要郭編18
話し合いから一晩明けると、群青は弦莱行きへ向けて本格的に準備を始めた。今すぐにでも弦莱へ帰りたいという本音と裏腹に、群青の傷の具合は、順調とはいえゆっくりとした回復をみせた。気が急いてじっとしていることができない群青は、意味もなく要郭の町をうろつきどうにか心を静めていたが、医者にとって群青の行為はいい迷惑にしかならない。浄手や茴香は群青を捕まえるのに毎度要郭中を探し回らなければならなかった。
「無闇に動き回るのはやめてください!傷が酷くなれば、その分帰郷も遅れます!」
その日、茴香は船着場で渡し船に向かって叫んでいた。大勢の観光客が眺めている小さな船だった。船の上のは船頭の外に三人の人影があった。その影の一つから腕がのび、港に立つ茴香に向かって手を振った。
「大丈夫だって!ちょっとそこまで行くだけだからさぁ!」
手を振り、叫び返したのは群青だった。不機嫌そうな浅葱と呆れ顔の月旦も連れていた。彼らの乗る船は宮殿跡地と要郭の町を行き来している渡し舟で、すでに船着場を出港してしばらく経ったあとだった。小さく霞んだ船の上には茴香の叫び声もそろそろ届かない。茴香は大きなため息を吐いた後、踵を返して船着場を後にした。
それを見て群青は、静かになったとばかりに笑みを浮かべた。月旦は無言で腕を組んだ。
「何で僕まで巻き込まれなきゃならないのさ…。色まで隠して、要郭の役人にばれたら君のせいだからね」
船の上で膝を抱えて座っている浅葱は明後日の方向を見ながら、その額にうっすらと冷や汗を浮かべていた。以前のように灰色の目と髪には変えず、そのままの色で頭に布を被っている。
「今のお前を見て誰も晴朝だなんて思わないだろ。晴朝は神隠しにでもあったと思われてるさ」
「他人事だと思って……。君はいつもそうだ」
思いつきの言葉で浅葱をなだめた群青を見て、月旦も浅葱に同意した。時に群青は本気なのか冗談なのかわからない発言をする。考え無しで言葉を発しているようにも見えるし、その逆にもまた見えた。
「そもそも、医者の忠告を無視して山に登る意味がわかんない。何でこんなところに来たいわけ?」
浅葱は群青を睨みながら問う。群青は浅葱や月旦らに背を向け、目指す浮島を眺めながら言った。
「この浮島の上には、昔宮殿があったんだ。定鼎と柑子、だっけ?姫さまと家臣がここに居たんだって思ったら、どうしても行かなきゃならない気になった」
浅葱は群青のその言葉に溜め息で応えた。要はただ、群青が行きたいから行くというだけのことだ。理由などない。
「定鼎…」
群青が言った姫の名前を、月旦は声に出してみた。その名に馴染みはなかったが、名前を告げられると本当に居た人物なのだと実感する。毎夜自分の夢の中で踊っている、あの美しい姫君は、定鼎という名なのだ…。
「そういや、浅葱は柑子の夢を見たんだろう?柑子ってどんなやつだったんだ?」
群青は浅葱にそう問う。浅葱は一度、めんどうだとも、こんな場所で話させるのかとも取れるような顔をしたが、
「…柑子は定鼎姫の教育係だった。彩色一族から王家の家臣団に加わった男、王にも后にも信頼されていて出世株、とかなんとか言われてはいたけれど、実際は毎日わがまま放題の姫様の子守だよ。どうして自分が子守をしなきゃなんないんだって、本心ではいつも自分の仕事を嫌っていた」
と、語り始めた。
船はゆっくりと浮島に近づきつつあったが、到着までにはまだしばらくかかりそうだ。あたりは船頭の操る櫂の音と、水音以外は何も聞こえない。浅葱の声だけが、静まり返った空間に響き渡った。
