要郭編10
「そう構えるな。とって食うわけでもなし。とにかく上がれ」
月旦の姉・朔白の夫である随訓は、笑みを浮かべて月旦へ告げた。長屋の続く小道の先に建っていた屋敷は、貴族の家ではなく随訓の生家であると言う。それを聞いて屋敷へ上がることを躊躇った月旦だが、随訓や朔白の真意を知りたい一心で、恐る恐る屋敷の敷居を跨いだ。そんな挙動不審の月旦を見て、随訓は子供の様に声をあげて笑う。
「寛げと言っても無理な話か…。まぁいい、そのうちわかることだろう」
随訓は、半分は独り言のようにそうつぶやくと、屋敷の廊下をずんずんと進んでいく。ついて来いとも指示されなかったが、玄関先で立っているわけにも行かず、月旦は無言で随訓の後を小走りに追った。
随訓の好意には何か裏があるのではないか。彼の背を追いながら、月旦はそんなことばかり考えていた。素直に再会を喜べない。随訓や朔白が、自分を迎え入れてくれるなど全くの想定外だからだ。
月旦は父である現・花冠皇に命を狙われているはずである。実際炎艇では花冠皇の手先に皇族の証を奪われ、危険な目にもあっている。花冠皇は何が何でも月旦を消したいはずで、姉の朔白も花冠皇と同じく月旦を憎んでいるはずだ。随訓は朔白と琴瑟相和すと言われるほど仲がよい。随訓が朔白の意に背くとは考えにくく、それならば随訓も月旦を憎んでいることになるのだが、彩色一族の浅葱に追われ、あわやというところで助けられてしまった。
月旦は唇を真一文字に結んだまま、随訓の数歩後ろを歩いた。屋敷の二階へ上がり、着いたのは客間だった。客間には円卓と椅子の他何もない。目立つものといえば、よく磨かれた大きな窓だ。夕日が差し込んで、客間全体をぼんやりと赤く染め上げている。
「実は、屋敷を新しく建ててから、一度も家へ帰る機会がなくてな…俺もこの家の仕様がよくわからん。お前が迷子になっても俺は探し出せん。あまりうろつくなよ」
随訓はそう言い残すと、ふらりと部屋を後にした。月旦は仕方なく椅子に腰を下ろしたが、ふと我に返ってみて、随訓の生家に腰を落ち着けている己に苦笑した。
シンと静まった部屋の中では、自分の心の臓の音が聞こえるばかりだった。他に誰か人の気配もない。しかし、思案するにはもってこいの空間だ。
「……静か過ぎて、落ち着かないな」
もってこいの空間なのだが、何から考えればよいのか途方にくれる。事の次第を説明して欲しくても、随訓も、朔白も姿を見せない。家人は他に居ないのだろうか。広い屋敷なのだから、使用人の一人や二人、廊下の先に見えていてもよいはずなのだが。
そう考えて、月旦はとある考えをはじき出した。もしや、これは罠なのではないか。随訓と朔白はこの屋敷の中へ月旦を閉じ込めて、今頃別の場所でどのようにして月旦を消そうと、相談しているのかもしれない。呪術で殺すか、毒か、それとも決闘か、自決しろと言われたらいかがしよう…。月旦の脳内には、最悪の結末ばかりが浮かんでは消えた。
気を紛らわせようと、月旦はふと窓の外へ視線を向けた。丁度、夕日が沈みきる時刻だった。赤から黄、黄から群青へと色彩を変化させる空は、程なくして、薄闇に包まれた。
「お帰りなさいませ」
突然、窓の外からかすかに女の声が聞こえた。朔白の声ではない、知らない声だった。随訓の家の使用人だろうか。声の方向へ視線をくれると、窓の丁度真下、門の中へ駕籠に乗った人物が入ってくるところだった。駕籠の外には担ぎ手の他、若い女の姿が見えた。駕籠の側に侍っている女は、背筋の伸びた生真面目そうな女だった。女は門の前まで来ると、立ち止まって丁寧に一礼した。ここからは見えないが、女の目の前には誰かがいるらしかった。女は顔を上げると微笑を浮かべながらここからでは姿が見えない誰かと会話し、そのうちに門の中へ入っていった。
女や駕籠に乗った客人が到着すると、屋敷の中は途端に騒がしくなった。誰かの喚き声や怒鳴り声が聞こえたかと思えば、シンとした静かな空気を取り戻し、そのうちボソボソと小声で会話する声が聞こえた。誰が何をしているのか、月旦にはわからなかったが、客人が何か騒ぎを起こしたことだけは雰囲気として感じ取れた。
月旦は自分ひとりが蚊帳の外に居るようで、居心地が悪かった。いっそ随訓の忠告など無視して、階下へ降りてしまおうとさえ考えたが、昔の習慣というものは恐ろしく、幼い頃から朔白や随訓の言いつけを守り、彼らに逆らわないように過ごしてきた月旦は、最後の一歩を踏み出せなかった。
階下の騒ぎが収束し始めたころ、月旦の居る客間を、使用人の女が訪ねてきた。茶器とともに、菓子の類を盆に載せていたが、月旦はそれらに興味を示すこともなく、ずっと暗闇の広がる夜空を眺めてばかりいた。