炎艇編1
花冠の皇子である月旦は、実際のところ花冠から他の集落へ行ったことが無い。花冠は大きい街であったし、他へ出て行かずとも生活は十分に出来る。何より皇宮の中では敬われ、蝶よ花よと大事にされた、出て行こうなどと思うはずが無かった。と言っても、大事にされたのは十二歳の誕生日までであったが。
一行は花冠を出立し、隣の炎艇へ来ていた。花冠の門を一歩出てしまえば炎艇なので、距離的の移動はまだ数キロと言ったところだ。集落と集落の間には門こそあれど門番も居なければ通行手形も必要ない。大きな門は常に開いた状態で、もとより扉などついてはいないのだった。炎艇は港町で、主に二つの半島からなる才華の集落を船でつないでいる。一行は北部半島の最南端集落、番司行きの船に乗るつもりだった。番司から鎖草の森を抜け、その隣に位置する才華州最古の巨大都市、要郭を過ぎるとまもなく弦莱だ。道のりはまだまだである。
「弦莱には海を越えた方が早いからな。お前、船酔いは?」
「船酔い…?」
「ははぁ、坊ちゃまは船にも乗ったことないってか」
世間知らずな月旦に群青は呆れた。が、自分とて弦莱に居た頃は湖に小船を浮かべ、手漕ぎでいくらか進んだ経験しかなかった。今も変わらず弦莱に留まっていたなら、月旦を笑うことも出来ない。思い直して、月旦に船酔いが何か教えた。
「…わからん。そのようなもの、乗ったことも無い」
「じゃあ、用心に薬でも調達してくるか」
月旦は飯屋の一件以来、途端に元気が無くなった。群青の嫌味にも眉間に皺を寄せるだけ、時折一言「うるさい」とか「無礼であるぞ」とか、当たり障りのない返答をかえすばかりで、初めて群青と会った時のように烈火のごとく怒ったり、殴りかかってくることは無くなった。群青はそれが少し寂しいと思う。からかっても反応が無ければつまらない。
「…そういえば、まだ見てるのか?例の夢」
群青は、牙城を抱きすくめ、道の端に座り込んでいる月旦を見た。例の夢とは姫様の霊魂が湖の上で踊っている夢だ。相も変わらず幼子のように牙城に抱きつく月旦に、群青は顔をしかめる。いい加減立ち直って、弦莱を救う方に専念してくれと思う。夢のことを尋ねたのも、自分の目的を再び月旦に思い出させるためだった。
「見ていなければ、お前になどついていかない」
「…そいつは結構、」
可愛くない月旦に、群青は舌を突き出し露骨に不満を表した。けれど月旦は牙城の首元へ顔を埋めてしまい、群青の顔など見ても居なかった。
「じゃあ坊ちゃんはここで待ってな。薬、見つけてきてやるから」
炎艇から番司へ向かう船は日に三度出ている。今日はすでに二度目の出港が済んでおり、あわよくば今日の最終便、もしくは明日中には出港したいというのが群青の思いだった。今の場所から海は見えないが、もう少し街の中心部へ行けばすぐに海が見える。花冠は海に近い街だったのに、船にも乗ったことが無いという月旦。広い世界を知らぬとは、憐れと思う。
月旦の座りこんでいる場所から程近いところに丁度道具屋があった。目に見える範囲に月旦は居るのだから、万一何かあってもすぐに駆けつけられる。群青は一人道具屋の扉を開いた。気立てのよさそうな女主人がにこやかに話しかけてくる。港町なのだから酔い止めくらい置いてあるだろう。
群青は素っ気無い月旦を面白くないと思っていた。それは間違いない。心のどこかで月旦など、どうにでもなれと思っていたところがある。一年間の成果が我侭皇子であることも、群青のやる気を削ぐ原因になりえたし、こうして月旦を気遣って薬を調達したところで、感謝のかの字も聞けないだろう。飯屋の一件にしても、月旦が無傷であったのは群青が応戦したおかげでもあるのに、ありがとうと一言の礼も無かった。お礼に何か頂こうというのではない、ただ感謝の気持ちを持ってもらいたいだけだ。嫌味こそ言え、行動では一応月旦優先で、月旦を困らせた記憶はないのに、目の粗い笊のように群青の気遣いは受け流されている。それが気に食わない。
