要郭編9
玉陽に言われたとおり、家で蒼玉の知らせを待っていた群青は、思わぬ人物と再会することになる。
「怪我人の容態は?」
玉陽に言いくるめられ、木の上ではなく、家の中で知らせを待っていた群青は、居間の窓から入ってくる若い女の声を聞いた。はっきりどこの誰とは思い出せないが、どこかで聞いた声だと群青は思った。群青が旅を始めて早二年。若い女の知り合いは、すぐ思いつく限りでも片手では納まりきらない。
群青は玄関から蒼玉とともに入って来た女の姿を見て、声の主が誰であったのか、ようやくはっきりと思い出した。堅物な印象の声に反して、女の顔の顔は愛らしく、身体つきも女性らしい華奢なつくり、耳朶の位置で真横に切りそろえられた髪と、襟足の長い髪は特に特徴的で、彼女と時を共にしたのは至極短時間であったのに、未だによく覚えていた。
「あんたは確か…茴香、だったか?」
女は名を呼ばれて目を見開いた。女の方も、群青のことはうろ覚えだったのか、視線を上に向けてしばらく考え込んだあと、番司の、と一言呟いた。
「お久しぶりです。怪我人というのは、あなたでしたか」
茴香はそう言って、丁寧に一礼した。その礼は以前と変わらず、愛らしい見た目とは裏腹に、堅いと感じるほど生真面目な印象を与えた。生真面目というより気取っていると言った方が正しい浅葱よりも、彼女の方がよほど役人らしく見えると群青は思った。
茴香とは番司で一度出会った。港で鋒琳が何者かに操られた時だ。鋒琳の手によって、海へと突き落とされた月旦が引き金となり、群青は我を忘れて鋒琳に傷を負わせた。そして鋒琳の怪我の具合を、通りすがりの医者の娘・茴香に看てもらったのだ。
「あの時は悪かったな。俺の名は青彩だ」
「…再びお会いすることになるとは、思ってもいませんでした」
群青の挨拶に、茴香は笑顔で答えた。しかし次には、不躾に家の中を見回す素振りを見せた。茴香は以前のことを思い出したのだろうか。以前は群青とともに居たのに、今は姿が見当たらない月旦を探していたように思われた。
「姉ちゃん?」
そんな茴香を不思議そうに見上げる蒼玉に気付き、茴香は慌てたように苦笑いで場を取り繕う。
「申し訳ありません。その、お連れの方の姿が見えなかったので、つい」
話がわからず眉を寄せた蒼玉は、問いかけるように群青を見た。蒼玉には自分の正体も、月旦のことも話していない。群青は茴香と同じように苦笑いをした。
「ちょっとな。いろいろあって、今は俺一人なんだ」
「そう、ですか」
奇妙な雰囲気があたりを包む。苦笑いで見詰め合う群青と茴香の間に、真剣な表情の蒼玉が割っていった。
「ねぇ、よくわかんないけどさ、姉ちゃんは医術の心得があるんだよね?兄ちゃんの怪我は治るの?」
本題を思い出した茴香は生真面目な顔つきに戻って群青を見た。何があったと茴香に問われた群青は、ところどころごまかしつつ、当時の状況を話した。
寝台に寝転んだ群青の背中を触診した後、茴香は考え込んで黙ってしまう。
「…悪いのか?」
群青は覚悟を決めて尋ねた。怪我の具合が、思った以上にひどいのだろうか。茴香の顔色を見る限りは、とても良い状況とは言えない気がした。
「正直なところ、まだわかりません。けれど、お話と今の状態を見る限りでは…」
茴香は言いよどむ。困ったように群青と視線を合わせ、群青が先を促すと、ようやく口を開いた。
「良いとは言えません。できるなら、一度傷を開いて、状態を確認した方がよいと思います」
「傷を開く!?」
茴香の回答に、素っ頓狂な声を出したのは蒼玉だった。一度塞がった傷を再び開くことなど、考えも及ばなかったのだろう。痛みの程を想像しているのか、蒼玉の顔は群青よりも怪我人の顔になった。当の群青は、舌打ちをしつつ茴香に問う。
