要郭編5
一方、群青とはぐれた月旦は、南門からまっすぐ延びる大通りを当てもなく歩いていた。立ち止まっていても仕方がない、なるようにしかならないだろうという群青の言葉が、月旦の心の中を幾度もめぐり、ならばその言葉通り動いてみようと思ったのだ。
「…行き先は弦莱と決まっているのだから、とにかく北西へ行けばよい。あいつなら、そのうち追いついてくるだろう、な」
月旦は、自分の足元に着かず離れずの距離でついてくる相棒の傍らにしゃがみこみ、その背を撫でた。牙城は月旦の言葉を理解しているのかいないのか、首をかしげて月旦を見上げる。そんな、普段と変わらない様子の牙城に、月旦は安堵する。黒い相棒も、おそらくは群青のことなど心配していないだろう。
開き直ると、一人きりの今を楽しんだ方が得ではないかと思えてくる。要郭は花冠と違って、建物や町並みが古風だ。月旦にとっては古風なものほど新鮮で、異世界にでも来てしまったような感覚に陥る。行き交う人々も同じなのか、古めかしい建物を眺めては、現地の者に話を聞いたり、中には絵にしようと道端に腰をすえる者さえ居る。皆、楽しそうにやっていた。
「こんなことなら、あの書簡をもっとよく見ておくべきだった…」
いざ一人になると、大きな町をどう進んでよいのか途方にくれる。どの道を進んでも間違いではない。遠回りにはなるかも知れないが、楽しむのならむしろ少しくらい寄り道をした方が、巡り合う人や物は多いだろう。しかし、寄り道の仕方がわからない。
「宮殿行きの船はこちらですー!往復、銅貨二枚!押さないで!」
大通りの奥の方に人だかりが見えた。宮殿行きの船について、案内をしているのは若い娘だった。娘は人波に飲まれながら、大きな板を頭上にかざしている。板には船の乗り場の地図と、往復料金が書いてある。ぞろぞろと、人々は道の先を右へ曲がっていく。そちらが船の乗り場なのだろうか。
「………」
月旦は人波が収まるのを待ちながら、ゆっくりと案内人へ近づいた。娘が板を下ろして一息ついたことを見とめ、意を決して話しかける。
「…こいつが船に乗ることは出来るか?」
「えっ?」
娘は一度月旦の顔を見上げて、それから月旦が撫でる牙城の顔を見た。娘には、揉みくちゃになった己の身なりを気にする素振りが見えた。髪や服を慌てて整え、少し赤らんだ顔で言う。
「あの、席には乗せられないのですが、手摺に繋いで、側を離れないで下さるのであれば、結構です」
「今まで一度も、綱に結んだことがないのだが」
月旦は娘に問うた。娘は戸惑ったように眉を寄せ、
「えっと…、そうですね…」
と、呟きながらしゃがみこむ。そして狼が怖いのか珍しいのか、恐る恐るといった感じで牙城の顔を覗き込んだ。娘に顔を寄せられても、人に慣れている牙城は大人しいままだ。舌を出して息を吐きながら、娘の様子を見守っている。
「他の乗客の方の、迷惑にならなければ…あ!この子が迷惑をかけるって決め付けてる訳じゃないんですけど…!あの、綱がなくても、きっと大丈夫だと思います、ハイ!」
娘は妙に照れながら、月旦にそう告げた。先ほどより一層赤みが増した娘の顔を見て、月旦は鋒琳のことを思い出していた。本来なら若い娘というものは、これくらい感情豊かで身なりを気にしたり、人の目を気にするものだろう。しかし鋒琳は初対面で牙城の首を締め上げ、身なりを気にするどころか血まみれの衣服で登場し、人の目も気にしなかった。泥に汚れることも衣服から派手に水を滴らせつつ、村の中を闊歩することも厭わない。
案内人のこの娘と鋒琳との違いに、思わず思い出し笑いが出る。月旦は微笑を浮かべて娘に礼を述べ、人波が去って行った方向へゆっくりと歩を進めた。
「お…、お気をつけて!」
娘が月旦の背に声をかけた。月旦は振り返って、娘に再び礼を述べる。
「ありがとう」
娘は一度、明るく微笑んだ。しかし、再び大波となった人々に飲み込まれ、すぐに姿が見えなくなる。
月旦はなんとなくだが、群青が他人に愛想よい理由がわかった気がした。こちらが好意的に近づけば、相手は邪険にせず、同じように好意的に返してくれる。見知らない他人と対話するときは、群青のように笑みを浮かべて近づけば、何も問題は起こらない。
「居ない人間に学んでばかりだ……」
月旦は船乗り場への道のりを進んだ。宮殿跡地へ行こうと言い出した本人ではなく、自分一人がそこへ向かっていることも、奇妙に思えた。