「それというのも、元は才華という国が、周りの小国を取り込んで俗氏大国になったからだ。
戦が起きず、彩色一族の国が独立して残っていれば、柑子は彩色一族の王になれたはずなんだ…。目の前に俗氏大国の女王になる人物がいて、自分はその子守だなんて、やる気も失せるだろうね。柑子は我慢強い人だよ。やりたくもない仕事を、傍目にはそつなく冷静にこなしてた。まるで僕そっくり」
群青はそれを聞いて曖昧な返事をする。
「ふうん…」
月旦は無言で二人の会話に耳を傾けていた。月旦は、自分はおそらく、定鼎やら柑子やら、巻物に書いてあった伝説に関わりがあるのだろうとは思ったが、どこかでそれらの話を他人事のように感じていた。そして、自分がここにいる意味とはなんだろう、とふと思う。もしかしたら、姫君の霊魂は自分には宿っていないのではないか、何かの間違いでここに居るのではないか。薄暗い気持ちがどうしてか湧いてくる。
「それにしても、どうして御子は定鼎姫の記憶に関する夢を見ないんだろうね」
そう言って、浅葱はちらりと月旦を見上げた。浅葱の青の瞳と視線がかち合い、月旦は咄嗟に視線をそらす。
「夢といえば、浅葱もまだ柑子の夢を見続けてるのか?」
月旦を取り巻く不穏な空気を感じ取った群青は、さりげなく話題を変えた。群青に問われた浅葱は、自分の疑問への回答は後回しにして、群青へ返事を返す。
「僕はもう、彼の夢を見ていない。絵巻物か何かを読むみたいに、夢の中で一繫がりの物語を見せられた気分だった…。彼の最期を見届けた後は、夢はいつもの夢だよ」
「月旦の見る夢と、お前の見る夢は質が違うみたいだな。なあ月旦」
群青は月旦に声をかける。月旦は一言「そうらしい」とだけ答えた。
「どうして定鼎姫は踊ってるんだろう…。柑子の記憶の中には、定鼎姫が踊るなんて話は無かったと思うけど」
「柑子は知らない何かなんだろう。そのうちに月旦も浅葱のような夢をみるのかもしれない。そういうのだって、何かしら過去と同じものに触れ合った方がいい影響になると思わないか?それにさ、」
「それに?」
群青は言葉を区切る。聞き返した浅葱は、群青を見つめた。
「俺がどうしても弦莱を変えたいと思ったのだって、霊魂の類が関連してるかもしれないだろ?今はまだ覚醒してはいないけど」
「………」
ニヤリと笑う群青を見て、浅葱は呆れ顔になる。そして馬鹿馬鹿しいと言いたげに横目で群青を見る。
「君、もしかして自分だけ伝説にかかわりが無いこと、気にしてるの?」
「だっておかしいだろ。普通、月旦が姫だったら俺が家臣に決まってる。なのに何で浅葱になんか」
「なんかってことはないでしょ!柑子と君じゃ大違いだよ。彼は冷静沈着だし、君は無鉄砲だし」
「お前だって冷静沈着とは言えないだろ、短気のくせに」
「僕のどこが短気!?」
「そーゆーところだよ。自覚無いのかよ。月旦もそう思うだろ?」
群青は振り返って月旦を見た。月旦は胡坐を掻き、腕組みをしたまま微動だにしない。不思議そうに首をかしげる牙城が、月旦の顔に鼻を近づけても振り払う素振りもない。
「月旦?」
月旦を呼ぶ群青の声に返事は返ってこなかった。
「眠ってるんじゃないの?」
浅葱は動かない月旦のそばに寄り、俯いた月旦の顔を屈んで下から覗きこんだ。
「眠ってる?さっきまで普通だったじゃないか」
「そうだけど、」
群青は月旦の側に近寄って膝を折った。月旦の肩を掴んで揺すってみるが、月旦は動こうとしない。
「船の上、静かだからさ、眠くもなるんじゃない。僕も寝たいくらいだ」
