要郭編7
浅葱から逃げる月旦を先導する牙城は、人気のない道へ道へと入り込んでいった。猿のようにすばしっこい浅葱は、月旦らが小道へ入ると、家屋の屋根の上へ跳びあがり、高い位置から一人と一匹を追い立てた。屋根の上へ注意を払いながら、前方の牙城を見失わないよう、何度も首をめぐらせるうちに、月旦はここが要郭のどの辺りなのか、方角で言えばどこなのか、把握しきれなくなっていた。
目が廻る。どれくらい走り続けているのかわからないが、そろそろ足がおぼつかなくなってきた。建物の中へ逃げ込んでしまおうと道中何度か思ったが、建物の中ににこやかに談笑する家族連れや建物の主がいることを認めると、巻き込んでは悪いという思いが月旦の足を一歩前に出させた。同じような理由で、誰かに助けを求めることさえせずに月旦は走った。
「はぁっ…はぁっ……っ」
小道は少しずつ傾斜が付き始めていた。道の両側には石造りの家が並んでいる。狭い道の一角で碁を打つ者が居たり、洗濯物を抱えた中年の女が窓の外側から家の中へ向かって何か話していたりする。商店の立ち並ぶ街の中とは違い、一帯は賑わってもいない上に寂れた印象すらある。要郭のような観光に特化した都市でも、住宅地は田舎の村となんら変わりはない。
穏やかな風景が横目に見える度、月旦はますます「他人を巻き込みたくない」という思いを強くした。
「グォン!!」
「きゃあ!」
丁字の小道から飛び出してきた幼い少女と、牙城がぶつかりそうになる。しかし、寸でのところで互いの身体をかすめただけで済んだ。
「危ないよォ!」
少女は駆け足で走り去る牙城の背に向かって、片手を振り上げながらそう叫んだ。牙城にばかり気をとられている少女は、次に駆けてくる月旦の存在には気がついていない。また、月旦は月旦で屋根の上に注意を払っているため、小道の角にいる少女のことなど視界に入らない。二人は互いに明後日の方向を見ながら、派手に衝突した。
「うわァ…っ!」
「っ!」
ガシャアン!
少女はその場に尻餅を付き、月旦はぶつかった衝撃で丁字の道の角に立つ家屋へ突っ込んだ。そして、倒れた身体で、家屋の前に置いてあった水瓶を押し倒した。大きな音を立てたのは、焼物の水瓶だ。小道に居た人々は、音に気がついて何事かと月旦らの方を顧みる。
「蓮明!」
尻餅をついた少女は蓮明と言うのだろう。蓮明の母親らしい若い女が丁字の道へ駆けてくる。割れた水瓶と辺りにこぼれた水の中で、月旦は倒れこんだままだ。走り続けて鉛と化した身体は、一度倒れてしまうと容易には動かなかった。それでも荒い息を吐きながら、浅葱の姿を探して視線を彷徨わせることは忘れない。
「大丈夫かい、兄ちゃん?」
水瓶の持ち主だろうか。瓶の置いてあった家屋の中から、老婆が顔を覗かせた。老婆は水浸しになった月旦を見て、部屋の奥から乾いた布を取り出そうとする。
「すまない…、」
月旦はそう呟いてから、素早く身を起こした。屋根と屋根の隙間から、浅葱の長い灰色の髪が見えた気がしたからだ。
「あ、ちょっと!」
人々の視線が、月旦を追う。しかし、月旦は立ち止まることなく、小道の先を進んだ。出来るだけ、家屋の壁際を歩くように気をつけて、牙城が駆けた方向を行く。幸いにも水に濡れはしたが怪我の類はなく、戦闘になっても剣は振れると思われた。
すると突然、道の先が広くひらけた。ゆるい傾斜が頂上を迎えたのだ。小道の先には平らな地面が姿を現し、そこには立派な門構えの付いた家が建っていた。急に変化した風景に、月旦は目を疑った。
「…?」
才華の住宅というものは、それとなく庶民と貴族で住まう地域が別れているものだ。しかしこの門構えのある家は、すぐ隣に庶民の住まう石造りの長屋がずっと続いていた。一軒だけ建っている貴族の家は、周囲の風景とは全く馴染まない。長屋と長屋の間に、不自然に大きな屋敷が建っているのだから。
「グォン!!」
ひらけた空間の中央で牙城が吼えていた。荒い息を吐きながら、月旦の姿を認めて、一度は背後を振り返るも、牙城はすぐに、屋敷の門構えへ視線を向けた。
