要郭編14
昼間の湯殿はまぶしいと思う。月旦は無駄に広い風呂を眺め、湯に反射した光に目をしかめた。適当にかけ湯をし、黒い相棒にもかけてやる。牙城はおとなしく湯をかぶっていた。
長旅の途中、ゆっくり湯に入る機会など皆無だった。月旦は軽く伸びをしてから湯に足をつけた。湯気が立ち上り、さわやかな香りが上った。牙城も傍らで鼻を鳴らしている。
「……オン!」
すると、牙城が一声吼えた。辺りに反響して、牙城の鳴き声が響き渡った。月旦は何かあったのかと、相棒を見下ろした。
「おいおい、ここは人間用の風呂じゃなかったのか?」
湯気の向こうから人の声がした。広い湯殿の一角に、先客が居たようだ。
「お前らはホント、仲がいいよな」
声が反響するおかげで、普段とは聞こえ方が違ったのか、風邪のせいで、月旦の耳の調子が悪いのだろうか。それとも本当に数日間の間に、彼の声を忘れてしまったのか。月旦にはその声の主が誰であるのか判断がつきかねた。砕けた様子で、馴れ馴れしく話しかけてくる男に、月旦は顔をしかめる。
「誰だ」
端的に問うと、相手は苦笑をした。
「なんだよ、それなりに俺のことも心配してくれてると思ってたのに、ただの一度も思い出さなかったのか?こっちはこの数日でいろいろあったってのにさぁ」
相手の男は湯と湯気をかき分けて、月旦の方へ近づいてくる。
「弦莱を目の前にして、足止めをくらうとは思わなかった」
弦莱という単語を聞いて、月旦はようやく、相手が誰なのか悟った。湯気の先から出てきたのは不機嫌そうな顔の群青だった。
「お前…、どうしてここに…!」
月旦は普段でさえ大きめの目を見開いた。牙城が吼えたのは、群青の存在を知らせるためだったのだろう。
「天帝はいつだって俺の味方だってことだ。人生、したいと思えばどうにでも転がる。どんなに遠回りしたってな」
「どういうことだ……」
忘れられていたことに腹を立て、不機嫌な顔をした群青だが、月旦が驚きの表情を作ると、勝ち誇ったように微笑んだ。
「お前が殺されかけてる間に、俺も人生最大の難に見舞われてたんだが、人の縁ってのは不思議なもんだよ。いい医者にめぐり合えて、おまけにお前とも再会できたわけだ。うちの幼馴染が迷惑かけたな。おっかない姉ちゃんとは和解できたのか?敵の本拠地で寝込むなんて、よほど気が緩んだんだろう?」
説明と質問を交えて話しかける群青の言葉は、月旦の耳をするりと流れていった。今、群青が目の前にいる状況が理解できない。
しかし、ただ一言だけ、聞き流せない言葉があった。
「医者?」
「ああ、大まかにゃ治ってきたんだけどな。花冠の医術は優れてるんだな」
月旦は片足を湯につけた格好のまま、湯船の中の群青を見下ろした。群青はその場でくるりと、月旦へ背を向ける。
「……!」
群青の背には治りかけとは言うものの、まだ傷口も生々しい怪我があった。背の全体に無数の切り傷が見える。
「何があった!?」
月旦は湯を跳ねさせて群青の側へ寄る。群青の両肩をつかんで問い詰めると、
「そう焦るなって。見た目ほど痛みはないんだ。お前だって病み上がりだろ?具合はもういいのか?」
群青は茶化しながらそう答えた。ヘラヘラと笑えるほど、具合のいい傷には見えない。口では何でもない風を装っているが、本当のところはわからなかった。
真剣に聞いているのに、まじめに答えようとしない群青。月旦は歯噛みする。
「俺のことはいい!答えろ!」
月旦が怒鳴りつけると、群青は観念したようにため息を吐いた。
「お前とはぐれた先で、要郭の役人と会った。役人って言っても、実際は役人の中に潜り込んだ浅葱だったんだけどな。浅葱と口論してるうちに、戦うことになって、逃げるときにちょっとばかし失敗した」
「何をしたんだ」
「何って、何だっていいだろ。失敗は失敗だ。んなこと聞くなよ!」
群青は照れた様子で月旦の両手を振り払った。失敗の中身については語る気がないようだった。
「本当に、痛みはおさまってきたのか?」
「ああ、それは本当だ。前に番司で会った、茴香って女が居ただろ?医者の娘だって言う」
「茴香……」
医者の娘と聞いて、月旦は思い出す。鋒琳の手当てをした、あの女だ。
「茴香はお前の姉さんに仕えているらしい。役職は御史だそうだ」
「御史が…代替わりしたのか」
月旦にとって、花冠は故郷であるが、国から追い出された今となっては、その世情もまったく耳に入ってはこない。月旦は以前出会ったときの茴香の様子を思い浮かべた。まじめそうで、穏やかそうな女だったと思う。花冠御史を勤めているとは信じがたかった。
「その御史さまが、偶然にも俺が身を寄せた村を訪ねてな。どうにか揉める前に説き伏せて傷を治してくれって頼んだわけだ」
群青がどうやって茴香を説き伏せたのかはわからないが、手負いの状況でどうしてこうもうまく事を運ぶことができるのだろう。群青はつくづく強運の持ち主だと思う。
「茴香に連れられてここに来た。お前の話じゃ花冠と俺たちは一触即発って感じだったのに、まるで逆の待遇を受けてる。どうなってるのか、俺も知りたい」
「………」
群青は、鍵を握っているのは月旦だといわんばかりの目つきで、月旦を見た。
「俺は姉上のことを誤解していたのかもしれない…。姉上は俺を浅葱から助けた。病で臥せっている間も、見舞いこそすれ、殺気のかけらも感じられなかった」
「…花冠の内部事情は俺にはよくわからないけど、もしかしたら、花冠皇と朔白姫は相反する考えを持っているのかもな。じゃなきゃこの状況はおかしいだろ」
「………父上と、姉上が…」
もしも、彼らが真逆の考え方を持っていたとするならば、話の筋は通るだろうか。
「本当に、姉上が俺を守ってくれているのだとしたら、俺は今まで何を見ていたのだろう」
月旦はふと悲しみに襲われた。自分が恐れていたものや、考えていたことは何だったのだろう。本当に、群青の言うとおりであるならば、今までのことが全て無駄に思えた。
「何を見ていたんだってのは、俺にも言える…。後悔はしてないけど、他にいいやり方があったんじゃないかって、俺も思う」
群青もまた、遠い目をした。
湯殿のシーンといえば女キャラのサービスショットと決まってるのになあ。