「普通の状態に戻すにはどうすればいい?傷を開けば治るまでどれくらいかかる?」
「はっきりとは言えません。傷を開けば詳しく状態が知れるはずですが、開いたからといって良くなるとは限りません。治癒力にも個人差があります」
群青の問いに、間髪入れずに茴香は答えた。焦りの様子が見える群青に、今度は茴香が尋ねる。
「…何か、急いてらっしゃる?」
「………」
冷静に問われ、群青は笑みを見せる。らしくもなく焦っている自分自身に苦笑した。
「出来るなら、今すぐ動けるようになりたい。理由は言えないけど」
群青はそうとだけ答えた。事情を話せば、蒼玉や茴香を揉め事に巻き込むことにもなりかねないからだ。
「……もしかして、」
が、茴香は群青が焦る理由に思い当たる節があるのか、何か告げようとする。以前は一緒に居た月旦の姿が見えないことで、茴香は何かに勘付いたのかもしれない。しかしこの場には蒼玉もいた。
「…いえ、なんでもありません」
茴香は、群青が言葉を濁す理由に気がついて、それ以上は続けなかった。よく気のつく人間だと驚きつつ、群青は茴香の気遣いをありがたく思った。
*
その場は一旦別れた茴香と群青だったが、その日の真夜中になってから、再び茴香が群青を訪ねてきた。群青は庚家の家屋に近寄る茴香をみとめて、木上から声をかけた。
「こっちだ」
茴香は暗闇に目を凝らし、木の上を見上げる。布の脇から手を振る群青に気がつき、そんなところへ上がって、これ以上傷が酷くなればどうするのだとでも言いたげな、苦い顔になる。
「なるべく、人目を避けたかったんだ。家の中に他所者が居れば否が応でも噂は立つだろうし、普通の人間なら、こんなところ見上げたりしないだろ?」
群青は梯子を使ってゆっくりと木から降りた。梯子は蒼玉に頼んで、日が暮れてからかけなおしてあった。群青は顔をしかめる茴香にそう告げながら、茶化すように己の行動を笑う。
「無茶をして困るのはあなたですよ」
茴香はあきれたようにため息を吐く。が、群青が梯子を降りきると、常と同じく生真面目な顔つきに戻った。
「で、もちろん俺に用があるんだろう?」
「ええ」
二人はしばらく沈黙する。群青と茴香は、互いに何か違和感を感じていた。それは今思えば番司で出会った時から感じていたのかもしれないし、昼間再会して、突如湧いたのかもしれない。
群青は茴香の正体を知らない。医者の娘であること以外、どこの誰なのかわからない。一方茴香も、群青の正体は知らないはずだった。
茴香は生真面目な人間なのだろう。言葉や所作、纏う空気がそう言っている。それなのに、不躾に庚家の家の中を見回し、月旦を探した。群青のことはうろ覚えであったように見えたのに、連れの存在は、はっきりと記憶していたのだ。
「あんたはどこの誰なんだ?」
「…それは、あなたも同じでしょう。一体、何が目的なのですか?」
群青も茴香も、互いの腹のうちを読もうと、必死に過去の出来事をさらう。初めて会った時のこと、昼間のこと…。目の前の人物は、敵なのか味方なのか。どちらでもないということは、おそらくありえないだろう。でなければ茴香が、再び群青を訪ねることはないからだ。
「俺の連れに、見覚えがあるんだろう?」
「………」
群青の問いに、茴香は無言で答えた。
「旅の一団って言うなら、要郭の者じゃないだろうな。番司でも、あんたは旅装だった。重い荷物を背負ってたのに、立ち止まってずっと俺たちの様子を見ていたんだ。ましてその後、あんたは人混みを掻き分けてまで、わざわざ俺たちに手を貸した。ただの野次馬で、親切心に溢れてたってだけじゃないよな」
畳み掛ける群青に、茴香は冷静に告げる。
「よく、見ていらっしゃいますね…。あの時のあなたは、我を忘れているように見えたのに」
茴香の言葉に、群青は苦笑する。確かに、あの時の群青は我を忘れていた。何よりも大事な主君が傷つけられたと思ったからだ。