「どうした、牙城」
月旦は牙城へ問う。しかし答えなど返ってくるはずもない。牙城はただ、門構えを見つめているばかりだ。
「御子!」
ひらけた空間に出たことは、運が悪かった。声の方向へ首を回すと、右肩に抜き身の大剣を背負った浅葱が、屋根の上へ立っているのが見えた。
月旦は仕方なしに己の腰へ手をやった。秀目が拵えた刀を抜いて、構える。武器を手にした月旦を見て、浅葱は肩頬を引き上げて笑った。そして次に助走もつけず、その場で一歩踏み出すと、空で体勢を整え、軽い着地音を立てて地面に降り立った。
降り立つと同時に、浅葱の大剣の切っ先が、月旦へ向けられた。浅葱は灰の目に暗い炎を宿していた。昼間だというのに、輝きのない瞳は月旦の灰の目を射抜いた。
にらみ合うと先ほどの恐怖感が思い出される。水瓶に突っ込んだせいか、それとも恐怖が勝るのか、月旦は肌が粟立つのを感じた。
「その刀…群青と兄弟刀ってわけか」
浅葱が笑いを含んでそう呟いた。
「群青をどうした…、どうして司馬が動いている」
月旦は浅葱に問う。いきさつを知ったところで、この状況が好転するとは思えないが、何も知らずに殺されそうになるのでは割に合わない。
「どうして彩色一族のお前が、要郭の役人に…」
「うるさいなぁ…。君には関係ないよ」
有無を言わせない浅葱の態度に、月旦は顔をしかめる。関係ないなどと月旦には思えなかった。
「群青を捕らえるためだけに要郭官庁にもぐり込み、司馬まで動かしたのか」
「関係ないって言ってるだろう…!」
大剣の刃が煌いた。重そうな見た目をしているのに、浅葱が振るうと軽いもののように見える。月旦は自分が手にしている細い剣で、この大剣を受け止めきれるのか不安だった。ゆえに一瞬、刃が迷った。
「!!」
浅葱が斬りかかりながらほくそ笑むのが、ゆっくりとした動きで月旦の目に映った。刃が空を切る動きも、どうしてか遅く見える。
まずい。このままでは斬られる。月旦は頭のどこかで思った。迷った刃は大剣と衝突し、案の定軽々と跳ね飛ばされた。両の手で握ったはずの剣が、月旦の頬をかすめて後方へ、宙を飛んでいく。一連の出来事すべてがゆっくりと動いて見えた。
今の浅葱には力でも心でも勝れるとは思えない。あちらはなにやら殺したいほど月旦に恨みがある様子だが、月旦には浅葱を斬る理由がない。受身の立場ではあちらの勢いに押し負かされるのは必然だ。
ここまでか。逃げて、刃を受け止め、身を護る。自分からは何一つ、状況を打破できないまま、あちらの勢いに流されてここで散るのか。
カラァンッ!
月旦の刀が、石畳へ落下した。石と金属のぶつかる鈍い音が鼓膜へ届いた。浅葱の刃は月旦へは届かなかった。大剣を押し留めたのは、月旦の顔の大きさの倍は面積がありそうな、黒い刃だった。柄は金で装飾が施され、よく磨かれている。黒い刃と浅葱の大剣は噛み合ってギチギチと音を立てている。金の柄の先は、月旦の背後に伸び、その長い柄は、黒い刃が槍であることを示していた。
「……あなたは、」
浅葱が黒い刃を受け止めつつ呟いた。浅葱の表情は驚きに満ちていた。
「グォン!!」
月旦の背後で、牙城が吼えた。主人へ何かを知らせる意図でもあったのだろうか。その何かが何であるのか、月旦には心当たりがあった。この黒い槍を、以前も目にしたことがあるからだ。
「役人が民に剣を振る…。よほどの理由がなければ、立場を悪くするのは役人だな」
槍の主にそう告げられるも、浅葱は屈しなかった。先ほどから、浅葱は捨て身の行動ばかり起こしている。「立場などどうでもいい」と浅葱が船着場で呟いていたことを、月旦は思い出す。
「刃を下ろさないところを見ると、これは何が何でも始末したい相手というわけか」
槍の主は自嘲気味に言う。「これ」と物のように言い換えられた月旦は、その言い草に懐かしさを感じた。
「それは、そちらも同じはずだ。どうして手助けなど」
浅葱は噛み合わせた刃を力任せに押した。その勢いで後方へ跳び、間合いを取る。
