで。僕はきみだからいいんだ」
確かにここまでの言動全てにローレンスの駆け引きが反映されていることは否めない。ローレンスにとっては、生きていく中での一挙一動がサバイバル。本音も建前も分からなくなるほどに全てが計算された動きで。でもそれでも、確かにこの少女と関わっていたいと心底感じていた。
「僕は、きみがいい」
ここで断られたらどうしよう。
生まれて初めてそう不安になった。
元々自分から相手を選ぶことなどないローレンスが、今初めて欲する相手がこんな年下の少女だとは。
もっと時間を掛けるべきだったかもとも思ったが、これまでのスティールの話や周囲の状況を分析するに〈恋愛対象〉として明確にしておかないといつまで経っても前進できないかもしれないと感じたのだ。
それで今日話の流れも手伝ってかなり強引なことをしてしまったのだけれど、実は相手が違えばこれはさして強引なやり方ではない。
場所が図書館ではなくてもっとプライベートなところで、そして相手がスティールでなかったならば、互いに一線を越えるかもしれないのは覚悟の上だろう。ことは最後まで行っていた確率が高い。勿論そんなことにまで気が回るスティールではないので変な勘繰りを入れられなくて良いのだけれど、未経験の流れに身を任せながら、ローレンスの中には言い知れぬ不安と焦りがあった。
「あたし、あたしは……」
親しくなりたいと思っていたし、ディーンが自分のことを恋愛感情で好きだと愛しているという事は分かっていたけれど。それでもやはり理解できていなかったのだと自覚する。
恋焦がれる切ない想いが、まだ実感できない。
何かに追われる様に必死でディーンの転生後の姿を追い求めてきた、その時の気持ちが、恋愛感情に近いものではあるかもしれない。
でも、好きになるかもしれなかったディーンと、ローレンスはやはり別の人で。魂は同じでも人格は別だと段々分かってきて……。
あたしは、ディーンとだったら付き合ってもいいのかな。
ローレンスだから即答できないのかな。
シャールが今みたいにあたしにしたかったのなら、やっぱりシャールもあたしと付き合いたいのかな。
本当に判らない……。
シャールのことはまた考えるにしても、まずは今現在のこの状況をしっかりと見つめて認識して対応することが先決だ。
何処か遠くを見つめていた瞳に光が戻った。
おや、と気付いてローレンスの手に力がこもる。
「あたしね、ディーンに愛しているって言われてとても嬉しかったの。本当に。そして、探してって言われてこれ以上ないくらい必死になって探したんだ。早く早くって、なんだか毎日気が急いて背中を押されているみたいに。だけど実際こうしてあなたを見つけて、それでどうしたらいいのか、本当に何も判らなくなっちゃって。あたしまだ、あなたの想いに応えられる自信がないよ。けど……」
「けど、それは〈ディーン〉の想いだ。僕の気持ちも考えて?」
うん、と。こくりとスティールは頷く。
「ああ、なんだか上手く言えないけど……」
「うん」
「あたし、ローレンスのこときっと好きなんだなって。だから」
すう、と息を吸い直して。そして息を潜めて聴き入っている青年に告げる。
「まずは付き合ってみてもいいかなあと、思う」
琥珀の瞳が、真摯に深紫の瞳を見つめてその奥まで覗き込んで。重ねた両手が小刻みに震えていた。
ふわりと、ローレンスの口元が緩んだ。
我知らず、柄にもなく緊張していたらしい。こんな不安な思いなど感じたのは何年振りだろうか。
「ありがとう。嬉しいよ」
手の平に載せた少女の手に優しく口付けを落とす。それぞれの指先に、甲に、しるしを残すようにゆっくりと。
そうしたらスティールはまた頬を紅潮させて狼狽した様子を見せた。
「……っ。やだ、なんか……凄く変な感じが……あっ」
悶えるように身を捻り手を引こうとするので、軽く握っていた手を離すとローレンスは再び腰に手を回した。
「や……っ」
自分でも驚いているらしく、パニック気味のスティール。ローレンスの方は嬉しい誤算に別の意味で口元が綻ぶ。どうやら自分は、少女に異性として認識されているらしい。そしてその事に本人は気付いていないのだろう。
ぐいと抱き寄せると、細い肩は小鳥のように小刻みに震えていた。
「明日もまた話をしよう」
耳元で囁き、その声に反応する体を確かめ、あまり押し過ぎると怖がらせてしまうかなとここいらで引く事にする。
「うん、また……明日……」
まだ赤面したまま頷く少女の髪を手櫛で梳きながら、不思議な充足感に包まれていく。
色々な意味で、毎日を楽しんでいるローレンスだったが、未経験の気持ちだった。
一緒にいるだけでこんなに満たされた気持ちになれるものかと、茫洋と視線を彷徨わせる。 そうしてただじっと抱き寄せている間に落ち着きを取り戻したスティールは、撫でてくれる手の平の優しさにうっとりと目を細めた。
美人秘書からのお迎えコールまで後数分。
流石の恋愛音痴少女も目覚め始めた記念すべき夕暮れだった。