炎艇編3
怪しい男はどんどん港へ近づいていく。あれからどれほど走っただろうか、ずいぶん遠くまで来てしまった。これでこの男が月旦の居場所を知らないのだとしたら、かなりの無駄足だった。けれど男の言った犬というのが牙城のことに思えて仕方なかった。犬ではなく実際は狼だが、犬を連れていて、怪しい男に付けねらわれるような人物はあの場では月旦だけであったはず。群青は野性の勘に頼って無駄足を踏むことがよくあるのだが、今回だけは勘が当たっていてくれと思う。月旦が見つからなければ、群青は弦莱へ帰ることも出来ない。また振り出しに戻る。巻物も意味を成さない。
小道の角を曲がったところで、海が見えた。夕日に照らされて黄金色に輝いている。港には何隻もの大きな帆船がある。あの船のどれかが番司行きであるのだ。船は目の前にあるというのに、乗るための条件がそろわないとは。もどかしくて腹立ちさえ感じてしまう。
「あんの、無用心皇子め…!」
悪態をつきながらも無事であれと祈る。群青と月旦が初めて出会って数日、群青には少しばかり月旦に対して仲間意識が芽生え始めたというのに、屍にでもなられたら夢見が悪くて仕方がない。
男は港の一歩手前の商店街で食料を買い漁り始めた。両手で抱えるほどの量だ。やはり船に乗るつもりなのだろうか。だとすれば月旦は同じく船の中にいるのだろうか。
「対鶴長!」
「丈利、また遠出か?」
「いやぁ、これは……」
荷物の隙間から男が誰かと会話しはじめた。男は群青に背を向けていて、話し相手は丁度荷物で隠れてしまい、人相がわからない。声からすると若い男のようで、名前は対鶴長というのだろう。また、例の男の名は丈利と言うらしい。対鶴長は珍しい語感の名だが、丈利というのはありふれた名だ。たいした手がかりにもならない。
「相功の命か?まさか、餌じゃないだろうな」
「違いますよ!これは船長の個人的なものです」
「ふぅん…悪さはほどほどにしろよ」
「大丈夫ですって。対鶴長こそ、陸に上がって何をしてるんです?」
「ちょっと探しものを頼まれてな…お前、知らないか?黒い犬を連れた少年なんだが」
丈利の返事には少し間が空いた。黒い犬を連れた少年とは、まさしく月旦ではないか。このまま後を付けていくしか、月旦の居場所を知る方法はないと思われたが、ひょんなところで幸運に恵まれたのかもしれない。群青は己の勘のよさに心の中で歓喜の声をあげた。二人の男から一軒ほど離れた距離で、物陰に隠れながら一人ほくそ笑む。対鶴長は見たところ丈利よりも立場が上であるように思えたし、彼が月旦を探しているのなら、丈利は簡単に居場所を教えるだろう。
「少年…?さぁ…黒い犬なんてその辺にもいますしねぇ」
丈利はしらを切るつもりか。思惑違いで、群青は慌てて二人を凝視する。頼むからそこで引き下がらないでくれと、祈るように荷物の向こう側へ念を送る。
「俺もそう言ったんだが、寄り添うようにべったりとくっついているから、普通の飼い犬と主人ではないと言うんだ。綱もつないでいないらしい」
「いやぁ、俺は見てませんが」
「そうか、邪魔して悪かったな」
「いえ、じゃあまた」
丈利はやや足早にその場を去った。ここはやはり月旦の居場所を知っているであろう、丈利の後を追いかけるべきだろう。対鶴長が誰に頼まれて月旦を探しているのかわからないが、居場所を知らない以上、今接触する意味はない。けれど再びどこかで出会う可能性はありそうな気がした。月旦を探すもの同士だ、きっとどこかで出くわすのだろう。
群青は再び駆け出した。丈利の背中だけを目で追う。が、悪しくもそれを静止するように、声をかけられた。
「おい、坊主」
群青に声をかけたのは対鶴長だった。いきなりのことに思わず足が止まってしまう。もしや、聞き耳を立てていたことがばれていたのかと思えばそうではなく、
「お前、目が青いな」