「私は、あなたのことも、あの少年のことも、詳しくは知りません。ただ、よく似ていると思っただけです…」
「似ている?」
茴香は頷くと、まっすぐに群青を見た。
「それには、二つの意味合いがあります。一つは、私とあなた…。私も主君のためなら、時に我を忘れてしまうでしょう。何よりも大切だから、裏切れない、裏切りたくない。私はあの方を失望させてはならない。なぜなら私は、あの方の臣だから。あの方が私を、臣にしてくださったから。役目を与え、生きる意味を与えてくださったから…」
茴香の顔が綻ぶ。きっと、彼女の言う主君とは、彼女にとっては顔が綻んでしまうほど、大切で敬愛している人物なのだろう。茴香の言葉からは、主君に対する忠誠心と決意が見て取れた。茴香は主君を絶対に裏切らないし、裏切りたくない。言い換えれば、主君に害をなすならば、群青の話など聞いてやる義理はないということだ。
茴香は微笑んでいた。茴香の意思の強さには、威圧感すら垣間見えた。私の主君に手を出せば、私は我を忘れて何をするかわからない、とでも言いたげだった。みなまで言われずとも話の読めてきた群青は、微笑む茴香に苦笑する。
「平静を装いながら、心の底には熱いものを抱えている。不可侵地を侵されれば、誰であろうとためらいなく牙を剥く。私も同じです。あなたの目的次第では、私は腕のよい医者を紹介することも、痛み止めを分け与えることもためらうでしょう」
「案外卑怯なんだな…」
群青はため息を吐く。すると背中に痛みが走った。立ちっぱなしで長い間話し込んでいるせいだろう。そろそろ木の幹にでも寄りかかりたいところだった。
「似ているものの一つは、俺とあんた。もう一つは、月旦と花冠女皇ってわけだ。親愛なる主君が口にするものは、自分の目で見極めたいってことか?この村の作物なら間違いはないだろう?」
「ええ。この土地は豊かです。水も土も、もちろん作物も申し分ありません」
「結局、あんたは何者なんだ?花冠女皇の臣なら…」
茴香は先取りしてばかりの群青の言葉を遮った。ここまで来て、言い逃れはしないということだろう。自ら名乗ろうと口を開く。
「花冠文官、役は御史、名は茴香、です」
「花冠御史…?」
御史といえば、皇、宰相に次ぐ第三位だ。行政・司法の要。司馬将軍が武官の大将なら、御史は文官の大将と言ったところだろう。
「おいおい、待てよ。花冠文官の親分が、あんた?」
「ええ。間違いありません」
茴香は可憐に微笑んだ。笑っているところを見ると、普段の堅物な様子が薄れ、愛らしさだけが全面に見えてくる。とても、花冠の政の核を担っている人物には思えない。
「朔白様は口には出されませんが、ここ一年ほど誰かを探しておられます。それが一体誰なのか、私には教えてくださいませんが、私の推測では、あの少年に違いないでしょう。あの方は朔白様に瓜二つです。他人の空似でないことは、あの方の耳を見ればわかります。あの削がれ方…普通ではありません。皇族の証を奪われた、花冠の皇子…。存在すら消された、花冠の黒点、でしょう?」
強敵が存在し、近いうちに鉢合わせをするだろう。それは前々から予想していたことだ。けれど、今は状況が状況で、まして群青には浅葱という厄介な敵が増えてしまっている。
今ここで、花冠御史と対峙するには分が悪すぎる。しかし、彼女が花冠司馬将軍でないことは、救いとも言えた。殺気がないことからも、ここで茴香と群青が一戦交えることにはならないと教えてくれている。
「うそだろ…?」
群青の焦りは如実になった。額に汗が浮かぶ。青い瞳の瞳孔が開く。暗闇でなければ、それらのすべてが知れてしまったに違いない。
「今度は、あなたが答える番です。あなたは、何者ですか?」
茴香は、白い歯を覗かせて微笑んだ。