浅葱はあくびをする。のんきな浅葱に少しだけ苛立ちを覚える群青だが、
「…ただ眠ってるだけならいいんだけど。息はしてるみたいだし、」
「息はしてるって…心配しすぎだよ、群青。ホラ、もうすぐ着くみたいだし、さっさと登って早く帰ろうよ。その方が御子の為でしょ。いろいろあったから疲れてるんだよ、きっと」
浅葱が言うように、浮島はいつの間にか目の前に迫っていた。船頭は無言で船を岸へつけると、無言で碇を下ろした。船が着くなり、軽やかに陸地へ降り立った浅葱は、月旦の顔を覗きこんだままで居る群青へ声をかける。
「同じ船で帰るんだから、少し寝かせとけばいいじゃない。早く行こうよ」
「ここまで来たんだ。月旦だけ行かないわけにはいかない」
「じゃあどうすんのさ。その狼にでも乗せるの?」
「いや…」
群青は陸地で首をかしげる浅葱を見る。群青の顔には僅かに笑みが湛えられていた。
*
「で、何で僕が背負うのさ」
「俺が背負ってやりたいのは山々だけど、傷が悪化したら悪いだろ?そもそもこの傷だってお前のせいだし、月旦が疲れる原因だって、お前が関係してるじゃないか」
群青と、月旦を背負った浅葱は並んで斜面を登っていた。丘の上には石碑が建っている。聞くところによると、その位置は宮殿内の玉座があった場所だという。
「何だって都合いいように理由作って…。見かけによらず重いんだけど、この皇子。華奢な僕には酷じゃないか」
「だからって引きずったりするなよ。帰ってから茴香にどやされかねない」
二人は程なくして丘を登りきった。丁度、石碑の周りには誰も居ない。丘を思い思いに散策している観光客の姿は疎らにあるのだが、石の周りは人気が無かった。
「丁度いい。側まで行ってみよう」
群青は駆け足で石碑に近づいた。石は玉座の形を模しており、観光客が座したと思われる跡が無数に残っていた。
「………」
群青は、躊躇いなく石碑に座した。座れば何か変わるのではないかと希望を込めて。
「気は済んだ?何か思い出した?」
群青に追いついた浅葱は、肩で息をしながら群青に問う。
「………いや、全く」
残念ながら、何も感じない。群青は自棄になりたいとさえ思った。今まで思ったとおりに事が運んでいただけに、これは誤算だ。どうして自分だけ、何も感じないのだろう。
「あっそう。残念だったね。でも、一応言っておくけど、僕だってこの土地には何も感じないからね。夢見がちな妄想は虚構だよ、虚構」
そう言い捨てる浅葱を睨みながら、群青は玉座の上で腕を組む。
「…………、あーあ。どうして天帝は浅葱なんか選んだんだろう」
「なんかって何さ!僕だって選ばれたくて選ばれたわけじゃないんだからね!?」
浅葱は群青を睨み返す。片手を振りかざして、今にも群青に殴りかかろうとする。
「月旦は眠っちまうし…。期待してたんだけどなあ……こう、いろいろさぁ」
「馬鹿馬鹿しい。僕は帰るから。帰りは狼に運んでもらいなよね、そいつ」
空を見ながら希望を語る群青に嫌気が差したのか、浅葱は玉座に触れることも座ることもせず、来た道をズンズンと引き返していった。残された群青、牙城に、眠ったままの月旦は無言のまましばらく時を過ごした。
「なあ月旦、いよいよ弦莱へ帰るんだ…」
群青は玉座に座したまま、独りごちる。
「俺たちは帰って、どんな弦莱をつくるんだろうな…」
群青の声は虚しく辺りに響く。返事を返すはずの者は夢の中だった。
「必ず、いい土地にしてみせる。俺とお前なら、きっとやれるさ。天帝は努力した奴を必ず見てる、報われる、何もかも、すべて」
静けさの中、群青は瞑目した。
<二部完>