炎艇編2
牙城のうなり声が聞こえる。冷たい石の床が眼前に広がっている。磨かれてなどいるはずもなく、苔むしてさえ居そうなほど湿気の強い、黴臭い部屋だった。鉄格子がはめられているところを見ると、どこかの地下牢だろうか。太陽の光も感じられない。花冠皇宮の地下にも同じような牢屋があって、使用人たちから「入ってはいけません」と、きつく忠告されていた。ぼんやりとそんな幼少時の記憶を思い出す。
殴られたのか蹴飛ばされたのか、牙城の毛皮に顔を埋めていた月旦には、犯人が誰なのかもわからなかった。道端でおとなしく群青を待っていた。いや、月旦自身としては待っているというよりも、ただ動きたくなくて座っていたと言った方が正しかった。座っていただけの月旦は、自分がなぜこんな牢屋に転がされているのか理解できなかった。頭に衝撃を受けたので、状況も未だよく飲み込めていない。先ほどまで意識を失っていたらしいことなんとなく察することが出来るけれど。
重い頭をゆっくり起こす。うつぶせに転がされ、両手首は背中側へ一つに括られている。足首には重い鎖が巻きつき、鎖の先には重そうな鉄の玉が括りつけられている。まるで囚人にでもなった気分だ。肩へ力を入れて、半身を起こそうとするけれど、やけに力が入らない。ぶるぶると筋肉が無様に震え、苔で滑って身体は石の床へ逆戻りする。薬でもかがされたのか、それとも知らずに薬を打たれたのか。身体に力が入らないのは、自分の意思以外の何かが作用していると思われる。
ふとため息をつくと、黴の臭いに混じって鉄くさい臭いが鼻を抜けた。鉄格子が古く、さびているのだろうか。身じろぎすると、床の冷たさをより一層強く感じる。けれどその冷たさが、妙に心地よい。
「………」
長い髪が顔に数本張り付いていた。顔の周りが濡れている気がする。湿気も相当かと思ったけれど、そうではなかった。液体が顔を伝っているのだ。頬を伝う水が鼻先を垂れる。垂れた液体は唇をも伝った。舐ると液体は知っている味だった。
「…ま、…さか………」
────血、の味。
血だと気付いて、やっと感覚がはっきりしてきた。身体が熱い。特に左耳が熱を持っている。床が冷たいのではなく、月旦の身体が熱いのだった。左耳にぶら下がっていたはずの金の耳輪が引きちぎられ、無くなっている。患部を見ることなど叶わないが、首を回して、耳を見ようとしてしまう。意識したとたんに傷口が傷み出し、脂汗が浮いてきた。涙を浮かべそうになり、その上悲鳴も上げそうだった。痛みや苦痛から叫び出したいのではなく、金の耳輪が無くなったことに対して絶望したのだ。あの耳輪は、花冠の皇族の証。一族を追われた時に、右の輪は父に奪われてしまったが、左に残ったあの輪だけが、月旦と花冠皇族を繋ぐ最後の頼みの綱だったのだ。
「牙城…っ!」
姿の見えない相棒の名を月旦は呼んだ。喜びも悲しみも分かち合ってきた友だ。この絶望も牙城なら受け止めてくれるのではないか。答えるように牙城が吼える。声は隣の牢からだろうか。壁一枚を隔てた、おそらくは月旦が転がされている場所と同じつくりの牢の中で、牙城は無事でいるだろうか。声だけでは状況がわからない。
「…くそっ」
月旦は再度肩へ力を入れて身体を起こそうとした。けれど、もがくほどに流れる血に髪が吸い付き、視界を妨げる。更には目にまで、血が流れ込む。血を流そうというのか、月旦の目は涙を溢れさせた。その涙は感情を伴わずに流したものであったのに、月旦は涙から過去の記憶を思い出した。悲しみの記憶だ。
かつて、まだ月旦が幼い頃、人並みに両親から叱られ、一晩中泣いたことがあった。涙は寝台の布団に吸収されるばかりと思われたが、朝方になって月旦の腫れた目を優しく撫でる手があった。月旦を慰めたのは歳の近い使用人で、彼ばかりは十二歳で皇族から外される際も月旦の味方になってくれた。
懐かしい、昔の友だ。牙城を月旦にくれたのも彼だった。けれど今、彼は行方知れずで花冠にも帰っていない。花冠皇に命を狙われているのか、それともすでにこの世の者ではないのか。月旦を庇ったばかりに、彼は故郷の花冠から追い出され、それきり会うことも叶わなかった。月旦が最後に泣いたのは彼が花冠から追い出されたときだった。
「涙由…」
泣いても涙由の優しい手は頬へ伸ばされるはずもなかった。そんなことは十二の時に理解したはずだったのに、月旦は泣くことを止められなかった。