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君臣のドグマ  作者: 回天 要人
承章
32/51

番司編9

 海から上がった月旦は、蹲る鋒琳へ駆け寄った。「お祖父さん」という言葉は今朝の鋒琳の口からも発せられた。操られていたのなら、その文句が再び発せられたことは鋒琳が正気に戻った証拠ではないか。


「痛い…!」


 目の端に涙を浮かべる鋒琳は、左腕から血を流していた。傷口を押さえる鋒琳の右手の上に、月旦は己の右手を重ねて更に強い力で押さえた。


「腕を上げていろ」

「……月旦…?」


 鋒琳は驚いたように月旦の名を呼んだ。おぼろげだった瞳が、今度は不安げに揺れていた。鋒琳は疑問の視線を月旦にくれながら、何が起きたのだと目で問いかけた。月旦は鋒琳の腕を高い位置で支えながら言った。


「憶えていないのか」

「憶える…」


 わけがわからないのだろう。眉間に皺を寄せた鋒琳は横に首を振る。


「…お前、知らない誰かに会わなかったか?」


 月旦は嫌な予感に顔をしかめた。無関係の鋒琳が自分と花冠皇の揉め事に巻き込まれたのだ。花冠皇の手先はいつから自分を見張っていたのだろう。今朝の出来事がなければ、月旦と鋒琳が見知らぬ他人のままであったなら、鋒琳が怪我を負う必要はなかったかもしれない。


「月旦に会ったわ…」


 鋒琳はしばらく思案した後、月旦を見つめてそう言った。


「………俺以外の人間に、だ」


 鋒琳は視線を上に彷徨わせ、怪訝な顔をしたと思った瞬間、困ったように言う。


「お祖父さんの花を摘んでくれたのは、あなたでしょう」


 それきり鋒琳は何を聞いても、痛い痛いとこぼすだけになった。月旦に花など摘んだ記憶はなかったが、鋒琳にもっと詳しく話を聞こうにも、痛がってばかりで話にならない。鋒琳のあまりに痛がる様子を見て、困った月旦は縋るように群青を振り返った。

 群青は苦笑いを浮かべながら牙城に圧し掛かられていた。また、「悪かったって!」と牙城に向かって謝罪の言葉を叫んでいた。殺気を放つ敵でも居ない限りむやみに吼えたりはしない牙城だが、群青に跳ね飛ばされたことには腹が立ったのか、牙をむき出し盛大に吼えている。その様子に目を細めながら、月旦は小さくため息を吐いた。

 牙城を手甲であしらいながら、群青は月旦のあきれたようなため息を聞きつけ、口を尖らせた。


「わかったよ、医者でも薬師でも探してくればいいんだろ」

「…早くしろ」


 三者と一匹を興味津々の様子で見ながら、けれども、近づいて様子を知ろうとまではしない群衆へ視線をくれた群青は、小走りにそちらへ駆けながら「医者か薬師は居ないか」と呼びかけた。

 野次馬たちは群青が近寄ると途端に何も知らぬふりをした。自分は野次馬ではないのだ、商売に忙しいのだと、慌てて地面へ並べた品物を整えるような素振りをしだす。妙な事件へ首を突っ込みたくない、事件を根掘り葉掘り知りたいと思うような、いやらしい人間だと世間に思われたくないのだろう。鋒琳に怪我をさせたのは自分とはいえ、体裁を気にしてすぐそこの怪我人に見て見ぬふりする人々へ、群青は心の内で悪態をついた。


「私は、医者の娘です…!」


 群青と視線を合わせないように明後日を見る人々の中に、鋭い声を発する人物がいた。群衆を掻き分けて群青の前へ躍り出た娘は、単の着物に括袴を履き、腕には篭手をしていた。おそらく旅人なのだろう。年齢は、群青よりいくつか上かもしれない。黒髪を耳朶あたりで真横に切りそろえた頭は、以前は腰ほどもあった髪を一掴みにして切り落としたように見えた。その証拠に、襟足の一束だけ、長さが腰ほどまである。長い一束はきっちりと束ねられ、娘が動くと生き物のように揺れ動いた。意思の強そうな声に反して、おっとりして見えるのは、娘の目が垂れ気味だからだろう。ぽってりした唇も、娘を少々幼く見せている。背に背負った荷は何が入っているのか知らないが、荷を包んでいる布が娘の華奢な肩へ食い込んでいた。


「怪我人でしょうか?」


 問われた群青は娘を先導しながら、鋒琳の状態を話した。群青の言葉に頷きで答える娘は、歩きながら背中へ手をやって、荷から血止め薬と思われる薬を取り出した。


「おい、月旦。連れてきたぞ。医者の娘だそうだ」


 群青の呼び声に顔を上げた月旦は、その傍らに立つ医者の娘に視線をくれた。娘は月旦に会釈をして、名乗った。


「茴香と申します」


 茴香は名乗った後、しばらくじっと月旦を見つめた。茴香が固まったまま動かないので、不思議に思う月旦だったが、記憶を何度たどっても茴香とは面識がない。


「……痛いの…」


 鋒琳が再び呟いた。その声にハッとなった茴香は、鋒琳の傷を診ようと身を屈めた。鋒琳の腕を取ってじっくり検分すると、茴香はよほど切れる刃だったのかと二人に問うた。


「傷口が綺麗です。これなら、きっと痕も残らないでしょう」


 茴香の見立てに安堵したのは群青だった。月旦に自覚があるかどうかはさておいて、群青には鋒琳という少女が月旦にとって大事な娘であるように思えた。ゆえに、鋒琳に傷が残るとなれば、月旦の機嫌を損ねる可能性がある。月旦が鋒琳をどことなく気に入っているのだろうということは、今朝の微笑ましい芋洗いの様子からも窺えた。また先ほどの月旦の必死な様子も汲むと、やはり鋒琳は他の娘とは何か違うと思う。未来の弦莱女皇というのも、本当にありうるかもしれない。

 鋒琳の腕に血止め薬を塗り、すばやく包帯を巻き終わると、茴香はそそくさとその場を後にした。まるで逃げるかのようなその態度に、何ゆえだろうと頭をひねる月旦だったが、結論を出すには至らなかった。


「で、この子を家まで送ってやるか?さっきは気が付かなかったけど、花冠の敵にしちゃ様子がおかしいしな」


 すっかり冷静になった群青は、一連の出来事を思い返しながら月旦にそう提案した。月旦は群青の提案に頷き、


「鋒琳は誰かに操られていたんだろう…。花を摘んだ俺、というのも気になる。家まで赴けば、事情を知るための手がかりがあるかもしれない」


 と答えた。

 月旦は鋒琳の腕を取り、群青に先立って鋒琳の家へと歩き出した。数歩の距離を置いて、ゆっくりと二人の後を追う群青は、人知れず微笑を浮かべた。思えば今までの道中、道の先を行くのは常に群青で、月旦は後についてくるばかりだった。一年間の旅の間に受身の姿勢ばかりだった月旦も成長したのだと、群青は親か兄弟のような目線で月旦をながめた。

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