「どうにも、この顔に剣を向ける気にはなれなくてな…。その上、正確に言えば、これに思うところがあるのは俺の主君だ。臣の分際で勝手をするわけにはいかない。こちらの思惑を知っているのなら、役人の中でも上層の部類だろうに。乱心か?これに何の恨みがある?」
からかい混じりに、槍の男が浅葱へ問う。浅葱が間合いを取ったことを機に、槍の刃が宙へ舞った。柄を回して男は槍を構えなおす。
「あなた方には関係ない」
槍の男は浅葱の頑なな返答に噴出した。真剣な様子の浅葱をからかう男の笑いに、浅葱はより一層嫌悪の色を強くする。
にらみ合う浅葱と槍の男を前に、月旦は呆然としていた。対峙していたのは浅葱と己であったはずなのに、今の状況はそうとも言えない。
「オォン!!」
再び牙城が吼える。その鳴き声に混じって、誰かの履物が石の地面を踏みしめる音がした。
コツコツと石を踏む音は、懐かしさを月旦に与えた。知っている足音だ。けれど今は、一番出会ってはいけない人物の足音だった。
「騒がしいと思えば…涙由の置き土産ではないか」
門構えの中から、若い女が姿を現した。威風堂々とした雰囲気があり、獣で言えば獅子のような、美しいが棘のある美女だった。女はそう言って牙城を手招いたが、牙城の方には動く気はないのか、その場でじっとしたままだった。
「むやみに表へ出るな、朔白」
槍の男が、忠告しつつも笑みを浮かべて女に言った。
「おやおや…、主君にかける言葉とは思えぬな。私の顔を知る者がこの要郭にどれほど居る?ましてこのような小道の奥で、正体が知れる可能性は低いぞ」
「悪かったな、廃れた場所で」
「そこまで申して居らぬ。お主は自意識過剰じゃ」
笑い会う男女には余裕が感じられる。月旦が恐れた大剣と、それを今にも振るいそうな浅葱が居るというのに、彼らは全く恐れを見せずに、笑いあっている。
槍の男は腕が立った。女は男の腕を信頼しきっている。必ず勝てると自信があるから、余裕で居られる。この二人は、昔からそうだったと月旦は思う。どこから来るのかわからないが、自信と強さに溢れ、弱音を吐くところを見たことがない。小さなことでもすぐに落ち込む自分とは全く逆の、神々しい光を持つ二人だ。
「さて…。これは一体どうした?故郷で早速悪さでも働いたのか?そちらの小僧は要郭の役人ではないか」
「俺にもわからん。これが追われているらしい」
女の問いに、槍の男は答える。顎をしゃくって月旦を示し、浅葱に月旦が追われていたことを説明する。
「久しいな。月旦」
女が、門の壁に寄りかかりながら、月旦の名を呼ぶ。名を呼ばれた月旦の肩は、反射的に跳ね上がった。油の切れたぜんまいのようなぎこちない動きで、月旦は首を回した。門の前には微笑を浮かべる女が立っていた。
「…姉上」
殺気は感じられなかった。出会えば必ず刃を交えることになるだろうと予想していただけに、この状況は意外だった。月旦の姉・朔白はしばらく月旦の姿形を眺めた後、槍を構える夫・随訓に頷いて見せた。それで話は通ったのか、随訓も同じように頷き返す。阿吽の呼吸で、朔白の意のままに随訓は動くのだろう。
「そちらの小僧、怒りに我を忘れておるようじゃな。これが何をしたのかわからんが、これには謀反を起こせるほど力量も度胸もない。それでもこれに剣を振るいたければ、これに変わって随訓が相手をする。疲れ果て、怒る気力がそがれれば冷静にもなろう」
朔白の言葉には、どう解釈しても月旦を助ける意図しか見えてこない。疑問が月旦の心を支配する。一から説明して欲しかった。浅葱が自分を狙う理由も、朔白が自分を助ける理由も、どうして二人がこのような場所に居るのかも、何もかも、一から。
「……花冠司馬将軍を斬る理由はありません。僕が斬りたいのは御子だけだ!」
浅葱は一歩踏み込むと、随訓の刃を掻い潜って、月旦へ刃を向けた。
「!」
が、終幕はあっけなく訪れた。浅葱の大剣が随訓の槍に遮られ、
ガキィン!!
刃は大破し、大剣は屑の塊となった。
「片はついたな…」
朔白がそう呟いた。強敵だと思っていた二人を味方につけた月旦は、煮え切らない思いでいっぱいだった。