月旦を道端に残してきたのは、自分が目を離した隙に、何がしかちょっとした不幸にでも見舞われればいいと思ってのこと。花冠ではない、月旦の知らない土地で一人きりにし、ごろつきに絡まれ、物乞いに付きまとわれて居ればいいと思った。月旦の少しの不幸を群青は願ったのだ。
幸か不幸か、薬はすぐに見つかった。女主人は棚から粉薬を下ろし、秤で丁寧に分量を整えると、紙に包んでいくつか包みを作ってくれた。船旅はおおよそ五日ほどの予定だと告げた群青に、丁度見合う量を寄越す。群青は金貨を一枚渡して、店を後にした。女主人の手際の良さに、少しの不幸を与えるにしてはずいぶんと短い時間だと、群青は内心頬を膨らませていた。
「ほぉら、ぼっちゃん…」
群青は月旦が座り込んでいた辺りへ、手に入れたばかりの薬が入った麻袋を差し出した。せめて受け取る手が伸びればよいと思っていたのだが、いつまでたっても腕から薬が受け取られる気配は無く、
「なんだよ!いい加減立ち直れよ!」
八つ当たりと叱咤が混じった心地で語気も荒く叫ぶが、それに返事も無い。当たり前だ。月旦はいつの間にかその場から姿を消していたからだ。彼が座っていた辺りには人が居た形跡もなく、砂と土の地面があるだけだ。牙城の姿も同じくない。足跡など乾いた地面では風にさらわれ、姿形をなくしてしまう。月旦が居た辺りに近寄って、辺りを見回してみるも、どこへ行ったのか見当もつかない。
「……まじぃ…」
一年間の成果に逃げられた。もしや花冠へ戻ったのか、群青の中に途端に後悔の念が湧き上がる。どうにでもなれなどと、思うのではなかった。月旦が居らず、困るのは群青なのだ。逆に月旦は群青など関係ない。自分の意思でどこにでも行ける。
群青は駆け出した。月旦が行くとすれば花冠しかない。幸い、門からここまでは一本道。群青の足なら炎艇にいるうちに月旦に追いつくかもしれない。
「月旦!」
寄り道か、もしくは用を足すために草陰にでも潜んでいるのではないかと思って、群青は駆けながら大声で月旦の名を呼んだ。
通りを駆けてしばらく、通りには昼下がりの午後をのんびりと過ごす人々が大勢居たが、群青のように血眼になってあたりを見回し、旋風のように駆ける人物は居なかった。茶屋の椅子に腰掛けて湯気の立つ茶を喫しながら談笑している男女が数人、洗濯物をとりこむ主婦や犬の散歩をしている老人、棒切れを振り回しながら駆ける子供、母親に手を引かれながら飴を舐める幼児、学術館帰りの少年…、それらの何気ない人物の中に明らかに異質な存在が居ることに、群青は気付いた。その人物は自分と同じく、相当の速度を保って駆けていたのだ。方向は群青の向かう花冠方面とは真逆で、後いくらか駆ければ男と群青は丁度すれ違うと思われた。
「犬は始末しておけ」
すれ違い様、駆けていた男がそんなことを呟いた。無線でも使っているのか、話す相手は見えずとも、男は確かにそう言った。
群青は目を見開く。まさかとは思う一方で、犬という単語にぴんと来た。駆けていた足はぴたりとその場で停止し、去り行く男の背を群青は振り返る。
先日の、花冠の刺客とは格好が異なっている。一般的な袷の着物に括袴、足には草鞋で灰色の髪は無造作に紐で括られている。顔を隠す様子もない。歳の頃は三十くらいか。その格好で茶屋に居れば、さして気にも留めなかったに違いない。
群青は男の後をつけて駆け出した。来た道を駆け戻りながら太陽の位置を確認する。昼下がりから夕刻になろうとしていた。今日の最終便に乗るという希望は叶わないかもしれなかった。