言って対鶴長に顎をとられる。大きな右手に掴まれてしまい、群青の視界から丈利が消えた。代わりに目に飛び込んで来たのは対鶴長の顔だった。歳の頃は三十路に差し掛かったあたりか、丈利と大して違わないだろう。思ったよりも柔和な顔つきで、顎鬚がなければもっと幼く見えたかもしれない。左にばかり偏った後ろ髪は、肩の辺りまで伸びている。爽やかな笑みを浮かべて話しかけてくるのだが、今の群青はそれどころではない。
「俺、急いでるんだけど」
「まぁ待て。丈利を追わずとも少年は無事だ。餌の量からして一週間は生かしておくつもりだろう」
「………」
飄々とそんなことを言う。群青の存在など、荷物で見えなかったはずなのに、どうしてわかったふうなことを言うのだろう。
「あんた、何者だ?月旦だけじゃなくて俺のことも誰かから聞いているのか」
「まぁな。けど、お前の名前までは聞いていない」
「…青彩、だよ。なんで丈利が月旦の居場所を知ってるってわかるんだ」
「あやつの主人は相功と言ってな。表向きは貨物船の船長だが、裏では密輸に密航の手助けをしている。最近どうも金回りがいいと思ったら、花冠皇に月旦皇子を捕まえろと命を受けたらしい。皇は才華はおろか、俗氏からも皇子を排除したいようだ。さっきの問答は確認だ。丈利は図星を指されると途端に言葉を濁す」
「さっきの話じゃ、月旦を捕らえた相功たちは船で遠出をするそうじゃないか。今船を出されたら追いつけないぞ」
「相項の船は明日の朝にならないと出ない。港の決まりだ」
「……無事ってのは本当か?」
「少なくとも、生きてはいるだろう」
群青は対鶴長の手を乱暴に振り払う。睨みを利かせながら胸を張った。
「敵か、味方か、はっきりしろよ」
「どちらでもない」
「俺たちのことは誰に聞いたんだ」
「古い友人だ」
的を得ない対鶴長の言葉に群青は苛立つ。群青の方が身長が低いので、見下ろされる格好になるのも気に食わなかった。
「俺を引き止めてどうしようって言うんだ。おかげで丈利を見失ったじゃないか」
「相功の船なら俺が知っているから大丈夫だ。丈利についていったところで、お前は船に乗れないだろう」
「乗れずとも乗ってやる」
「威勢がいいな。まぁ、ちょっと来い」
言うなり対鶴長は群青の髪を掴んで歩き出す。痛みに顔をしかめつつ、悲鳴は堪えて群青は叫んだ。
「お前なっ!どこに行く気だ!!」
「不法侵入者だったら仕置きをしてやろうと思って。お前の髪は染められているだろう」
「離せ!!」
一年以上も自分を偽って旅をしているのだ。今更青彩から群青に戻るわけにはいかない。何の成果もなしに弦莱に連れ戻されでもしたら、これまでの苦労が水の泡だ。群青は髪を掴んでいる対鶴長の手首を捕らえ、渾身の力で締め上げる。雄雄しく体格のいい大男には子供で細身の群青など敵いそうもなく見えるのだが、群青は見た目よりも怪力の持ち主だ。丸腰で一年やってこられたのはその怪力のおかげでもある。対鶴長の骨が軋みはじめたところで、やっと髪から手が離れていった。群青は頭を擦りながら、対鶴長は目を丸くしながら互いを見つめた。
「噂どおりだな…怪力は何百年経っても健在とは」
「噂…?」
対鶴長の一言に眉根を寄せる群青だったが、返事の変わりに鋭い刃が鼻先へ飛んできた。群青は思わず手甲で顔を庇った。
「こちらも友人に聞いただけで、詳しい事情を知らないんでな。お前に洗いざらい吐いてもらおうか。でなければ皇子の居場所は教えない」
「…なんだそりゃ……」
刀を抜いたのは対鶴長だ。あまりにすばやいので、目で追うこともできなかった。剣技ならば対鶴長は群青よりも実力が上であるだろう。先日の鉤爪男とは比べ物にならない。対鶴長は戦闘に長けている。
うっすらと冷や汗をかきながら、群青は対鶴長を見つめた。ここで戦闘になるくらいなら、大人しく事情を話すべきだろうか。彼が敵でも味方でもないなら、こちら側へ丸め込んで手助けさせればいい。この男は使える。
群青はそう思って笑みを浮かべた。子猫が虎に化けた瞬間だった。